マルコによる福音書10章32-45節、ダニエル書7章13-14節「キリストは人の身代金」

19/10/27主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書10章32-45節、ダニエル書7章13-14節

「キリストは人の身代金」

この時のイエス様は、覚悟が決まっていたのだなと、特に最後の45節を読んで思いました。「…」。これは単に死ぬ覚悟じゃない。弟子たちを愛し抜く覚悟が、その全存在を貫いて決まっていたから、だから、わたしはあなたがたのためになら、死んでもいいんだと、そういう救い主、人の子として、わたしは来たのだと、おっしゃったのです。どこまでも深く優しい眼差しで弟子たちを見つめられて言われたのだと思います。

ことわざで、親の心、子知らずと言われます。この時の弟子たちにも当てはまる言葉だと思って、心に浮かんだのですが、念のために意味を確認しようとインターネットで親の心子知らずと検索しました。すると子供が親の気持ちを知らないで勝手にやってしまうという不満の言葉、とあった。不満かと、つい苦笑いしてしまいました。眉間にしわを寄せて、親の心子知らずと言っている顔。私もそういう顔をしてないかと、むしろ不安になりました。でもこの不満は、この時のイエス様には当てはまらないなと、改めてイエス様の表情を思ったのです。そして改めて42節からの「」の中の言葉を読み直しました。イエス様のお気持ちを、知らぬ者としてでなく、知る者として、その血潮を受け、献げられた命を受けた者として、私への言葉として聴きました。そうやって改めて、共に聴きたいと思います。

「あなたがたも知っているように…献げるために来たのである。」

それが私たちの親である、神様の心、救いの御心なのです。その心を知ってほしいと願われて、また、その心に、あなたがたも生きてほしいと、親なら当然そう願われる。それが主なる神様の御心だからです。

先に旧約聖書の御言葉を読みました時に「彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」と言われていました。それが「人の子」と、そこで言われておりました、イエス様のご支配です。イエス様は、ここでご自分のことを、来るべき約束の救い主、まことの支配を、人々に与える者という意味で「人の子」と呼んでおられるのです。

この支配のことを、イエス様がどうお考えになっておられ、またこのご支配を、どう私たちに考えてほしいと願っておられるか。でもそこで私たちが実際に思っている支配には、ひょっと、ズレがないだろうか。それを、親の心子知らずというイメージで思うのです。

私も親になって思うたのです。子供の時は、いや、そんなこたない、親の気持ちならちゃんとわかっちゅうと、頑なに思っていたのですが、やはり思ってしまいました。自分が親になって初めて親の気持ちがわかったと。たぶん本当にはわかってないのですけど、でも親父もお母も、こんな思いだったのかなと、やはり自分の身と重ねて考えてしまうのです。特に私が思春期に荒れていた時の、親父の困った顔を覚えていますので、今更、ああ、そういう顔だったかと思って、親父は偉かったなと改めて尊敬するのです。仕えてくれたのだなと思う。まだ存命ですが(笑)。そういうところで、今朝の御言葉を語られたイエス様と重なるのです。イエス様が、どういうご支配のことを、ここでおっしゃったのか、頭でというより、気持ちとしてわかる。本当にそうだと。これが神様の愛のご支配だと。私もこのご支配にお仕えしたいですと。その私の全生涯をご支配くださいと、祈るのです。

「異邦人の間では」と、ここでイエス様がおっしゃっているのは、主なる神様のことを知らない人々の間では、という意味で、別に差別して蔑んで言っているのではないでしょう。知らんのです。知っていたら、もっと違う支配を求めたかもしれません。そうだ。神様がお仕え下さっているように、私も人々にお仕えしようと。上から押し付けるような、権力を振るうような支配ではなくて、支えて心配ると書くような支配を求める態度になるんじゃないでしょうか。十字架の神様のご支配。愛のご支配。親が子供たちを愛し、罪から守り、正義を貫くご支配。けれどそのために正義に背いた子に裁きを与えなければならないなら、自分がその裁きを身代わりに引き受けるからと、我が子のための身代金となる覚悟をもって、親が子を愛する。そういう支配を、命がけで行いたい、行わせてくださいと、祈りたくならないでしょうか。

いや、自分が命を懸けているいないが問題なのではありません。この法案を通すことに、私は命を懸けていると言う政治家たちだっているのです。自分の命の話ではない。自分がどれだけ熱心かという、自分の話ではない。自分の話になった途端に、分からなくなってしまうのです。権力の話、偉い偉くないという話になるのです。

しかし、私たちがイエス様の十字架から知っている支配とは、あなたのためになら死んでもいいという、あなたの話、あなたのための、愛の支配でしょう。それがわからんまま、例えば親として、俺はこんなにもお前のことを愛しているのにと幾ら言っても、うざいと一蹴されて実は然るべきではないかと思うのです。それが先に言った、不満という、親の心子知らずであるなら、その通りだと思うのです。その不満な親は、でも私たち全ての親である神様の愛を知ったら、十字架で死なれた主のご支配を、これは、あなたのための支配なのだと、イエス様がおっしゃってくださっているのを知って、そのご支配に打たれたら、不満は意味を失って消えていくのではないでしょうか。

