20/3/15受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会 マルコによる福音書14章1-9節、出エジプト記32章30-35節 「無駄遣いに思える愛」

20/3/15受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書14章1-9節、出エジプト記32章30-35節

「無駄遣いに思える愛」

キリストの愛の苦しみを覚える受難節に、まさしく十字架に向かって進まれるイエス様のお姿、救い主のお姿を、御言葉から一緒に見させていただける幸いに感謝します。

特に、のっけの1節で「さて」と、ここから場面が切り替わりますよとマルコが知らせる言葉からわかりますのは、いよいよここから十字架に向けてノンストップで突き進んでいく場面に入ったということです。言わば一同、刮目して救い主のお姿を見よ!いよいよ過越祭と除酵祭の二日前、つまり水曜日になったとマルコは十字架への導入を告げます。

しかし、この導入は単に場面説明のための導入ではありません。2節で明確に告げられるのは、祭司長たちがイエス様を殺すのは「祭りの間はやめておこう」と相談しておったことです。私たちは、この過越祭でイエス様が十字架で殺されることは、あるいは当たり前のように知ってますので、は?と思うような言葉です。やめてないやか。殺すやかと。じゃあ、どうして殺すことになったか。その理由をマルコは次週の10節で記します。何故、祭りの間に殺すことに計画が変更になったか。ユダが裏切ったからです。これも、あるいは私たち、ユダが裏切ることは、当たり前のように知っていて、うん、そうやろと思うかもしれません。けれど、まさか12使徒の一人がイエス様を裏切るとは、誰も思ってなかったのです。ものすごいショックなことだったのです。人の思いってわからんねえ。俺らあ全然思い違いをしちょったねえ。まったく的外れな考えをしよったねえ、というのが、ここでマルコが置いた短い二つの話なのです。民衆が騒ぐといかんから、という考えも、ふっとんでしまうほど、今だ!後は何とかなる!という機会だと思った。言い換えると、そうやって人間の思いを全く超えて、神様が十字架で死なれて人の罪を償うという救いのご計画、十字架の福音が実現していったという、福音そのものをマルコは告げ知らせている。それが今朝の御言葉です。

人は、え?と思うことをします。人から裁かれるようなことも。神様から裁かれる罪も。自分でも、え?と思うこと、してないでしょうか。でもそんな私たちを、どれほど神様が愛され、赦し受け入れるために、御子を犠牲にされたか。その救いの恵みを告げる福音の橋渡しとして、神様は、私たちが恥ずかしいと思うことをも用いられるのです。

あるいは、俺は私は絶対にしない、と思ったのに、やってしまうことの中には、罪を犯すことではなくて、全くその逆に、福音のために自分が損をするということもあります。以前には、そういうことをしている人を見て、あの人は偉い、すごい、でも自分にはできん、と思っていたことを、けれど福音の神様に捕らえられてしまって、してしまっていること、ないでしょうか。主のため、福音の前進のために、献げるということ、しかも、え?と思われるほど献げることを。

それが、人間の思いを超えて、十字架の神様の御心が実現していくのだと告げる二つの御言葉の間に置かれた、ナルドの香油の物語です。

この物語は、実は時間軸の動きで言うと、1節で祭司長たちが祭りの間はやめちょこうと相談した水曜日より、何日か前に起こった話です。それはヨハネによる福音書を後で読むと分かります。香油を注いだ女性がラザロとマルタの姉妹マリアだったことも、そこに記されています。でもマルコは、敢えて、この話をここに挟み込むことで、神様の思いは人間の思いを超えることを、しかもはるかに超えてこられるのが、福音の神様であることを伝えるのです。人間の常識からは、え?と思われることでも、神様は、全くそう思っておられないから、あなたもキリストのため、福音のために献げなさい。それが「良いこと」だからと。

なので色々と省かれます。あるいはヨハネが、後から補うのですが、時間軸の流れで言うと、この出来事の直前に、マリアは、死んだ兄弟ラザロをイエス様によって生き返らせてもらいます。もうそれだけで感謝してもしきれない、どうしたら感謝できるだろうという思いがあったと思います。でもそれだけでなく、マリアはそれまでもイエス様のことを神様から遣わされた救い主キリストだと、信じてはおったのです。が、自分の兄弟を生き返らせてもらう体験をして、私がキリストに向き合うということは、どういうことであるか、その理解と態度が変わってしまったのだと思います。主の救いのリアリティーに打たれる体験をしたとも言えるでしょうか。それが300デナリオンもの香油をイエス様の頭に注ぐという行動になったのだと思います。香油を頭に注ぐ行為は、家に大切な人が来た時の、ユダヤ風のおもてなしの行為です。高知で言えば3万円の皿鉢でもてなすようなものでしょうか。30万円出す人もいるでしょうか。マリアは300デナリオン。およそ1年間の労働賃金ですから300万円の香油と言えばわかりよいと思います。300万円の皿鉢(笑)。

それを非難する気持ち、私わかるのです。譬えるなら、ここに胡蝶蘭のタワーが飾ってあるのを礼拝堂に来て見たら、嘘?と思うでしょう。1本1万円が10列5段で50万円。え?どうしてそれを献金して赤字をなくしてくれんかった(笑)と。誰がこれ捧げたが?と尋ねたら誰かが言うのです。先に亡くなった家族がイエス様を信じて洗礼を受けていたということが、どういうことか、救われて永遠に生きられるという事実が迫ってきて、どうしても感謝がしたくて、家で大事にしていた宝物を十字架で死んで下さったイエス様に、全部捧げました、と言われたら。そうでね、お金は何とかなるけんど、命はイエス様に救ってもらわんとどうにもならんきね、アーメンです、洗礼を受けて本当に良かった、と思うんじゃないでしょうか。ただ、私は本当にケチな人間なので、でもでもと、考えそうな気がします。そしてイエス様から言われるのです。幸生、その無駄にしたと思っている50万円分は、あなたが献金して穴を埋めなさい。わたしのために!わたしのために失ったものは、わたしが報いる。あなたもわたしを信じなさい、と。そこでキリストを信じる、キリストに向き合う向き合い方は、前とは違うものになっているのだと思います。そこで捧げる礼拝も、信仰も、何もかも。

キリストのためにと、自分の持てるすべてを捧げたマリアは、いや、その名は敢えて省かれているので、誰であってもかまいません。その人はイエス様の葬りの準備のためにという意図で、香油を注いだのでは、おそらくありません。8節は、葬りに向かうわたしの体に予め油を注いだ、とも訳せます。このわたしの体は、あなたがたを罪の裁きと滅びから救い出すための犠牲として、あなたがたのために葬られる体なのだ、ハッキリ言っておくと、十字架の死による福音を告げておられるのが、この言葉です。言い換えればこの女性も、他の弟子たちと同じように、イエス様がどういう救い主であるのかを、ハッキリわかってその行為を捧げたのでは、なかったのかもしれません。でも、わかっておったか、わかってなかったかは、省かれてよいのです。マルコはそこを省いて、キリストがわかっておられることに集中するのです。主は言われます。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられる。つまりあなたも、同じようにしなさいと求められるのです。

私たちは的外れなことを思い、また的外れなことをします。あれよりこれをすれば良かった、無駄になったと思うこともある。けれど主が、わたしのため、福音のためにしたことは無駄ではない!良いことをしたと言われるなら、いよいよキリストに向き合えばよい。的外れな私たちであっても、主はその愛の的を決して外されることはないからです。