20/3/22受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書14章10-21節、出エジプト記12章21-28節 「救いの準備は整った」

20/3/22受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書14章10-21節、出エジプト記12章21-28節

「救いの準備は整った」

弟子たちと一緒の鉢にパンを浸して食べておられたイエス様は、この時、新型ウイルスの心配はされてなかったようです。私たちも早く心配から自由にされて、神の家族で食卓を分かち合いたいと思うのですが、イエス様の心をここで占めていたのは、むしろ次の21節のことです。

「人の子は、聖書に書かれてある通りに…」

ここに今朝の御言葉の、二つの急所があります。

一つは「聖書に書かれてある通り」とイエス様が強調なさったこと。つまり、特にこれから続けざまに起こる十字架へ向かう苦しみ、そして救い主が死なれるということの一切は、全て神様の御手のご支配の内にあることを、信じなさいと強調なさっているのが「聖書に書かれてある通り」という言葉の意味です。それだけ確かな救いだということです。私たちは、救いについて色々わからんことがあったら、ウイルス問題と一緒で、人は、わからんと不安になったり、逆に開き直って強がったりする。けれどイエス様は、書いちゅうろう、心配せず、信頼しなさい。全ては神様の御手の内にある。それがなる!とおっしゃるのです。

これは弟子たちから、食事の部屋を問われたとき、一見、不思議に、え?どうやって用意したが?と怪しむほど、整えられ、用意されている部屋があったことでも示される、神様の不思議なご支配です。救いは、自分で何かせんと救われないのではなくて、もう用意されているから!そこに行って、それを受け取ればよい。それが十字架の救いです。それは先に読んだ旧約聖書の過越の救いの歴史の内に、もう書かれてあったほどに、ぜんぶ整えられ用意されていた、神様によって準備万端な救いです。だから人はそこに行って、私たちの罪の犠牲となるために人の子となられた神様、用意された過越の小羊、キリストの死は、私の身代わりなのだと受け入れて、神の子とされる洗礼を受け、神の家族とされて一緒に、神様を礼拝して歩んで行けばよい。それも全部、書かれてあるのです。言い換えれば、明らかにされているのです。だから御言葉によって、この不思議な恵みが、わかっていくと、わからない故の不安からどんどん自由になる。ホント自由。そのために書かれてあるのです。

そして、書かれた神様のご支配の通りに、イエス様は人の救いのために十字架で死なれたことを、信じて安心して良いのですけど、じゃあ、ユダのことはどうなのか。不安になる。それが二つ目の急所です。主はここでご自分の死と苦しみは心配されず、ユダを心配なさっています。なら私たちのことも、主が心配されんはずはありません。

ただここは、書かれた御言葉の文脈に従って読まないと、まるでユダは生まれなかった方が良かったと呪っているように、勘違いされやすい言葉でしょう。ユダヤ人の言葉遣いは強烈だからです。例えばヨブ記で神様から想像を絶する苦しみを受けたヨブが、私が生まれた日は呪われ消え失せよ、こんなに苦しい目に遭うなら生まれたくなかった、耐えられないと、悲しみを訴えます。日本でそういう悲しみの訴えをしたら、非難されたり、うるさいと言われて、余計に追い詰められるかもしれません。でもイエス様は、その悲しみや苦しみを非難することも、ユダの場合に、そんながやったら、せんかったら良かったろうと自己責任にして追い詰めることも、十字架で身代わりに死なれた神様は、されない。むしろ一緒に、あるいは、正しく罪を悲しむことのできなかったユダに代わって悲しみを訴えてくださる。不幸だと訳された言葉は、悲しみを叫ぶ言葉です。可哀そうにとも訳し得る言葉だと思います。しかも言葉だけでなく、身代わりに死なれるのです。そのイエス様が、この言葉に込められた思いを、少しでも私たちが誰かのため担うことができたら、私たちは、もっと自分から自由に生きていけるのだと思います。

ユダを責めなくてもよいのです。あるいは、まるで操り人形のように神様がユダを裏切らせたのだと、神様を責める態度になる必要もありません。先週の御言葉でも申しましたが、この14章で教えられることは、人間が色々と思う、悪いことも思う私たち人間の思いを超えて、神様の不思議な救いのご支配が、すべてを貫いて成し遂げられるという救いの奥義です。ユダがイエス様を裏切ろうと思った、その罪の思いは確かにユダの内にはあったと思います。私たちが、わかって罪を犯す時と同じです。思いはある。でもそれを包み込むように、どのような神様の救いの働きが進んでいくのか、人間には決して分かり得ません。あるいは、アナニアとサフィラのように即座に裁きが下されることによって、人々が救いに導かれることもあるかもしれませんから、神様を侮ることは、本当に恐ろしいことです。でも罪を犯しているときは、きっと別のことを思っているのです。やると思ってやるのです。言い訳をしながらも。ユダも、こんなことになるとは思わんかったと言い訳したことをマタイは記します。でも、たとえどんな言い訳をしたとしても、何の責任逃れもできない私たちの罪の責任を、神様は御子を犠牲にすることで取ってしまわれたのです。その中にユダもいて、祭司長たちもいて、私たち、全ての人間が置かれ、全人類の罪が十字架で背負われて、キリストが、叫んで死んで下さったのです。生まれなかった方がよかったと思われるほどの不幸な人でも、この愛と赦しに背負われて、この救いの計画の中に包み込まれて、生まれてよかったと、救われなさい。それが私たちの罪と裁きが、私たちを過ぎ越していくために、神様が与えて下さった、キリストの救いであるからです。

その救いのご支配を現わす言葉が「引き渡す」という言葉です。10節11節、そして18節で「わたしを裏切ろうとしている」、21節で「人の子を裏切る」と訳された言葉も同じ「引き渡す」という言葉です。四回も繰り返し強調されて、では、一体、誰に引き渡されてイエス様が死なれることで、聖書に書かれている通りの救いが実現してしまうのか。神様ご自身の手に、引き渡されることによってです。人が人の思いで神の子を死なせるのではない。神様がご自身の手によって、人として生まれさせた御子を死なせるのです。それは全部、私たちが、しかも自分を悪魔と世の誘惑に引き渡し、罪に引き渡しては、本当の命を生き損ねてしまう私たちが、なのに、その罪と責任を身代わりに御子の背に引き取られ赦されて、神の子として救われて生きるためです。ただそのために御子は父の絶対の裁きの御手に引き渡されて、無残な罪人の死を受けられ、その御子の死が、全能の聖なる父の御手の内に受けとめられた。だから人は死んでも生きる。キリストに結ばれて生きるのです。だから、この神様の恵みの御手に、私たちは一切をお委ねすることができるのです。