無論、親の支配、親の愛だけが問われるのではありません。およそ愛が問われるところでは、私は例外だ、私は愛されるだけで、愛することは関係ないのだと言える人は誰もおらんからです。もしいるなら、それは前のページで、イエス様のもとに親が連れてきた幼子たち。でもそれを弟子たちは叱った。その弟子たちをイエス様は憤られて「子供たちをわたしのもとに来させない、妨げてはならない」とおっしゃった、その最も小さき者たちです。それが誰であるかは神様だけがご存じですが、その者たちを、わたしのもとに連れてきなさいと主がおっしゃったことは、私たち、知っているのです。その神様のご支配に、私たちもまた、仕えること、愛することで、僕としてお仕えするのです。

ただ、そうは言っても、その愛のご支配を、知って、信じて、それによって救われた者であっても、なのに、すぐに分からなくなってしまいやすいのが、愛すること、仕えることでもあるのです。こんなにも愛して、こんなに仕えてやっているのにと、いつの間にか、自分の話に巻き戻されて、不満を抱える悔しさや惨めさを知らない者もまた、誰一人おらんろうと思うのです。それでつまずいてしまうこと、自分の愛のなさにつまずいてしまうことさえ少なくないと思います。ヤコブやヨハネがそうであったように、イエス様から「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼をうけることができるか」と問われて「できます」と、つい思いやすい強さが、自分も人もつまずかせてしまうのです。

ところで、主が飲まれる杯、主の受けられる洗礼とは、十字架の死のことであり、それを受けるというのは、主のため、福音のために迫害を受けて、死ぬことを意味しますが、確かにヤコブもヨハネも後に迫害を受けて、ヤコブは十二使徒の中で最初に迫害を受けて殉教するのです。その覚悟はあると言うのです。確かに覚悟をしたのです。今朝の御言葉が始まる32節で「一行がエルサレムに上っていく途中、イエス様が先頭に立って進んで行かれた。それを見て弟子たちが驚き、従う者たちが恐れた」のは、エルサレムが既にイエス様を殺そうと狙っていたユダヤ人指導者たちの本拠地であって、そこには必ず迫害が待っている、下手したら暗殺さえされるかもしれないのに、イエス様がまるでノープラン、丸腰で、怖れを知らない猪のように猛進されているように見えたからでしょう。あるいはそれを見たヤコブとヨハネが、逆に励まされてというか、実際は勘違いをして、俺たちも!と、実際に人間としては、すごいと思えるような覚悟を決めて、他の弟子たちを差し置いて、殉教の覚悟を決めてイエス様の前に進み出たのかもしれません。この二人の兄弟が3章で使徒に選ばれた時、イエス様は二人に、ボアネルゲス「雷の子」というあだ名をつけておられます。すぐに雷を落とす激しい気性の故であったろうとも言われます。それがここでも表れたのかもしれません。それだけの覚悟をしたのです。殉教できますと言うのです。だから自分たちにはイエス様の王座の右と左に座るに見合うだけの偉さがあるのではないかと、主に願い出さえしたのかもしれません。

でもその偉さ、強さを、イエス様は優しく退けられるのです。人間の偉さ、直訳すれば、大きさ、偉大さは、神様の目には大きく見えないからです。それは比べ合う人間の目にだけ大きく見えるのであって、そうやって人間を見て、神様を見ない生き方に、むしろ罪が見えるのです。そうやって自分を見て、人を見る生き方では、誰も救われないし、そもそもそこでは、この人が救われるようにと神様を見上げることはないのです。この人が救われますようにと祈るところ、仕えるところで、どうして上から権力を振るったり、逆に見上げて妬んだり、うらやんだり、自分を情けなく思ったりすることがあるでしょうか。

でもそこでイエス様と一緒に立ったら、その優しい眼差しが、どのように目の前の人を見つめられて、どのようにお仕えして下さったかを、十字架にかけられた主のお姿に見るなら、その人の身代金となられた、主のお姿を見るなら、その人の見方は変わるのです。その人の真実の姿が見え始めるのです。ヤコブとヨハネのことを聞いた他の弟子たちが腹を立て始めたどころではない。むしろ、その人は、イエス様がその人の身代金としてご自分の命を支払われた人だと福音から聞くところでは、その人を愛し始めるということが起こる。この人のためにもイエス様が死なれた。それは私のために主がなさったことと同じじゃないかと、その人を福音から知るところ、そして見るところで、私たちは自分が誰であるのかをも、改めて知るからです。主の贖いによって罪赦された者。もはや神様を知らない者のようではなく、十字架によって神様を知る者だからです。この世にあってイエス様から「あなたがたの間では、そうではない」と言われる主の民。わたしは主、あなたの神だと宣言される主のご支配を信じるから、その愛にお仕えできる主の僕であるのです。