マルコによる福音書12章38-40節、サムエル記上16章5b-7節「人が信じる宗教的権威」

20/1/26教会設立記念主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書12章38-40節、サムエル記上16章5b-7節

「人が信じる宗教的権威」

今日は高知東教会の設立記念の礼拝を捧げています。立てて設ける、作り出すと書いて設立ですが、教会の主なる神様は、私たちを、どんな教会として立てられたのかを、御言葉から改めて聴きたいのです。高知東教会の一人一人は、どんな教会として、一緒に立っていくのか。そのためには、どこに立つのか。説教題にしました、人を見て、あれが偉い人で、あの人の言うことを聴きよったらえいのだと、神様に向き合わずとも信じてしまえる、人間の宗教的権威には、立たんのです。そしたらイエス様から、気を付けなさい、と言われてしまうのです。

キリスト教会がキリスト教会として立ってきた場所は、ただ一つしかなかったし、これからも一つしかありません。それは私たちの罪も命もすべてを一身に背負われた十字架の救い主イエス・キリストのもとだけです。今もそこに立ちます。十字架の愛と赦しに。そしてそこから歩みだすのです。隣人のもとに。ここに一緒に帰ってくるために。そのためには、どのように隣人と共に生きるのか。それが反面教師的に、今朝の御言葉から教えられます。当時の宗教的指導者の一部であった律法学者あるいは律法の教師たち。教師ですから、隣人と共に立とうとしたはずです。なのに立ち損ねてしまった。

何故か。先に答えを言います。その態度、生き方が、人からの評価を求めて、神様からどう評価されているか、神様のお気持ちを求め損ねたからです。そのお気持ちを知ってほしくて、主は律法に、御心を刻んで与えられたのに。その生き方だと、人が神様と共に歩むため、神様が、ここに来なさい、ここに立ちなさいと望んでおられる十字架のもとに、自分も立てず、隣人を連れていくこともできないのです。

そして、これも先に申しますが、その誤った生き方を、まるで他人事にして、敵をやっつけるようにして、もしイエス様が言っているように勘違いしてしまうと、私たちもまたキリストのもとに立ち損ねてしまいます。彼らの罪を背負い、敵を救うために愛された十字架の主のもとに立ち損ねたら、教会も私たちも、生きる目的を見失うのです。

イエス様は気を付けなさいと言われます。言い換えれば、よく注意しなさい。あるいは注視しなさい。目を凝らし、心を凝らして、見るべきものが見えるように、じっと見ていると、見えてくるからです。

一つは、律法学者たちが、私は律法学者だと明らかにするために着ていた長い衣が、目について見えてくる。私も日曜日に、牧師として必ず礼服を着ますが、何故それを着るかでしょう。私は礼拝を司る者の一人として、礼拝だから礼服を着るのですが、もし、見て見て、私はきちんと礼拝を捧げてますよ、あなたも私みたいにしなさいと、上からの態度で礼服を着て、先生先生と言われて、宗教的スマイルで挨拶しているなら、私はただ人前に立っているだけです。その人に命を捨ててお仕えしておられる十字架の愛の主の後ろに立ち損ねています。それだけでなくキリストを見えなくさせているのです。

当時の律法学者たちは、またその服で、歩き回っておったようです。見てほしかったようです。別におしゃれさんが見て見てと思って着るのではないのですが、モデル意識で、見てもらってなんぼ、という意識はあったかもしれません。見る人が、自分をモデルにして宗教的な生活をするようにと、きちんと礼拝をして、あれをして、これをしての宗教的行いをきちんとできる人になりなさいと。そしたら皆から尊敬されて、挨拶もされる。そういう立派な人に、私を見る人がなるための、立派なモデルとして正しい人の服を着て歩き回る。皆も、私みたいにちゃんと生きれば、神様からも正しい評価をもらえるから、という自己評価を、自分でして、あるいはモデル同士、律法学者同士で、いいね、いいねとやっているのなら、単なる自己満足でしょう。モデルとしても失格ではないか、とアンミカさんにも言われそうです(笑)。一つは、態度の問題です。誰のためのモデルなのか。自分を満悦させるために、見てくれを作る態度では、隣人と共に生きることはできません。

でも、です。じゃあ、相手のために、隣人が正しく生きられるように正しく謙遜に宗教的モデルを務めればよいのか。あなたに頑張ってもらいたいからと、隣人のためにモデルをするなら、その相手からも尊敬されて、先生は本当に私のモデルですと、よい人間関係もできて。でも、そこでキリストが見えないなら、キリストの愛に突き動かされて自分はやっているだけで、自分はどうでも良いのだという態度から、だったらこの人が見ているキリストを、私も見てみたいと、キリストに心が向くのでなかったら、ただの良い人間関係だけで終わってしまいます。世はそれでいいじゃないかと、むしろいいじゃないか、神様抜きのほうがと思うかもしれません。その誘惑は強いと思います。あるいは律法学者が人の称賛を求めたのも、突き詰めると、神様抜きで、自分はこれこれをしているから認めてほしいと人前に出て、人から、頑張ってますねえと認めてもらって済ますほうが、やったことがそのまま報いられて、実績が認められて、楽だったのだと思います。やったらやったぶん返ってくるのは楽しいのです。やりがいになるのです。皆さんもお分かりになると思います。祈っても祈っても与えられないのは辛いのです。愛しても愛しても何も変わらないと愛する意欲を失うのです。言っても言っても分かってもらえないのなら、本当に言いたいことは言わんなるのです。それよりも、人が求めていることを言って、受けることを行って認めてもらいたくなる誘惑、つまり、すぐに報いが返ってくる人間関係の宗教を、いや、これは神様からの報いやきと、自分を信じさせてしまう信仰をやる誘惑に乗っかるほうが、ずっと楽だったと思うのです。アダムとエバの時から、これはやってもえいことだと、自分を信じて。でもその結果を、私たちは皆、知っているのです。

