マルコによる福音書10章17-31節、詩編130篇「神様にはできるのです」

19/10/20主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書10章17-31節、詩編130篇

「神様にはできるのです」

天に富を積むという言い方。何となく日本語としてイメージしやすい言葉ですけど、実際にイメージしてみると、ん?積んで、どうするが?という言葉でもあるのです。まるで悪代官の前に小判を積んで、これでいかがでしょうか。越後屋、おぬしも頑張ったのう(笑)というイメージがチラつくのは私だけでしょうか。むしろ、いくら金を積まれても、というイメージのほうが、聖書的なのかもしれません。

そう思って前の口語訳を見てみますと「天に宝を持つ」と訳されていました。それが直訳です。きっと話が、救われるためにはどんな善行を積んだらよいですか?という流れから始まりましたので、ちょっと流されてしまったのかもしれません。昔から仏教で徳を積むという言い方をしますけど、それは増やすという意味です。それを、ここでイエス様が言われたことに当てはめると、混乱しやすいんじゃないでしょうか。

むしろここでは、あなたは宝を、どこに持つのか?人間の考えが支配する地上か?それとも神様のお考え、御心が支配する神の国、天か?というAかBかという対比がなされているのであって、増やしたらいい、積めばいいという話ではないでしょう。

でないと、結局、私はこれだけ積んでいますから大丈夫ですよね?というイメージを持ってしまうのじゃないでしょうか。あるいは逆に、私はダメだ、だって全部売り払って貧しい人になんてと、結局、自分が、人間が、やっているか、いないかの話になりそうです。そしてそれだと改めて申しますが、8章後半から続く十字架を巡ってのイエス様の教えの最初で、ペトロが叱られたあの御言葉「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(8:33)という話になってしまうのです。

でも、そうなんです。いつも、そうなってしまいやすいのが、私たち人間の弱さであり、罪深さでしょう。それが今朝の御言葉の最後で言われました「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という、順序のひっくり返りの意味でもあるのです。あの人が一番偉いとか、俺はこんなにやってきたとか、私はこんなにも…という順序が、ひっくり返ってしまうのです。そういう自分が自分がという順序は捨てなさいとおっしゃるイエス様が、ご自分を捨てて、私たちの救いのために仕えて下さったから。その愛の順序が、神様の順序であるからです。

でも人は何故だか自分が先に立って、しかも神様の先に立って、救いの話さえ、自分が何をやったかの話にして、神様のことを思いにくい。

それをひっくり返して救って下さる十字架の話を、だからイエス様はずっと繰返しておられるのです。でも弟子たちは、それがわからなくて…という話が、ここでも続いているのが今朝の御言葉です。

私たちはどうでしょう。神様の救いを考える時、これだけあれば足りると、お金を積むように、善行を積むとか、あるいは信仰を積むという考え方をしてないでしょうか。もしそうならイエス様が「わたしに従いなさい」と言われたことに、天に富を積むだけじゃ、まだ足りなくて、更に従うことまで必要なのか?と思いやすいのかもしれません。

でもイエス様は、欠けているものが一つあると言われました。一つ。譬えるなら、後30万円足りないというのではなくて、むしろ入籍届けのサインが欠けている、と言えばよいでしょうか。そういう一点です。

イエス様に従う。つまり天から救い主として来られたイエス様が言われることを、はいと信じて、お従いする。入籍の譬えで言いましたが、神様を信じるとは、信頼で結ばれて共に生きる関係入って共に生きるということです。それが神の国に入るということです。関係に入るのです。従うことは、救いのための引き換え条件ではありませんので、神様は、それらをいくら積まれても、先に言った悪代官のように、目の前の積まれた何かに心が動くことはありません。

私たちは、神様のことを、どういう方だと思っているのでしょうか。それが、救いのことを考える時に出てくるのです。永遠の命を得たいと思いながら、それを与えたいと願われる神様の思いを考えるのでなく、自分に頼る人間の思いが先に出て、これだけやったから、これだけ積んだからという、条件の話にしてしまいやすいところがあるのです。でも条件の話は神様じゃなくて、人間が持ち出す話です。誰かを愛するのに条件を付けるのは、いつも人間です。なのに、それで神様のことも思うから、人は神の名を出しながら、人間のことを思ってしまうのです。

それが今朝の御言葉では、欠けに対する意識として現れます。この人は、自分には尚、永遠の命を受けるためには何か欠けていると思って、それを満たすためにイエス様のもとに来ました。けれどその足りない、欠けているという意識の前提となっているのは、自分はその欠けを満たすことができるという、自分が先に立つ、人間の思いでしょう。

では、もしそれが神様のことを思っての欠けの意識だったら、それはどんな前提を持つのでしょうか。わかりやすいのは、先週の話の続きになりますが、幼子が、自分の必要は親が満たしてくれると思っているように、神様が欠けを満たして下さるという意識です。それがイエス様に従っていると身についてくるのですけど、その前提にあるのは、自分では満たせないのだ、という意識です。

