マルコによる福音書10章13-16節、詩編115篇「天国を受ける子供たち」

19/10/13主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書10章13-16節、詩編115篇

「天国を受ける子供たち」

「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように。あなたの慈しみとまことによって」

先に読みました旧約聖書の詩編115篇、冒頭の言葉です。ラテン語でnon nobis あるいはnon nobis domineと言うこともある、教会が古くから大切にしてきた御言葉でもありますが、これが今朝のメッセージのテーマであると、先に申しておきます。主役は私たちではない。言い換えれば、神様のこと、特に栄えある救いのことを決めるのは、私たちではない。私たちはただそれを子供のように受けてしまうのだと主は言われたのです。しかも、そう言うただけでなく、そこにいた子供をほりゃ言うて抱き上げて、手を置いて祝福されました。その場面を想像してほしいのです。人見知りをせん子だったら、キャッ言うて笑顔でイエス様の抱っこを受け入れたかもしれませんし、あるいは人見知りする幼児なら、ギャー言うて泣いたかもしれません。私も幼児祝福をするときに、嫌々ってされる時があって、私はガラスのハートなので実は傷つくのですけど、それでも手を置いて主の名によって祝福します。私ではなく、主よ、あなたが、この子を祝福したいと願われて、連れてきなさいと招かれたのですからと、イエス様の名によって祝福をする。その子は祝福を受けてしまうのです。そのように、神の国を受けるのでなかったら、決してそこに入ることはできないと、十字架の主が言われたのです。

この御言葉を改めて読みまして、ふと私が思い出したのは、三浦綾子さんが、どこに書いてあったか忘れてしまったのですが、まだ求道を始めたばっかりの時に、礼拝に行かれた。そしたら教会の人が眉をひそめて、ここはあなたのような人が来るところではない、というようなことを言われた。当時の三浦さんは同時に二人の男性と婚約したり、たばこ酒なんでもござれのヤケッパチな生活をされておったそうで、そのことをご存じの方が、あなたのような人が、と言ったのでしょうか。もし、本と違っていることを言っていたら申し訳ないのですが、でもそういうことって、ありそうだなと思ったのです。今日の御言葉のテーマで言えば、それは、あなたが決めることなのか?ということです。

先日、十市の子供会を行いました時、じっとしていられない男の子が二人おりまして、もう何回か来た子だったこともあり、南国の岡本先生がお話をしている最中だったので、ほら、後ろ行こう言うて連れていって、私がペタッと座椅子のように座った上に一人の子を、はい、お椅子ですって抱っこするようにして座らせたら、この椅子、気持ちいいってふにゃっとなった。それを見ていた、もう一人の子のお母さんが来ていて、あ、そうかって思われたのか、自分の子を同じように後ろから抱くようにして座ってあげたら、やっぱり少し静かになりました。我が身を振り返り、子育て真っ最中の時は大変やも、余裕ないでねと思いましたが、そのことを思い出しながら、この御言葉を黙想しました。誰かを、またその人の何かを受け入れることは、確かに難しいことが多いと思うのです。三浦綾子さんの話もそうですが、受け入れ難いことは、確かにあるのです。けれど、それを受け入れることを、困難にしているのは、何なのだろうかと思うのです。

この御言葉から思う、そのうちの一つは、私たちが自分で、合格か、不合格の、合否判断をしてしまうこと、またしたいこと、ではないか。自分自身に対しても、私は合格、私は不合格とやってしまいやすいですし、それを相手に対してもやってしまう。教会に来るということに対しても、真面目に神様を求めているなら合格だけど、でも、あなたは素行が悪いのでダメだとか、他人の合否判定までしてしまい、あなたは受け入れられない人だ、という言わばスタンプまで押してしまう。

それを弟子たちもやったのです。子供はダメだと。イエス様のもとに来るのに年齢制限があるなんて、誰が決めたのでしょうか。右頁上の段36節でイエス様が子供を抱き上げて「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃった、その御言葉の説教でも申しましたが、当時は一般に、子供を人扱いしてなかったということもそこに働いたとは思います。ただ、このことは、やはり言えるでしょう。皆がやっているからというのは、そのまま受け入れるのに、隣人を自分のように愛しなさい、受け入れなさいという御言葉は、どうして受け入れられないかなのです。人扱いせんということは、言い換えれば、邪魔やと、モノ扱い、障害物扱いするということでしょうか。自分にとって関心がない相手だから、モノとして扱ってしまうのでしょうか。もし、イエス様を求めてきたのが真面目な人であったなら、どうぞどうぞと受け入れたかもしれません。でも、求めてないように見える人には、何しに来たのか?ご利益宗教をやってるんじゃないんだ、そんなただ祝福されたいとかいうのは不合格だと、この人々を叱ったということは、なかったでしょうか。

