20/6/7三位一体主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書15章42-47節、イザヤ書53章 「墓を空にするための死」

20/6/7三位一体主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書15章42-47節、イザヤ書53章

「墓を空にするための死」

その場所を見つめていた。見つめる他なかった。主は本当に死んでしまわれ、そして墓の向こうに葬られてしまったからです。

先に告白した教会の信仰の中でも「死んで葬られ、陰府にくだり」と、キリストの葬り、そして陰府に降られたことを告白しました。キリストが、ただ死なれただけでなく、葬られ陰府に降ったと毎回告白します。

何故でしょう。ほぼ説教のたびに告げますが、私たちのために人となられた神の子キリストの死は、すべての人の償いのための死です。でも死んで償われるなら、何で、すぐ復活されずに、三日目に復活することにされたのか。すぐ復活してしまうと、本当には死んでなくて仮死状態にあったのだと疑われてしまうからだと考える人もいるようです。色々な推測ができると思いますが、聖書はキリストの葬りを、どの福音書も丁寧に描きます。名乗り出たヨセフの身分が高く、マタイによれば自分の墓に葬ったことまで丁寧に記します。

先に読みましたイザヤ書で「富める者と共に葬られた」と預言されていた通りですが、身分の高い富めるヨセフが選ばれたことにも意味があります。特に預言者イザヤの時代、富める者はこの世と妥協した生き方をして神から離れた生活をする傾向が強かったからなのか、富める者と言えば「神に逆らう者」、例えば徴税人であったザーカイのような罪人のイメージで言われることが少なくありません。だから「神に逆らう者と共に葬られた」「罪人の一人に数えられた」と、キリストが十字架の死において、神様から遠く引き離された死に方をしただけでなく、その葬りにおいても!神様から引き離された葬りを迎えたと言うのです。

神様から引き離された死、そして神様から引き離された葬り。つまり「陰府にくだり」とは、死んで葬られる者が、もはや命ある者が生きる場所とは別の場所に降って、引き離されてしまうということを心に刻む言葉です。死とは、命との離別、そして命ある者と引き離される離別である。その事実を、御言葉は重く受け止めるのです。

私たちが行う葬りも、私たちが住む場所とは別の場所に死者を葬ることで、もう離れた場所に行ってしまった、遠く離れてしまった、死んでしまったという事実を受け止める儀式だとも言えるでしょう。今の日本では火葬が多いので、すぐには葬らず遺骨と共にしばし住むことも少なくありません。一昨年に召された姉妹のご長男家族も、姉妹の近所ではありましたけど、少し離れた場所に住んでおったからでしょうか、姉妹の遺骨と一年と少し共に暮らして、先のイースターの後、お墓への葬りをなさいました。現代心理学で言えば、もう一緒にはいない現実を受け入れ、気持ちの整理をつけて前に進むための儀式が葬りだとも言えるのでしょう。実際にはもう離れていても、それを受け入れるのが苦しい、離れることが辛い死の現実があるからです。

そこにキリストの葬りを、聖書が丁寧に語る理由もあるのです。主は単に私たちの罪と死を、言わば単に法的に代わって引き受けられたのではないからです。代償の償いが支払い終えられて、ハイじゃあ、法的な処理はもう死んで終わったから、復活してそれを証明しましょうかと、そんな事務的な話ではないからです。神様にとって、いのちとは、一切事務的にしてはならない、永遠の最重要事項です。罪を抱えて死ぬということは、神様からも人からも、一切の大切な関係から引き離されることだという現実を、キリストはそのまま引き受けて死んで葬られ陰府に降られた。死んで陰府に降っても別に平気という話では決してない。

現代では日本でもピンピンコロリとか言って、死ぬ時だけ苦しまなくて死ねたらという考えが当然のようになっていますが、現実の死は違うのです。死は死ぬ瞬間の話ではなく、葬られ、陰府に降って、いのちと引き離されるのです。そのまま次の世界にという話ではなくて、世界と完全に引き離されて、別のところに移されてしまう死の現実。その死の現実の苦しみを、悲しみを、引き離された死別の絶望を、キリストは、やがて必ず死ぬ私たち罪人の主として、代表者となられて、身代わりに責任を引き受けられて、わたしが神様と引き離されて陰府に降るから、あなたが死んで陰府に降っても、あなたは引き離されてはしまわない!わたしがあなたと共にいる神、わたしは主、あなたを見捨てない神だから、あなたはわたしの赦しと復活の約束に包まれ抱えられ引き上げられて、わたしと共に復活して生きなさいと、その私たちの救いのために、主は死んで葬られ、陰府に降るのです。真っ逆さまに降られるのです。そのキリストの死と葬りと陰府降りによって、私たちが死んでも、その罪を赦されて、三日目に復活された主と共に、復活させられて生きるためにです。私たちが、やがてその罪のゆえに死んで葬られるその墓も、その後、空にされるのです。キリストを死から復活させられた全能の父が、私たちをも復活させられ、墓から引き出して下さるから。だから主の死を告げ知らせるこの聖餐を祝い、いのちの主と共に生きるのです。