ペトロの手紙一1章1-2節、詩編124篇 「選ばれた人の歩み方」

20/7/5主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一1章1-2節、詩編124篇

「選ばれた人の歩み方」

今日からこのペトロの手紙一より御言葉を聴いてまいります。これは当時ローマ帝国による迫害の恐れの中にあった教会に使徒ペトロが書き送ったものです。信仰が試されるとき、教会は、一人一人のキリスト者は、どこに目を留め、どのように歩めばよいのか。それをあのペトロが書き送るのです。先に聴いてきたマルコによる福音書でもペトロのつまずきは強調されていました。イエス様の十字架前夜、ペトロはイエス様に向かって、私は死んでも従いますと言った、その日、ペトロはお前もあの男の仲間だろうと問われて、違う、知らない、関係ないとイエス様を否定します。そのペトロが今まさに信仰の試練に直面している教会に何と書き送り得たか。つまずく直前の彼のように、死んでも従えと言うのではないのです。けれど、従わなくてもよいと言うのでも無論ない。信仰の話をするにあたって、人間から話を始めんのです。そもそも信仰の歩みは、どこから始まったのか!そこから使徒は話を始めます。

仮に試練の質が違ったとしても、そこで問われる私たちの信仰は、どこから始まったのか。私が頑張って信じて、握りしめて、他の人はつまずいても、私はつまずきません、死んでも従いますと、自分の力で貫くのが信仰だと思っている時には、あの時のペトロのように、私が!から信仰は始まるのだと思ってしまっているのではないでしょうか。

でも、そう思っていたペトロを、そしてつまずいたペトロをイエス様は、救い主として抱きかかえて十字架で死んで下さって、それはでも、ペトロが信じて従ったからではないのです。従えなかったのです。従うことが条件で、それで救われると考える、その信仰が信じているのは、本当は神様を信じているのではなかったとペトロは思い知ったのです。そしてペトロが信じた神様は、従えなかったペトロを愛して、十字架で全て背負われた赦しの神様は、私たちの死という試練をさえ乗り越えてしまわれる、復活の神様だ!それがイエス・キリストによって私たちを救われる、恵みと平安の神様だ。この神様の恵みと平安が、あなたがたに増し加えられますように!そう、心からの祝福をもって手紙を始めたペトロが何よりも最初に強調して、イエス・キリストの使徒として教会をこう呼んだ!その急所の言葉がこれです。「選ばれた人たちへ」!

私たちの信仰がどこから始まったか。それを選ばれた神様からだと、2節で「父である神様が予め立てられたご計画に基づいて…選ばれた」から、だから私たちは、私たちの思いを超えて、いまキリストを信じる歩みを歩んでいるんだと使徒は告げます。それが恵みです。言い換えれば、選ばれた理由は、私たちの内にはない。一切ない。人間の世界では大体、選ぶ理由は相手の何かにあります。可愛いからとか、信頼できるからとか、できなさそうだけどお金をもらったからとか。でも、神様が私たちを選ばれた時、その理由は私たちの内にはないことを、ペトロも知っておったし、また本当は私たちも知っているのだと思います。自分の罪と醜さを知る者は、どうして私がという思いと共に、でも嘘の謙遜でそう言うのじゃなく、そんな私なのに神様が愛して下さってイエス様を死なせて下さった、その血を注ぎかけて下さったという感謝と共に、その理由は全て、あなたのみにありますと、賛美できる。試練の時にも私たちは賛美するのです。試練の時にこそ、一層、賛美歌の歌詞が魂に染みてきてアーメンと歌うことも、きっと知っておられると思います。もう本当に神様、あなたです、あなたが救って下さるのですと、十字架の恵みが大きくなる。本当は自分が小さくなっていって、神様の本当の大きさが見えてくるのですけど、そうやって小さくなれる謙遜さも選びの理由ではない。むしろその神様を知るから、小さくなれるのです。

そしてもし何か人間の側に、教会の選びの理由があるとすれば、その理由は、教会の側にあるのではなく、その教会が向かう先にあります。赦しをまだ知らない世界が、同じ十字架の恵みによって、罪と死と裁きから救い出されて、平和を得るために!そのために神の子が死んで下さったその人この人が救われて、朽ちることのない命に共に生きるため!そのために教会は選ばれたからです。そのゴールに向かってキリストが今も生きて働いておられるから、その人々を愛して罪を負われた救い主イエス・キリストが「わたしについてきなさい、選ばれた者たちよ」と呼んでおられるから、そのために私たちは選ばれたのだから、だから私たちは主に従って、人々の救いのために選ばれた歩みを歩むのです。

それが具体的にはどういう歩みかを、使徒はこれから語っていきますが、その一切の目的は唯一つです。私たち、色々と思い煩い、どう生きようか、どの道を選ぼうかと悩みますけど、その一切を、この唯一つの目的に従わせたらよい。そこを外して神様が誰かを導かれることはないからです。そしてもし私たちが的を外して罪を犯しても、主の血を注がれ赦された者として、唯一永遠の救いの目的に従い直せばよい。そこにペトロ自身も知って満たされた、恵みと平和の道があるからです。