イエス様は、彼らが会堂で上席を望むとも言われました。このことはひょっと教会で一番具体的にイメージしてしまうことかもしれません。前に座っている方が、これはいかん、来週、後ろに座ろうと、まあ考えておられないと思いますけど(笑)、後ろだから謙遜というわけでもないでしょう。人の目を気にしているなら、どこに座っても同じです。私は赴任最初の年、鈴木先生の説教の時、前の席で、すごい舟をこいで(笑)、妻から、あんたは前に座ったいかん。御言葉に集中できんと怒られたことがありますが、私自身の経験から推測すると、おそらく前に座る人の中には、人から見られるのは好きではないけど、その苦手意識を神様に捧げて、それでも神様に集中したいからと前に来る人が多いのではないかと思います。どんな理由があって、どこに座ろうと、神様に集中してもらいたいのです。神様が自分また教会に、何を望んでおられるのか。神様の望み、求めを、切に求め聴く礼拝を、一緒に捧げたいのです。

この御言葉でイエス様が、律法学者が望むことを列挙しているのは、じゃあ神様は、何を望んでおられるのかを、律法学者の暗い望みの数々を後ろから陰として映し出す、光として描き出しておられるからです。裁きがあるとは、そういうことでしょう。神様の望みに背中を向けて、逆らっている。そのことに対する評価と報いはあるからです。なら神様は何を望んでおられるのかを、一緒に求めたいのです。

見せかけの長い祈りも、教会の具体的なイメージと重なり得ると思います。祈りは神様を意識して、神様に呼びかけ、語りかけ、訴えかける求めです。でも人と一緒に祈る時、人を全く意識しないと言うのも嘘でしょう。してない、と見せかけで言うこともあると思います。あるいは長い祈りは、見せかけと思われるのじゃないかと、人を意識しての短い祈りもあるかもしれません。この後、十字架を目前にされたイエス様が弟子たちに、わずか一時間も目を覚まして祈っていられなかったのかと言われる場面もあります。でも主はここで、祈りの長い短いを問われたのではなく、人に対して見せかけ、あるいは自分に対して見せかけて、神様の御心の前に立ち損ねることを戒められたのです。神様が、あなたに向かって、望んでおられることを無視してはならない。神様はあなたに望んでおられることがある。その望み、神様の求めに生きることが、先に前の頁の28節以下で、最も大切な掟は愛だと、神様を愛し、隣人を愛する。それが神様の、すべての人への望みであると、イエス様は既に明らかにされておられます。そのうえで、その愛に私たちが生き得るために、十字架に向かって行かれるのです。祈り損ね、求め損ね、神様も隣人をも愛し損ねる私たちが、その私たちを決して愛し損ねることなく完全に愛し抜かれて、罪を背負い切られた、神様の愛と赦しのもとで、神様の望みによって立ち上がるために、主は十字架を負われるのです。その主の名によって祈るのです。長い祈りも短い祈りも、十字架のもとで、キリストに背負われている者として祈ればよい。十字架で負われた祈りです。同じように十字架で負われている自分を、キリストのもとで覚える者が、その祈りを馬鹿にすることはありません。まるで律法学者がやもめの家を食い物にして、自分を養っておったように、人の弱さや過ちを、自分の優越感を養うための食い物にするようなことは、十字架の主を思う、主の御前では、できんなるのです。

人は皆、自分の犯した罪に対して裁きを受けます。人一倍厳しい裁きを受ける人もいる。皆、裁きは受ける。でも、より大きな裁きを受けると言われる。それは無視できません。そして誰よりそのことをイエス様が無視できなくて、おっしゃるのです。そうなってくれるなと。けれど後ろ指を指す言い方ではない。その人たちの罪を負われて、隣人になるために人となられた神様として言われるのです。同じように、責められるべき人をも、責めないで、愛することが、私たちにもできるのです。それが神様の求めであられて、そのためにキリストが来てくださって、私たちに求め呼びかけておられるからです。わたしに従いなさいと。

人から尊敬や愛情をこめて呼びかけられることより、キリストからの呼びかけに耳を傾け、心から答える礼拝を、第一の求めとすればよいのです。もう呼んでおられるのです。いつも呼ばれています。そこに隣人を愛し尊ぶ生き方もまた、十字架の光のもとに開けていくのです。