20/3/29受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書14章22-26節、出エジプト記24章3-8節 「礼拝でパンを食すわけ」

20/3/29受難節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書14章22-26節、出エジプト記24章3-8節

「礼拝でパンを食すわけ」

これはわたしの体である。これはいつも聖餐式で読まれる主の言葉だとお気づきになられたと思います。言わば聴きなれている言葉ですが、弟子たちは、この時に初めて「これはわたしの体である」と、いきなりイエス様に言われて、びっくりしたと思います。譬えるならイースター礼拝の後で、妻がイースターエッグを皆さんに渡しながら、これは私の子ですと言ったら、え?と思うようなものです。ではイエス様は、どういう意味で言われたのか。この意味でです。わたしは裁きがあなたがたを過ぎ越していくために割かれる、過越しの犠牲だ。この犠牲、わたしの死の故に、あなたの罪の裁きは確実にあなたを過ぎ越して、あなたは救われる。そのわたしを得なさい、と主は言われた。

続いて言われたのは「これは…わたしの血、契約の血である」という言葉。これも弟子たちはどういう意味かと思ったでしょう。でも契約の血と言ったら、思い出す場面がある。さきの旧約聖書で、イスラエルの民が主なる神様と結んだ契約の血です。つまり、わたしはあなたがたと朽ちる動物の血によってではなく、永遠に朽ちず過ぎ去らない神の子の血によって契約を結ぶ。わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となると、永遠の関係を結ばれた。それがこの契約の言葉です。

契約。ある保証によって新しい関係が生じる事と言えるでしょうか。洗礼を思い出したらよいのです。そこで必ず誓約をします。教団式文の誓約の言葉は結構固いので、柔らかく言い換えるとこうです。キリストが私のために死んで、私の救い主となって下さいました。この方が私の神様です。私はこの方のものになりますと、結婚の誓約のように、一つの関係に、しかも永遠に破れない関係に結ばれますと誓うのです。その契約を、神様の側で忘れないで、ましてや決して破かないで、この人はわたしのものだという保証として、神様が洗礼を授けてくださいます。牧師は水と一緒に、ただそこで用いられる器に過ぎません。

聖餐は、この契約を忘れないようにとの愛の儀式です。記念日を祝うのと似ています。「わたしを記念するため、このように行いなさい」とも言われます。わたしを覚えて、とも訳せます。リメンバー、忘れないでとも言える。契約の確かさと重さを、人は忘れてしまうから。私たちの愛の弱さ、罪の深さを思い出させてくれる言葉でもあります。

忘れる側は、え、そうやったで済んでも、忘れられた方はたまらないことがある。あのことを、よくも忘れることができたなと信頼にひびが入ることさえあります。たいてい、痛い思いをした側が忘れんのです。忘れたくても忘れられない。それも人間の弱さ故でしょう。

でもキリストは別の理由で忘れないでいて下さいます。その愛の強さ故に私たちとの契約を忘れないで、あなたもこの強く確かな関係を忘れるな、思い出せと言って下さる。十字架で激しく苦しまれたから忘れんのではなく、そもそも十字架にかかられた理由が、罪を犯した私たちを捨てられなかったからです。他人が罪を犯して、その裁きを受けるのは仕方ないろうと、人が思うようには、でも神様は思えんかったのです。仕方はあると、これがその仕方だと、犠牲になられた神様です。

でもその神様の愛も自分の罪も、人は忘れてしまいやすい。頭で覚えていても、心で忘れて、態度と生活に出るほうが真実でしょう。自分の痛みは覚えていても、人の痛みは忘れる私たちが、自ら犯す罪の悲惨もたやすく忘れてしまう。自分のことさえ覚えて対処できんのです。

そんな私たちが、だからこそ神の子の血による確かな契約によるのでなかったら、どうしたって救われ得ないじゃないかという事実、そしてだからこそ神様が確かに救いに来て下さったのだという恵みの事実を、主は、聖餐を制定されることによって、思い出させて下さる。そして、この恵みの関係の確かさつまり契約に立たせ直して下さるのです。

どうしてか。他人ではないからです。そして永遠に他人ではなくなることを、十字架で、その私たちと一つになることで選ばれたからです。

他人なら、失われても傷つかない。少ししか痛まない。それが他人でしょう。ひどい言い方をしますけど、私たちは去年一年で、忘れて思い出しもしない他人に、どれだけ出会ったことでしょう。その一人一人をでも神様は痛みをもって覚えておられて、その人を失いたくないからと十字架で代わりに死んで下さった。その愛を、知って、信じて、洗礼を受けて、なのに忘れて、契約さえ忘れて、自分はこんな罪を犯したからもう駄目だと、勝手に自分で自分を救ったつもりになって、勝手に自分を滅ぼしたつもりになったとしても、この契約の血を注いでくださった主は言われます。たとえあなたが、わたしとの契約を忘れ、この契約によって結ばれた、関係によって救われるという事実を忘れても、わたしは忘れない、わたしがあなたを救う神、わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを忘れない神だと、キリストが私たちの前に立ちふさがってくださって、あなたはわたしのものだと抱きとめて下さる。そのために流された血によって、すべての罪を洗い流してくださる。それが今朝の御言葉で「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と宣言して下さった、罪人の救い主イエス・キリストです。

主は、人となられる前からご存じです。私たちが、痛い目に遭っても忘れる人間であることを。覚えていられない罪人であることを。そしてその私たちを救う神様が、世界には必要であることを。その神様が来られたのです。神様が求められるようには、神様も人をも愛せない罪人を救いに。それでも私たちから愛を求められる神様が、その求めが満たされなくても、裏切られても、忘れられても、バカにされても、何があっても、わたしがあなたの救いを満たすと、いのちを捨てる羊飼いとして来て下さって、あなたはわたしのものになる洗礼を受けて、その関係の確かさを忘れるなと、聖餐を制定して下さった。この二つの聖礼典を、だから私たちは儀式だと軽んじず、キリストの恵みが満ち溢れる奥義として、信じて感謝して受け取るのです。

そして私たちが受け取る、もう一つの確かさを、主は今朝の御言葉で約束しておられます。やがて来る神の国で、私たちはイエス様と一緒にぶどうの実から作った祝杯を頂くという約束です。それまではもう決して飲むことはないという、確実な十字架の死の約束と共に、でもそれと同じ確実さをもって約束された、ぶどうの祝杯の約束。これが復活の体の確実さです。いわゆる、ふわふわした光と雲という天国のイメージはきれいに忘れてよいのです。これこそ忘れてよい。私たちを待っているのは、触れて、抱きしめられて、こんなマスクもなくて、互いに熱い涙を流して、良かったね、永遠やね、ほんとに良かったねと、永遠の祝杯を飲み干し合える、確かな復活のいのちです。

そのいのちの道が、キリストの十字架と復活によって開かれた。この道を、だから私たちは弟子たちと共に、主と共に、賛美を歌いながら、共に進んでいくのです。