マルコによる福音書10章1-12節、創世記2章18-25節「神様由来の夫婦だから」

19/10/6主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書10章1-12節、創世記2章18-25節

「神様由来の夫婦だから」

イエス様を試そうとした。つまり陥れ、罠にかけようとしたのです。でも、そのために、何で離婚のことなんて出してきたのでしょうか。

彼らは後で再びイエス様を陥れようとして、皇帝に税金を納めるのは律法に適っていますかと、またも群衆のいるところで、主を試します。もし適っていると言えば、群衆から反感を買う。適ってないと言えば、皇帝反逆罪で訴えれる。つまり陥れるために必要なのは群衆なのです。群衆の生活に密着している話題を振るのです。今回のややこしい増税もそうでしょうが、それについて人々は何らかの思いを持っていて、時に感情的にさえなることがある。そういう話題を敢えて選んで人々の反感を買わせることを、さあ言ってみろと、そういう作戦です。

夫婦関係の問題、離婚の問題もそうなのでしょう。扱いにくい問題、しかもこれほど生活に密着した問題はないほどの問題です。それは社会を築いていく人間関係の中で、夫婦関係が、そこから生まれる親子関係と共に社会の基礎となる関係だからです。基礎だけに、そこが歪むと、上に建っている家、生活全体に影響が出る。それが基礎です。

この話はデリケートな話でもあるので、少し丁寧に話を進めます。

イエス様は先週の御言葉でも、具体的な生活について話されました。自分をつまずかせて主に従っていけなくさせる手や足や目のようなものがある。それを失ったら自分の生活が、自分の生き方が不自由になるという理由で、捨てられない何かが自分にあるなら、あなたは、それを取るのか。それともそれを失っても、主に従うこと、命に入ることを選ぶのかと。人間の目には、けど人間だもの、仕方ないよと見えることが、神様の目には、それは地獄の火で焼かれるような罪に見えているのだという話を、イエス様はおっしゃいました。

しかもその話を、その罪を身代わりに背負って死ぬために、救い主は来たのだという、十字架の救いを語る中で語られたのです。それが今朝の御言葉においても続いています。なので、改めて右の頁を2頁戻った8章31-37節の御言葉を共に聴きたいと願います。77頁下段です。

「それからイエスは…どんな代価を支払えようか。」

夫婦関係と離婚について語られる御言葉も、このキリストの十字架で背負われた夫婦関係として、またその破れとして語られていることを、まず心に留める必要があります。でないと、イエス様はまた無理難題をおっしゃるという話に陥りやすいのです。救いの話ではなくて、道徳の話として聞いてしまう。つまり、ここで神様のことを考えるのでなく、人間のことを、また考えているということになりやすいのです。

無論、生活などどうでもよいというのではありません。むしろ主は、神様から始まった生活、神様の御言葉によって生きる喜びが、どういう生活を生むのかを語られるのです。聖書は、十字架で背負われた私たちの、生活の問題を語るのであって、救いとは無関係な生活も、生活から切り離された救いも語ってはおりません。聖書は、道徳と切り離されたキリストを決して語ってないからです。人間を負われ、道徳を負われ、苦しみを、罪を、破れを負われた人の子、主イエス・キリストが、破れだらけの人間に向かって、わたしについて来なさいと招かれるのです。夫婦生活についてもです。

神のことでなく人間のことを考える罪を、よくご存じのイエス様が、では、モーセは何と言っているか、と問われます。モーセが申命記24章で離婚に関して語った律法について、彼らが既に多く論じていた。それをご存じだったからです。では彼らが何を論じていたかというと、要するに、離婚の問題を、手続きの問題にして、じゃあその手続きを進めるうえで、何が離婚に値する条件であるかと、その条件を満たせば離婚できるという話をしておったのです。条件問題にする。救いの話もそう。何を満たせば救われますか。何をすればいいですか。神様との信頼関係の話でなく、自分の人格をかけて相手と向き合わずに済む、条件の話にすりかえる。手続きの話にする。でもそうやって壊れていくのじゃないでしょうか。神様との関係も、人との関係も。

離婚の話だけではありません。全部です。手続きを考えている時は、条件を考える時は、だからこうしたんだと、その条件を、自分が言い訳できる条件にしているのだと思います。こういう条件が揃ったからと。電力会社の金品問題も、こういう条件だったから、こういう相手だったから、仕方ないという話をしてしまうのじゃないでしょうか。聴いていて、言い訳ばかり、ウンザリだと思いたくなる。そんな大人ばかりだと子供たちもウンザリしている。そして世界はどんどん歪んでいく。

イエス様は、それは神様から始まった世界の生活を、なのに神様から出発して始めないから、だから、そうなるのだとおっしゃる。それが、6節から8節の、創世記を引用された御言葉です。「しかし…」。

7節で「それゆえ人は」と言われます。どの故か。神様がそうされたから!それ故人は!です。人からじゃなく、この順番に戻れとおっしゃるのです。この世界が始まった、その始まりにまで戻って、神様が、そうされたから、それゆえ私は!この生活を、神様のやり方で始め直すのだと。神様から出発して、始め直しなさいと言われるのです。

なのに人間は、この関係がおかしくなった問題の出発点は、この人にある、いやそっちにあると、人から始めてしまいやすいのです。でもそれは途中から始めるから、罪から、人から、自分から始めるから、狂うのです。初めから、天地創造の初めからやり直しなさい。この夫婦関係は、から出発したのではないのだから!と主は言われるのです。

それが9節です。これはその前の創世記の引用から、ではその御言葉が教えるのは何かというイエス様による結論です。9節「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。この関係は、神様が結び合わせたものだ。から出発したんじゃない。だから、神様から出発し直そうと招いておられる。

その再出発点が、十字架なのです。人間からじゃない。いや、人間が本当の人間として、共に生きられるようにと、人間となられた神様から始め直すことができるようにと、神様が、私たちの破れを背負われて、死ぬほどに破れてくださった後に復活されて、だから、この破れはもう終わりだと、復活の主として招いておられる。

そのキリストから再出発するのです。キリストが来られたのは、そのためだからです。この世界の内に、私たちの内に、新しい創造を始め直すために来られたのです。「あなたがたの心が頑固なので」と主が嘆かれた心も、直すためにです。直訳は「乾いてカチカチになった心」です。乾いて固くなって、涙も出ないほど、動かなくなった、その心を見て、憐れんでくださる十字架の主が言われるのです。それでは生きていけないだろうと。その私たちのために、涙だけでなく、血を流して、全ての罪を洗って、心を潤して、新しく歩むことができるようにして下さる。それが十字架の主イエス・キリストの救いだからです。

人間が自分の力で、自分から出発してやろうとしても、よけいに心が固くなってしまう。それはもう私たち知っているのです。知っているのに、自分で、自分で…。その私たちを、私たち以上に知っていて下さる主が、わたしのもとに来なさい、休ませてあげようと招かれるのです。柔らかな心と肉を取られたキリストから、全ては新しくなるからです。

その招きのもとで「心の中にキリストを味わう」聖餐に、今から預かります。神様から始まる確かな生活は、ここから新しく始まるのです。