20/4/19復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書14章43-52節、詩編37篇39-40節 「逃げた人を捕らえる愛」

20/4/19復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書14章43-52節、詩編37篇39-40節

「逃げた人を捕らえる愛」

ユダはイエス様に対して随分、思い違いをしておったのだなあと思わされます。イエス様は逃げんのに。むしろ私たちの救いのため、全能の父なる神様の裁きの御手に、捕まって、引き渡されるために、人として来られたのに。逃げると思うて言うたのでしょうか。「捕まえて、逃がさないように連れて行け」と。

それはひょっとして、自分が逃げたからかもしれません。12弟子の一人として、自分が選んだんじゃなくて、イエス様から選ばれたユダは、でも、そのイエス様から逃げた。どうして逃げたのか。私たちは何かから、あるいは誰かから逃げる時、どうして逃げるのか。単純に言えば、怖いから。例えば、命を失ってしまうかもしれない。大切な人を失ってしまうかもしれない。失ってしまう恐れの故に、人は逃げる。必ずしも悪いことではありません。逃げたほうが良い場合もあるのです。ユダは何を失いたくなくて、イエス様から逃げたのでしょう。きっと失いたくない何かが、心の中にあったのだと思います。それが何だったかはわかりませんが、きっとイエス様の弟子として、そのまま従っていったら、自分の思いが実現しないと思って、逃げたのかもしれません。

ユダを責めるつもりはありません。ユダの裁きも、また誰かを裁こうとする者への裁きも、裁きは、十字架で罪を償って死なれたイエス様がなさいます。そしてそれはそうやって罪を犯して、罪に敗北する私たち人間の思いに打ち勝って人を救われる神様の思いが、「聖書の言葉が実現するためである」と、主は言われるのです。だから自分の思いは負けてよい。その私たちのためにキリストが勝って下さったからです。

世界は今、世界史的な危機の中にありますが、この見えないウイルスに対して、私も感染しているかもしれない、また誰かを感染させてしまうかもしれないと恐れることは、むしろ健全な畏れであり、それは健全な行動につながるのだろうと思います。自宅で礼拝を守ることも含めてです。その思いや態度は、自分は人にも神様にも無自覚で罪を犯し得る人間なのだと自らを顧み、正しく主を畏れる信仰の態度にも似ていると思わされます。既に書面でも伝えましたが、今の状況では、礼拝に集うことができなくてもよいのです。また集える時が来たら、喜んで集えばよいし、そのために既に祈っておられると思います。献金はどうしようという方には自宅まで預かりにも行けます。取り立てじゃなくて(笑)。いきなり玄関に立ってませんし、マスクして離れて短く祈りましょう。そしてキリストの名によって、主の恵みのもとで安心して、共に歩んでいける。それが教会の歩みです。

主を畏れることは健全な歩みを導く。それは私たちの闘う相手が恐れ自体ではなく、罪だからです。私たちは危機的状況で、恐れてよいし、恐れながらも罪と闘うのです。特に自分自身の罪と。だから闘う相手を間違えると、ペトロのような間違いも犯しやすい。イエス様を捕らえた群衆の一人に、おそらくウオーと叫びながら切りかかったのは、ペトロだったと、ヨハネによる福音書では言われます。遠慮せん人だったんでしょうか、ヨハネは(笑)。まあペトロも遠慮とは縁がなさそうですが、むしろ遠慮より、思慮を欠いたが故の行動に出てしまう。こうした蛮勇もまた、勇気の皮をかぶった恐れであることが多いのかもしれません。イエス様を捕らえに来た群衆が剣や棒を持ってゾロゾロやってきたのもまたそうでしょう。相手がわからん恐れから、自分を守ろうとする思いから武器を取ったのか。強盗にでも向かうように。あるいはとりあえず持っていると安心すると、今、米国で、不安の中、銃が売れている理由と、同じ理由からかもしれません。

皆、恐れの中にある。不安の中にある。あるいは、それを隠そうとしながらも、隠しきれない。まるで私たちが自分の罪を、人にも自分にも隠そうとするように。まあ、ヨハネは、ペトロの名前も隠さんかったのですが(笑)。

その中で、このマルコによる福音書だけが記します「一人の若者」が逃げたという、とても印象に残る記事があります。断定はできんのですけど、おそらく福音書を記したマルコ自身のことだろうと昔から言われてきました。でないと何で記すのか、ようわからん。関西弁で言えば、誰やねんという記事なのです。裸あるいはパンイチ、パンツ一丁で逃げるなんて姿は、まことにみっともない姿です。パレスチナでも春の夜中は寒いので、この後ペトロがイエス様を知らないと言う場面でも、焚火に当たっておったぐらいです。しかもマルコの家は使徒言行録によるとエルサレムの街中にありましたから、家に帰ろうにも、途中で剣と棒を持った群衆に会うかもしれん、捕まったらどうなるろうと思ったら、闇の中ガタガタ震えながら隠れておったのじゃないかと思います。きっとまだ10代で、怖くて裸で心細くて、また逃げた自分が情けなくって仕方なかったのじゃないでしょうか。

でもそんなマルコを、またペトロを、イエス様を見捨てて逃げた弟子たち一人一人、そしてユダ、群衆、神様の前から裸で恥ずかしくて逃げ出して隠れようとしてしまう、アダムとエバのような私たちのすべての罪を、キリストは、逃げないで受け止めて下さった。そして、あなたをわたしが覆うからと、命を投げ出して下さったのです。私たち罪人が、恐れて、逃げて、あるいは自分が情けない罪人であることを、隠そうともがく。その姿の一切合切をキリストが十字架で丸抱えにして、覆ってくださった。逃げないで、その罪をぜんぶ主が負ってくださった。

マルコは、その恵みに捕まってしまったから今の自分がある事実を、そのまま伝えたかったのだと思います。自分が逃げないからじゃない。逃げる他ない私たちを、キリストが捕らえてくださるから、キリストに捕まってしまうから、私たちは恵みに捕らえられて救われて生きるのです。イエス様が、逃げずに戦ってくださったから。私たちの罪と、その罪が決して避けられない罪の裁きから、イエス様が逃げないで、これを受けきって下さったから。受けきって裁かれきって償いきって、完全に死なれたから。罪なき神の子が死なれることで、私たちの罪と死と裁きに、神様が打ち勝って下さったから。だから三日目に勝利の復活をしてくださったイエス様によって、私たちは、その勝利の宣言を聴くことができるのです。あなたの罪は赦されたと。

この憐れみの勝利に捕まって、人は恵みによって生きられるのです。自分の強さや正しさによるのではないから、弱くていい。逃げてしまっても失いはしない。決して逃げられないキリストを、私たちを捕まえて離さないキリストを、私たちは失うことはないからです。今までの生活を失っても、もっと状況が変わってしまったとしても、十字架と復活の神様の愛と招きは変わりません。その変わらない福音の招きを、恐れがあっても、信じればよい。キリストが救って下さる。この福音があれば生きていけます。キリストが捕まえて下さっているからです。