昨夜、夕食時にテレビがついていて、一流シェフとかがズラッと並んで大手コンビニのスイーツとかを食べて、一人一人、合格、不合格、という札を出すという番組をやってました。へ~ぐらいの思いで別の部屋に行きましたけど、不合格!という声を聞くのは、嫌ですね。理屈じゃなくグサッとくる。あれ、不合格になったら売り上げに影響するの覚悟でやっている番組だからいいけど、それでも、大丈夫かなと心配してしまいます。不合格を出す勇気、どこから来るのだろうと思うのです。

私たちが、人を受け入れて、あるいは受け入れないで生きていくことは、無論、番組をやっているのではありませんので、その責任は私たち自身が問われるのです。人を受け入れることに対して無責任で、まるであなたは人間として不合格だというような言い方や扱い方を、もしするなら、それが神様の前を素通りすることは、やはりないのだと、御言葉は告げるのです。無責任な合否判定を行った弟子たちを、イエス様は、メチャメチャ怒られる。憤られるのです。

この「子供たち」という言葉は、今で言うと小学校に入る前の、未就学児に該当する言葉、まあ、幼子という言葉です。来月、七五三の時期に合わせて、教会で幼児祝福をする時にも、未就学児に向かって、はい前に出てきて、言うて招いて、手を置いて祝福をします。抱っこされて来る子もいますし、自分で来る子もいますが、もし!です。もし、その時に親が、いかん、あんた言うことも聞かんと今日も騒いで迷惑をかけゆうに、もらえるもんだけ、もらおうたち、いかんで、と来るのを妨げたら、教会として、どうしたらよいでしょうか。

この問題の整理の仕方が今朝の御言葉の急所と重なるのです。これも責任の問題だからです。まず、子供を招く教会としては、幼子は誰でも来てねと招くのは教会が、特に長老会が責任をもって決めることですので、その教会のことは、親が決めることではありません。逆に、子育てのルールは家で、親が決めることですから、家のことに、教会が土足で踏み込んで、こうすべきだと決めるのは、教会が決めることではありません。教会の責任と、親の責任を整理することがカギとなります。言い換えると、そのことについて、誰が神様から責任が問われるか、です。無論、自己責任にはしませんが、家のことは、親が神様から責められます。教会のことは、教会が神様から責められます。それが責任です。

では、どうして弟子たちは、イエス様から責められたのでしょうか。全能の父なる神様から救いを託されたイエス様が憤られるほど、なぜ、弟子たちは、その無責任さを責められたのか。

イエス様のもとに来た人を、受け入れるか、受け入れんかを、自分で決めたからです。それを決めるのは、イエス様なのに!それをどうしてあなたが決めるのか。何様のつもりかと主は憤られるのです。

でも、そこでイエス様は、何でそんなにもこれが責められるべきことであるのかを教えて「神の国はこのような者たちのものだからだ」と、神の国、つまり神様のご支配の話をされたのです。神様のご支配です。人間が、自分で決めて支配するのではない。人間は、その神様のご支配を奪って自分を神とすることは許されんからです。そもそも神にはなれんのに、なのに御子を十字架につけられた神様から、人を祝福する自由を奪おうとする。人をそのままに愛する自由を奪って、あなたは不合格だとスタンプを押してしまう。そうして神様のご支配を、人間の支配のもとに書き換えながら、これが神の態度だと、しかも教会が、もし嘘の神を証していたら、それに対してイエス様は激しいNO!を叩きつけられて、それは絶対にしたらダメだ!と憤られるのです。あなたが決めるなと。神様が誰を受け入れるかは、神様が決める。それが神様のご支配だから、神の国、天国と言いながら、それを自分で決めることは許されない。自分の救いさえ、自分で決めるな。それは、わたしの手に、父から託されているのだからと、イエス様はその責任をご自分の手に握られて十字架の上で、その責めを負われたのです。父よ、すべての人があなたの愛の中に受け入れられるために、わたしが人々の責めを負いますと、主が私たちの罪の裁きさえ受け入れてくださったから、だから!です。だから何もできない幼子を抱っこして、受け入れるも何も、イエス様の腕に抱っこされて、抱き上げられて、十字架の上に一緒に抱え上げられるようにしてイエス様と一つに挙げられて、わたしはあなたを受け入れる、そのためにわたしは来たからと、幼子に手を置いて祝福された幼子は、その祝福を受けてしまうのです。そのように、神の国を受ける者、それが幼子です。その幼子を、その御手に抱え上げられるために来られた方が言われたのです。神の国、神様のご支配は、このような者たちのものであると。そのキリストの言葉を受け入れ、そのキリストの神の国を、幼子のように受けてしまっていい。それがキリストの福音の正しさだからです。十字架の正しさ。犠牲の正しさ。赦しの正しさ。それが、神の義と呼ばれる、神様の正しさ、そして神の国だからです。

神様は赦すと決めておられます。愛すると決めておられます。十字架がそのしるしです。それをそのまま受け入れて、そうだ、それが信仰によって義とされる正しさだと、キリストの祝福を受けてよいのです。