今朝の御言葉でイエス様が敢えてこだわって「善い方は、神様お一人しかおられないでしょう」と言われた時、その前提にあったのは、人の欠けを、真実に永遠に善いもの、神様の愛から出た慈しみで満たすことのできる方は神様お一人だという前提です。だから敢えて人間善行でなく、神様の恵みを意識するようにと強調されたのです。

ところで、神様を思おうと、人間のことを意識しようと、欠けているのは変わりありません。特に永遠の救いを思う時、しかもそこに入る前に、裁きがあることを意識するなら、そこで人は必ず欠けは意識すると思います。ただ、どれだけ欠けていると思うか、そしてその欠けをどうしたら満たせると思うかで、全く変わってくるのです。

合格まで少し足らんという欠けを意識するのか。あるいは、どうしたって自分では満たせないほどの欠けを意識するのか。お皿が欠けているように、何か、どこかが欠けていると意識するのか。あるいは、自分はその欠けてなくなってしまった部分のような、欠片でしかないと意識するのか。例えば、この福音書の6章で、5千人のお腹を満たすのに、5つのパンと2匹の魚しかなかった。それではまったく足りないと弟子たちが意識したような、自分で満たせるイメージがわかないほどの欠けか。人には不可能です。でもイエス様は、全員を満たされたのです。

人が自分では満たすことのできない欠けを、神様が恵みによって満たして下さる。それが今朝の御言葉のメッセージです。そして、それが、この御言葉が置かれている十字架の教えの流れの中で、一貫して教えられてきた、人間の思いと、神様の思いの間に存在する深いギャップ、溝でもあるのです。誰が一番偉いかという話も、つまずかせる話も、結婚の話も、特に神の国に入るのは誰かという話でも、人間が勝手に思っていることは、ぜんぜん神様の正しさに、愛の正しさに足らんのです。

譬えるなら、天国に入るために越えなければならない川に、私はこれこれの善行を積んできましたという、川にかけて渡るための板を持っているとして、その自分の行いの板の長さはどれだけだと思うのか。そして、そこに自分の板をかけて渡らなければならない川の幅は、どれほどだと思うのか。自分の正しさはどれだけで、神様の正しさはどれだけだと思うのか。少し足らんのか。とても無理なのか。

それが駱駝と針の穴の話です。もうちょっと頑張れば、もうちょっと腰を折れば、ダイエットすれば、無理すれば…。不可能です!駱駝には。そして人間にも。それを分かってほしくて敢えておっしゃったのです。何故なら人は、自分には可能だと思っている間は、イエス様の話を本当には聴けないからです。可能だと思っているから、何をすればよいですか、どんな善行を積めばよいですかと、人間のことを思うのでしょう。俺にはできる、私にはできるんだ、バカにしないでくれと思いさえするのだと思います。私もイエス様を信じる前そうでしたから、よくわかります。罪の赦しを勝ち取ることはできない、それは罪の被害者をバカにすることで、勝ち取るのではなくて、受けるしかないのが赦しだと幾ら聞いても、いや、そんなことはない、できると頑なに思っていました。罪も裁きも努力して飛び越して天国に行けるはずだと、自分を信じて、自分のことしか考えなくて、神様のことを思わなくて、俺には可能だと自分に頼って。

だからイエス様が続いておっしゃったことも自分のこととしてわかるのです。どうして人が救われるのか。素直な人が救われるのか。頑なな人は救われないのか。それはまたしても神様に条件を押し付けているのです。自分の思いで、溝を狭めたり拡げたりして、人間のことを思っているのです。じゃあ誰が救われるのか。人間にはできないが、神様にはできるのです。頑なで、私たちが愛したくない人を、無理したら愛することができると思いながら、自分を信じながら、結局、愛せない人も、神様は愛することができるのです。その人のために、既に死ぬことさえおできになられた方なのです。身代わりになれるのです。償いができるのです。人でも自分でもどうしようもない罪人を、そのために人となられた神様は、完全に救うことがおできになるのです。

そのイエス様が招かれるのです。わたしに従いなさいと。信じて身を委ねてよいと。先に言った譬えで言うなら、そのイエス様に従って入籍することが、洗礼を受けるということです。そのことで何か勝ち取るのではありません。受けるのです。子が親から、その行いの故でなく関係の故に財産を受けるように、イエス様をくださった天の父から永遠の命を受けるのは、その関係の故に、いや、それが私たちの真実に天の父である神様であるが故に、神様の当然として受けるのです。人間が当然だと思うことは自分勝手なことが多くても、神様が、これは当然だと保証されることは、真実そうなるのです。イエス様のために捨てることも、そのイエス様が保証して下さるのです。信じたのか。当然、受けると。