20/6/28主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書16章19-20節、出エジプト記34章4-10節 「主が共に働いて下さる」

20/6/28主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書16章19-20節、出エジプト記34章4-10節

「主が共に働いて下さる」

「主イエスは」と、今朝の御言葉の主語が語られます。誰が、教会の主であられ、私たちの人生の主であられるのか。私たちではない。罪を背負われた方。十字架で身代わりに裁かれて死んで下さり、それ故に、あなたの罪は赦された、信じなさい、わたしのもとに来なさいと、主として私たちを永遠の救いに招かれる主イエスが、私たちの主です。

今更のようですが、イエス様の名前の前に「主」とつけられるのは、もちろん単なる肩書ではありません。でも、ともすると何となく使って意識しない言葉になっていることもあるかもしれません。その主イエスという言葉が、この福音書の最後の最後で、言わば礼拝の最後の祝祷の言葉のように「主イエス」と強調されます。

聖書がイエス様を呼ぶとき、しかも天の父から遣わされた方として、この方を置いて他に、世の罪を負われて死なれた救い主はおられない、この方が、あなたの主だ。見よ、主だ!とイエス様を呼ぶときには、襟を正して、主、あるいは主イエスと呼ぶ。それがこの御言葉です。

皆さんは、イエス様を呼ぶときに、主よと呼びますでしょうか。聖書は呼んでほしいのです。神の右の座に着かれ、主として私たちの一切を父に執り成しておられる方を、世の罪を負われ十字架に架かられた救いの主として、赦すためのご支配をなさっておられる方を、主よと呼んで生きる、福音に生きてほしい。言い換えれば、自分を主とする生き方である罪の方向から方向転換し、主の十字架の赦しのもとに身を置いて、私の罪は、主よ、あなたに背負われましたと、キリストを主と呼んで、恵みに生きるようになる。それが悔い改めるということ、キリストを主と呼ぶようになるということだからです。

だから、単なる呼び名ではありません。主とは、イエス様と私の関係とは、具体的に、どういう関係かを言い表す、関係の言葉です。

例えば、私以外の人間が、私の妻を妻はと呼ぶのを聴いたら、腹を立てるか、妻という言葉の意味を間違えているのかなと思うでしょう。妻とは、夫との関係を言い表す言葉であって、その言葉を使う者自身に、それでは私は誰であるのか、妻の夫だと、自分にも世にも、宣言するような言葉だからです。

改めて皆さんは、イエス様を呼ぶとき、主よと呼びますでしょうか。ぜひ呼んで頂きたいと願います。無論イエス様と呼んでも、キリスト様と呼んでもよいのです。私も一人で祈る時には、イエス様と呼ぶことが多いと思います。名前で呼び合える密接な関係を感じもするからです。けれど私は誰であり、その私のために死んでくださったこの方は、一体どなたであるのかを、特に祈りにおいて覚えて、主よと呼ぶことは、襟を正して、この方の前に立ち、あるいはひざまずく信仰の態度を、改めて心に呼び覚ます上で、大切な言葉なのです。この方は、一体どなたであるのか。そして私は誰であるのか。私は、主の僕です、と襟を正す。そして主はご自分の僕の祈りを、その名にかけて執り成して下さると、主を信頼して、主イエス・キリストの名によって祈る。教会は、ずっとそうやって祈りを捧げ、その祈りから押し出され、復活の主の僕として立ち上がらされて、福音伝道に遣わされてきたのです。

私たちの祈りも伝道も、ただ私たちが好きでやっているのではない。またできもしないのに、やらないかん働きなどではない。そのことを、主との関係において、十字架と復活の主の前で知り直すのです。主よ、これは、私の主であるあなたの愛のご命令なのですねと、主から御言葉をいただいて、信仰を受け取り直して、主の僕として立ち上がって世に出ていく。

そこに主が共に働かれ、そのしるしが、そこに伴うと約束されます。しるし。英語ではサイン。例えば道路標識もサインと言いますが、高知では山道を走っていたら、イノシシの絵を描いた標識を見ます。でも、おおカッコええと見とれて、前におるイノシシにぶつかったら、しるしの意味がない!つまり、です。しるしを与えた、目的が大事なのです。これをして欲しい!イノシシに注意して、よけてほしいという目的。

宣教、福音伝道もまた同じように、いやむしろ、主にぶつかるぐらいに出会って欲しい!さあ見なさいと、御言葉を証しする主の僕たちと共に働いておられる主イエスから!実にサインが送られているのです。このことが起こるように!と。それは、主の御言葉を信じることです。

20節で「彼らの語る言葉が真実であることを」と訳されていますが、原文を英語で言えば、The Word!「御言葉を確かにされ」です。御言葉を聴く人、また御言葉に生きる主の僕たちを見る人が、確かにこれは、主が私に生きて働きかけ語りかけて下さっているのだと、主の御言葉として信じるようになるために、そこに向かって主ご自身が、共に働いておられる。それが、そこに伴う、主からのしるしなのです。

それは例えば先週申しました、手で蛇をつかむとか、無理!無理!というしるしだったりしますが、無論ここにしるしが網羅されているのではありません。主が共に働いておられて、この人が主の救いの御言葉を信じるために!という目的に向かってなされる働きは、その一つ一つが特別で、個別で、主が命がけで背負われた、その人の救いのためになされる御業だからです。だから、そこになされることが何かを、私たちのほうで決めることはできません。が、決まっていることはあるのです。それは、その人が主を信じるために、そこで何かが起こっていること。そしてそれが起こったのは偶然ではないということです。

以前TVで、出エジプトの海が割れた間を主の民が通ったという話は自然現象で説明できるという番組を見ました。でもそれで聖書を否定しているのでなく、その時に丁度そういう自然現象が起こるように神様が調整したとも信じられるといった、まあキリスト教を重んじてきた国の番組らしいなと思いましたが、一つ要点は得ていると思うのです。そこで起こったことが超自然であろうとなかろうと、そこで起こったことはたまたま偶然に起こったのではないということです。

具体的に言えば、今朝世界中で、あるいはこの教会の礼拝に来られて御言葉を聴いているということは、そしてそこでこの御言葉が語られ、丁度その時に何かを思いながらそこにいて、丁度ここに来る前に何かがあって、何かに導かれるようにして、そこで主の御言葉を聴いているのは、すべて偶然なのでしょうか。そうではないのです。私たちが御言葉を信じるために、主がそこで御言葉と共に働いて、既に十字架で全てを主に背負われた私たちが、その十字架の主の御言葉を信じるようにと、主が共に生きてここに働いておられるからです。

その働きをなさる、主イエスを信じられるから、教会は主から遣わされた主の僕として、今日も御言葉に生きられるのです。次週の聖餐式での祈りを先取って言えば「わたしたち、主のからだのえだである自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができますように。また、キリストの復活の力を知り、その苦しみにあずかり、おりを得ても得なくても、みことばを宣べ伝えることができますように」。

そして私たちは宣べ伝える。言葉だけでなく生き方においても。それが私たちのやる気や知恵や力によらず、主が共に働いて、救いの御業となして下さるから。神われらと共にいます、インマルエル、主イエス・キリストが私たちと共におられるから。信じてよいのです。主は私たちの救いの主であられるからです。