20/5/31聖霊降臨日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書15章33-41節、詩編22篇10-32節 「陰府降る主の聖霊降臨」

20/5/31聖霊降臨日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書15章33-41節、詩編22篇10-32節

「陰府降る主の聖霊降臨」

イエス様の十字架と復活から50日、ギリシャ語で50番目を意味するペンテコステの日に、三位一体の聖霊様が主の弟子たちに注がれ、教会が誕生しました。だからペンテコステは教会の誕生日と呼ばれることもありますが、急所は何故!生まれたかです。何故、神様は教会を言わばお産みになられたのか。何のために教会は生まれてきたのか。

これは私たちも、自分は何のために生まれてきたのだろうと考えたことがある問いかもしれません。重要な問いです。何のために生まれてきたのか。私は10代の頃、この問いを真剣に思って、やがて神様を知り、キリストを信じてからは、ますます神様から自分に与えられた、人生の目的に歩みたいと強く願いました。だからということもあるでしょう。何故、教会が生まれたのか。そして教会で洗礼を受けて新しく生まれた私たちが、その教会の一員として何を目的に歩むのかを教わったとき、自分がどのように歩めばよいか、よくわかりました。

それが今朝の御言葉で教会の頭であられる主が叫ばれた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」の「何故」の答えです。何故、父なる神様は御子を捨てられたのか。それは主が身代わりに捨てられることで、人が神様から捨てられないで、救われて神様と生きられるためです。そして教会は、この救われて神様と共に生きるという人生の答えを、生きて世界に証しするために生まれてきた!それが聖霊降臨日に神様が教会を産まれた理由、そして私たちが、教会として救われて生きる目的です。御言葉の百人隊長のように、世界が「本当にこの人は神の子だった」と共にキリストを仰ぐために教会は生まれた。

この神の子という言葉は、戦時中使われた言葉で言えば現人神、人として現れた神という意味で、当時のローマ皇帝に使っていた言葉です。だからローマ軍の百人隊長はイエス様に会う前から、神の子言うたら、うちの皇帝のこと、神として崇拝されゆうローマ皇帝のことやかというイメージでイエス様のことも見たんじゃないかと思います。なのにこれで自分を神の子とか王とか呼びゆうがか、情けない、どこが神の子な、いたぶっちゃれと、笑っていたのかもしれません。が、先週の御言葉でイエス様が十字架に釘打たれる前の麻酔を拒まれたのを見て、何故?と疑問に思ったんじゃないか。疑問に思うというのは大事なことだと思います。でも疑問に思わんまま、イエス様の服をくじで分けた兵士たちもいて、今朝の御言葉でも、イエス様が叫ばれた言葉を、おお、エリヤを呼びゆうぞ、どれ、助けに来るか見よろうと、旧約の預言者エリヤのことだと勘違いしたまま、十字架を見物する人々の姿が描かれます。そこで飲ませようとした酸いぶどう酒は、兵士たちが水の代わりに飲む薄くて酸味が強いぶどう酒と水を混ぜた飲み物で、イエス様が相当に弱って見えたので、ちょっと元気にせなエリヤが来る前にくたばるぞと笑い物にしておったのでしょう。

でもそんな考えは全く空しく、イエス様はそのすぐ後で死なれます。次週の44節で報告を聴いたピラトが、もう?と驚くほどです。前夜から続いた暴行がよほど酷く、また鞭で打たれ、釘打たれ、ぶら下げられて弱り果てて、わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですかと、先に読みました詩編22篇の最初の言葉を叫ばれて死なれます。でもあの詩編は、わたしの神は見捨てない方だと信じて、あなたは、あなただけは違いますから、だから助け出して下さいと求める祈りです。でもこの時のイエス様は知っているのです。わたしは見捨てられると。その代わりに、愛する者たちが見捨てられないために、わたしは見捨てられると知っていながら、耐えられず叫ぶのです。何故、わたしを見捨てられるのですか、わたしの神よ、わたしの神じゃないですか、あなたじゃないですかと。助けられないことを知ってながら、信頼する父から見捨てられた悲しみに耐えられない。その絶望に飲み込またまま弱り果て、全地が暗くなるほどの、全人類の罪の闇をお裁きになる神の裁きの絶望を全て身に負われた神の子が、最後に絞り出すように大声を出されて、息を引き取られた。

その最後の言葉は「成し遂げられた」だったとヨハネによる福音書に記されます。人間の償いは成し遂げられたと。それをマルコは、二つのことで示すのです。一つ目が38節の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。二つ目が39節での百人隊長による神の子告白です。

神殿の垂れ幕とは、その向こう側に、神様の場所を象徴する至聖所という場所があって、年に一度だけ、大祭司だけがそこに入っていって、民の罪の赦しを執り成すための、いけにえの血を注ぐのです。でもその大祭司が、福音書で言われる祭司長が、イエス様を殺すのです。本当にこの方こそが全人類のための神様のいけにえだとは知らないで。でも、神様は知っておられて!だから垂れ幕を裂かれたのです。ヨハネが記したように、この十字架で注がれた罪なき神の子の命と血によって、人類が歴史を貫いて犯し続けてきた罪の、全ての人間の罪の償いが、完全に成し遂げられたからです。それが聖なる三位一体の神様の救いのご計画であればこそ、十字架で成し遂げられたキリストの償いに、更に償いをつけ加える必要は一切ない!完全な償いが成し遂げられた!終わった!完全に終わったから、だから神様と罪ある人間との間を引き裂いていた隔ての壁を象徴していた聖なる神殿の垂れ幕を、神様は天から真っ二つに引き裂いて、この隔てこそ引き裂かれたから、償いは終わったから、だからあなたは、わたしのもとに来ることができる!誰でもキリストによって、わたしのもとに来なさいと招かれるのです。

そして二つ目、百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と告白したのは、そのようにして人は、神の子として人として来られた御子の償いの故に、誰でもが救われることを、世界よ聴けと、神様が彼によって告知しておられるのです。本当にこの方が神の子として、罪人の身代わりに死んで下さった神様だから。それが神様の、恵みによって私たちを救われるという聖なる御心であったから。ここに神の子がおられる。この方が、十字架で罪を背負い切られた、あなたの神だと、百人隊長によって神様は、世界に告げ知らせておられるのです。

そしてこの、世界に対する救いの告知と招きから三日後の主の復活、そして50日後のペンテコステに与えられた教会の誕生によって、まず弟子たちに、そして世界中に、キリストによる救いの知らせが届けられていった。そして、ここにも主の救いの教会が立ったのです。神様が、ペンテコステの時と同じように、聖霊様のお働きによって、主の僕たちを用いて、ご自身の教会を立てられたからです。それは、ここから更に救いが届けられるため!もっともっと多くの人々が「本当に、この人は神の子だった」、嘘やなかった、本当やったと、キリストを信じ、信仰を告白し、洗礼を受け、罪赦されて、神の家族として新しく教会に加えられて、永遠の目的に向かって歩み出すためにです。

キリストが死なれたのは、そのためです。キリストが生きられたのはそのためです。そして今も人として、私たちの代表として、王として、全能の父なる神様の右におられて主が生きておられるのは、私たちが、この救いに生かされて共に生きるためです。

その恵みを、改めて心に刻み、救い主の御名をたたえて、この目的に生き直すために、ペンテコステはあるのです。今も同じ主が、私たちを救ってくださるから。同じ聖霊様が、私たちを用いてくださるから。父の御心が、そこに成されていくからです。