20/6/14主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書16章1-8節、ダニエル書10章7-11節 「何もかも規格外の復活」

20/6/14主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書16章1-8節、ダニエル書10章7-11節

「何もかも規格外の復活」

イエス様の葬りを、自分たちはきちんとやり切ってないと思って、主のご遺体に塗ろうと思って買ってきた香料、結局どうしてしまったのでしょう。恐ろしさのあまり、カシャンと地面に落として割ってしまったかもしれません。あるいは我を忘れて走って逃げた後、少し落ち着いて自分の手の中にある香料の壺を見て、あ、これどうしたらえいろうと、混乱したまま、考えられないまま、既に買ったときの意味を失った香料を、ただ見つめておったかもしれません。

そんな香料のことらあ、どうでもえいろうと言われたら、確かにどうでもえいのです。が、神様の前に生きる私たちの生活や人生の中にも、こうした意味を失った香料のようなもの、ないでしょうか。どうしてもこれは必要だと思ったのです。何としてでも手に入れないかんと思ったのです。大事な意味を持っていたのです。自分にとっては。それを用いて、本当にしたいこと、しなければならないことをするためには、自分の力では動かせない岩が動かないかんのですけど、そこまで具体的には考えないまま、でも自分はこれ!をせないかんからと、自分にとっては本当に大事だからと。

でも、その私たちのために岩を動かしてくださった神様の救いの現実の前に立つときに、それまでは意味のあったものが古くなってしまう。大事だったはずの意味を失ってしまう。神様が示される復活の命の現実を前にしたら、じゃあこれはどうしたらよいのか、となってしまう古いもの。今も持ってないでしょうか。主の葬りに来た女性たちにとって、その香油は自分たちのできる最善のことだったと思います。また、しなければならないことのためには必要だったに違いありません。でも意味を失うのです。それが、人が信じて、人が正しいと思って、自分たちの思う愛を込めて行う、人による宗教あるいは信念の世界です。そして、そこに、生きておられる神様が介入して入って来られたら神様の現実の世界が、信仰の世界が始まって、動き出すのです。

今朝の御言葉のように、神様の現実に直面することが、恐ろしい体験でもあるのは、それが自分の思いを超えるからでしょう。自分が正しいと思っている世界が壊される恐れとも言えるでしょうか。自分が思っている信仰の世界も含めて、神様はこういう方で、救いはこうで、自分はその中で、こういう生き方をして…それが意味を失う、というか理解できなくて、怖いと思う。距離を置きたくなる。逃げるとはそういうことでしょう。物理的にも距離を置いて、精神的にも、その現実から離れたいと思うほどに、神様を、自分の理解できる何かとして信じたい人間の弱さが、神様の現実の中で露呈するのです。恐ろしいと思う。正気を失うほど、人は古い自分の支配から抜け出せない。

ずっとキリストの福音を伝えてきたマルコは、その最後で、キリストの救いの福音をそのまま受け入れられない、人間の弱さを描くのです。正直、え?と思う終わり方じゃないでしょうか。9節以下は、詳しくは次週話しますが、マルコが書いたのでなく、言わば編集者の加筆です。だからと言って聖書でなくなるわけじゃないのですが、やはり、これで終わりは…と思う人が多かったのでしょう。あまりにも信仰がなさ過ぎに思える終わり方に、つまずく人がおったのかもしれません。

でも、そうやって人が自分の強い信仰で信じて、信じたから救われるんだろうというストーリーを求めるのも、人間の人間による人間のための宗教を求めて、神様の恵みに生きられない、根本的な人間の罪深さと弱さを露呈しているのではないか。何故、こんな尻切れトンボのような終わり方なのかは誰も分からないのですけど、ここでマルコが強調して描いていることが、本当に弱い人間の姿、弟子たちの姿であることは、疑いえないのです。弱い。本当に弱い姿が描かれます。そもそも香油を塗りに行く時に誰も、イエス様が、わたしは三日目に復活すると何度も約束された言葉を信じてなかったのでしょうか。早う行かんと復活してしまうきという話ではないのです。1㎎も信じてなかったとは思いませんが、行動と態度に現れ出るのは、信じてないやいかという信仰の弱さなのです。墓の中にいた天使も「かねて言われた通り」と、イエス様がほらこう言うちょったろうと、弟子たちに思い出させようとする通り、イエス様は弟子たちに約束されておったのです。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」と。その御言葉をご一緒に開きたいと願います。右に頁を二枚めくった右上92頁14章27節から31節。

「イエスは弟子たちに…皆の者も同じように言った。」

結果はご存じの通りです。つまずくのです。弱いのです。自分は強いつもりでも、本当は弱い。今の時代にペトロがいたら、きっと愛唱讃美歌は「主我を愛す」です。主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。でも、絶対に言いませんと、力を込めて言い張った時には、自分は強い信仰があるからと信じていた。その自分信仰こそが、弱い信仰なのに。

そのペトロの弱さを、神様は、しかし深く憐れんで心に覚えられて、今朝の御言葉の7節で、こう天使の口に神様のメッセージを与えられるのです。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」そして先に読みました、復活された後、先にガリラヤに行かれる話をされる。まさに、その話を主がなさった時に、ペトロは自分の強さを訴えたのです。どんな思いで主が、先にガリラヤに行くからと言ったかなど全くおかまいなく、自分はと主張した、そのペトロに、本当は弱くてどうしようもなくて今きっと落ち込んで本当にどうしようもなくなっているペトロにどうか告げてほしいと。今ならわかるだろう、どんなに御子があなたのことを心配していたか、さあ、憐れみ深い羊飼いである主キリストが、あなたと会うことを願っていると、天使を通して言われるのです。

どうして復活されたイエス様が、弟子たちより先にガリラヤに行くと言われたか。以前、それは弟子たちが、まさにそのガリラヤでイエス様に出会って、御言葉を聴いて、主の弟子としての新しい命が始まったからだと説教しました。でも、まだイエス様の復活の知らせを聞いてない時点での弟子たちの心境からしたら、もうイエス様も死なれて、ここにおったら自分らの命も危ないと、ガリラヤは、もう逃げかえる場所でしかなかったと思います。どの面下げて帰ったらよいのか、という場所であったかもしれません。でもその場所に、もう弟子としての歩みを終わりにして逃げ帰るしかないと思っていた場所に、主を信じ切れなかった弟子たちに先んじて、主が行かれるのです。その弟子たちの罪も弱さも何もかも一緒に、全部受け入れて救うために、十字架にかかられた主が弟子たちよりも先に行かれて、逃げるのでも何でもいいから、わたしのもとに来なさいと待ち構えて下さっているのです。天使たちから伝言を与えられた婦人たちも逃げた。私たちだって逃げることがあるかもしれないし、既に何かから逃げ出しているかもしれない。それでもいいからわたしのもとに来なさいと、復活の主が、十字架ですべてを受け止められた愛の両手をお拡げになって待ち構えていてくださる。このキリストに出会うのです。このキリストに救われるのです。そしてこのキリストの弟子として、弱くても逃げ出してしまっても、キリストの弟子として用いられるのです。強いから用いられるのではない。弱さの只中でこそ明らかになる、キリストの愛の強さを、罪の赦しと、恵みによる救いの確かさを、わたしは弱いけど、主は強いからと証しする。それが復活のキリストの弟子なのです。その私たちを、ご自身の弟子として受け入れ愛して用いて下さる恵みの主のもとに、今日も呼ばれているのです。