20/4/5棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書14章27-31節、詩編23篇 「つまずく羊を支える杖」

20/4/5棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書14章27-31節、詩編23篇

「つまずく羊を支える杖」

私たちの羊飼いであるイエス様、あるいは三位一体の神様が、私たちにつまずかないでいてくださることは、まっこと幸いなことです。つまずかないで、受け止めて、愛して下さる。愛することをやめないでいて下さる。私たちがつまずいても。十字架での完全な赦しの故にです。

教会で私たちは、つまずくという言い方をします。もちろん聖書から来た表現ですから、してよいのですが、聖書での用いられ方は、かなり重い言葉として用いられます。例えばイエス様が9章でこう言われた。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」と。だから軽々に、私はあの人につまずいた、と言う用い方も、逆に、つまずくほうも悪いと、まるでいじめ被害を受けた側に自己責任を負わせて問題を軽くさせるような悪質な責任逃れも、教会がイエス様の前で言う言い方ではないでしょう。むしろ、言うとしたら、つまずくという言い方ではなくて、あの人のことを不満に思うとか、不満に思う側にも問題があるんじゃないかと言い換えた方が、その問題を見えやすくすると思います。少なくないのです。不満が信仰生活を壊すことは。

弟子たちはどうだったんでしょう。つまずいたんでしょうか。不満に思ったんでしょうか。両方とも言えるのですが、つまずくというのは、単に不満に思うだけじゃなく、それによってイエス様に従えなくなってしまうことを、つまずくと言います。弟子たちに対して、既にイエス様は、こう言われたのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(8:34-35)。

弟子たちはこれを心に留めていました。キリストを信じる誰の心にも深く残る、いのちの言葉だと思います。だからペトロも、特にペトロは強く反応したのでしょう。あなたたちは皆わたしにつまずくと、なのに言われたイエス様に。いや、そんなたありません。絶対にありません。だって私は、退けサタンと言われて、あなたは神のことを思わず、人のことを思っていると叱られて、それで、いや、まっことこれじゃいかんと思うて、神のことを思わなと、頑張ってついてきてるのに。つまずくらあて、言わんといてください。自分の十字架を負う覚悟はあるがですと、必死でイエス様の御言葉に反論します。イエス様が敢えて御言葉を引用されて、こう書いてあるからと、神のことを思いながら、だから、あなたがたはつまずく、とおっしゃっているのに。その神の言葉を語るイエス様に不満で、賛成できない。ひどい。アーメンできない。だって自分の思いとは違うことを言うから!とても受け入れられない御言葉を言うイエス様のほうが間違っています!御言葉の通りには私はなりませんから!そしてペトロは私たちが御言葉につまずく時と同じように、御言葉に反発し、御言葉を避けようとして、でも避けられず、御言葉の真実が実現する時、鶏の、目覚めよとの声を聞くのです。

でも本当はペトロも、また私たちも、そんな私たちにつまずくことなく、共に歩み続けてくださる羊飼いイエス様の御言葉に聴けば良かったのです。懲りもせず、あきらめることなく与えられる御言葉に、つまずくのでなく、いや、つまずく時にこそ、ひざまずいたら良い。御言葉につまずく弱くて強がりの羊をも起こして下さる羊飼いの御言葉の前に、ひざまずく。それが、自分を捨て、自分の十字架を負って、羊飼いの後に従う、具体的な信仰の姿、主の弟子の姿だからです。つまずく時が、ひざまずく時だとも言えます。そこでキリストを仰ぐのです。弟子たちも仰いだのです。十字架につけられた私たちの羊飼いを仰いだのです。主は、つまずく私たちにつまずかれないから。すべて受け止めて、罪と汚れを引き受けて、私が打たれて滅びないようにと代わりに打たれて死んで下さったから。そうやって罪人を救うと、聖書に書かれた御言葉の通りに、十字架で私たちの罪と死とを滅ぼされるキリストの御言葉が、実現するのだから。その御言葉にひざまずけば良い。何度も何度でも。御言葉につまずくたび、自分の思いが勝つたびに、イエス様、この思いを十字架につけて下さいと、自分をイエス様に向かって捨てるのです。その私たちに、復活の主は、そうだ、そのあなたの古い思いは、たしかこの辺(肩の辺り)に負われて、ギャ~言うて、わたしと死んだから、その思いはもう葬って、さあ立って、わたしについてきなさいと言って下さる。それが御言葉によって導かれる恵み深い羊飼いなのです。

その先に復活の主が先に行かれたガリラヤもあります。ペトロはその部分を聴いてもいませんが、そのガリラヤで彼らはイエス様の御言葉を聴いて、そこからすべては始まったのです。御言葉から始まったことがわからなくなった弟子たちが帰る場所。それがガリラヤです。そこから始め直すのです。光あれ。御言葉から、すべては新しくなるのです。