マルコによる福音書9章42-50節、箴言1章2-7節「塩味でいただく主の愛」

19/9/29主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書9章42-50節、箴言1章2-7節

「塩味でいただく主の愛」

イエス様はここで、ずいぶん厳しい言葉を用いておられると思われたかもしれません。確かにそうなのです。後で詳しく説明しますが、地獄という言葉がここまで連発されているのは、福音書の中でも他にないんじゃないでしょうか。

厳しい内容が語られる御言葉なら、他にも聖書には多くあるのです。特に神様の聖さについて、神様の正義の基準と、私たちが、これで十分だろうと思っている正しさの基準とが、いかにかけ離れているかという内容を語っている御言葉、自分がいかに神様の前には罪人であるのかを示される、そういう意味で厳しいと思う御言葉は多いのです。例えば、みだらな思いで人の妻を見る者、つまり自分の妻以外を性的に見る者は誰でも、心の中で既に姦淫を犯しているのだという御言葉などです。

でも今朝の御言葉は、むしろ言葉の厳しさ、強いイメージや印象が、内容に先立ってしまい、具体的にイエス様が何をゴールとして私たちに求められているのかが、少しわかりにくいかもしれません。

ただ、その強烈な地獄のイメージを繰り返しながら、イエス様が何を繰り返しおっしゃっているか、それはおわかりになられたと思います。人を、そして自分自身をつまずかせることの深刻さを、繰り返して言われるのです。

ここでのテーマ、主題は、つまずきの問題です。教会の中で、繰り返し出てくる問題だとも言えます。あの人につまずいたとか、牧師につまずいたという言葉は、教会生活をしていると、嫌でも耳にして、覚えてしまう言葉かもしれません。それは単に教会で嫌な思いをして傷ついたということではなくて、イエス様と共に歩めなくなってしまうことを、聖書はつまずくと言うのです。イエス様が、わたしについて来なさいと招かれる、その方向について行かなくなるのです。どうしてそんなことになるのか。イエス様が愛を込めて「わたしを信じる小さな者」と言われる人を、あるいは自分自身を、つまずかせる問題が起こるからだと、それは人間だから仕方ないなどと軽く済ませられない、深刻な問題だと主は言われるのです。

そして、先に結論を申しますと、じゃあ何をイエス様が求めておられるか。それは、御言葉の最後にある「互いに平和に過ごしなさい」。これです。人をつまずかせることをせず、自分をつまずかせることもしないで、互いに平和にありなさい。アーメン、その通りだなと思う言葉ですけど、なら、つまずかせる問題が、それで解決するか。この言葉によって私たちが互いに平和に過ごせているか。そうでないなら、何か欠けているのです。塩が欠けている。だから自分自身の内に塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさいと言われるのです。

ではその塩って何か。これを理解させるために、49節で「人は皆、火で塩味を付けられる」と言われます。自分自身の内に塩が欠けていて、だから、人も自分もつまずかせるのであれば、火が必要だとイエス様はおっしゃいます。その火についておっしゃっている言葉、それが厳しいのです。地獄の火について繰り返しおっしゃった上で、火が必要だとおっしゃる。身構えてしまうのではないでしょうか。

でも、そうやって身構えるような言葉を、敢えて用いられたのだと思うのです。例えば、どうしてもすぐ言い争う子供たちに、親や先生が、互いに平和に過ごしなさいと言ったら、止まるでしょうか。大人は違うのでしょうか。正しいことを言われても、問題は解決せんのです。

人をつまずかせることも、また自分自身をつまずかせることも、それでは解決しない。それは、でも、私たちも分かってはいることだと思います。そこで、自分に必要なのは、信仰が足らんのだとか、強い意志が足らんのだとか、真剣さであるとか、誠実さであるとか愛だとか、色々これがあったらと思うのかもしれません。でも現代に生きる私たちは、ここでイエス様が繰り返しおっしゃっている、私たちの罪に対する神様の怒りと裁きに対する畏れが足らんのだとは、なかなか思えないのかもしれません。ひょっとすると、だからこの御言葉でイエス様が言われた厳しさに、身構えはしても、いや、でも、そこまでダメなことですか?イエス様の招きに従わなくなるのは、そこまで深刻ですか?と御言葉を受け入れないで、塩気を失ってしまうのかもしれません。

でもイエス様は、つまずかせるという問題は、そこまで深刻な問題だとおっしゃるのです。そしてその深刻さを、自分のこととして分かってほしくて、また分かるだけではなく、分かって、変わってほしくって、敢えて強烈なイメージの言葉を、言わばこれでもかというぐらい並べて私たちを説得なさるのです。

その説得の言葉として、地獄という言葉が連呼されるのは、例えば、仏教の地獄絵図を思い起こさせるかもしれません。嘘をつくと閻魔大王に舌を抜かれるよと地獄の絵を見せて道徳教育をした。それと似ているのではないかと。敢えて言うなら、確かにそれと似たことをイエス様はなさっていると思いますが、決定的に違う点は、その裁きの厳しさを、主がご自身で受けられて、そのわたしに従いなさいと招かれる点です。そこに先に塩とは何かと問いました、塩の塩気もあるでしょう。十字架のイエス様に従う塩気だから、裁きをないがしろにしない。そして愛もないがしろにしない。十字架の主の塩気だから、だから小さな者たちに仕えることができるのです。キリストを信じて火の裁きを畏れるとは、そういうことでしょう。裁きがなくなるわけではないのです。やがて、十字架の主ご自身が、生きている者と死んだものとを裁かれるのです。その主の裁きを知っているから、信じて畏れることができるのです。

そこで説教の冒頭で言いました、仏教で使われている地獄と訳された言葉について、説明します。これは、エルサレムの都の南の城壁の外にありましたヒノムの谷という場所の名前で、ギリシャ語でゲヘナという地名です。旧約時代、ユダヤの民が、その谷に作った偶像の祭壇の上で我が子を生贄として捧げるというおぞましい行為を行いました。それがヨシヤ王の改革の時、そんなことが二度と起こらないようにと、その谷を汚して以来、その谷には動物の死骸や汚物、ありとあらゆる廃棄物、犯罪者の死体までが廃棄されて、昔の夢の島のようにメタンガスに引火した火が消えることなく燃えていたようです。その光景を、イエス様が来られる少し前の時代に、罪人の裁きは、あのゲヘナに投げ捨てられて廃棄される裁きだと、消えない火のイメージと共に言われるようになった。その裁きのイメージをイエス様も用いられて、その火を知っているだろう、自分をつまずかせることが、どれほど厳しい裁きに値するか、どうかわきまえてほしいと説得なさるのです。

そこでイエス様がおっしゃった、手や足や目が、あなたをつまずかせるなら、というのは、どういう意味か。それはゲヘナの火が実際の罪の裁きそのものと言うより、裁きのイメージであるように、手そのものがどうのという話ではありません。手癖が悪いというのなら、わかりますけど、片方の足が自分自身をつまずかせるって、どうやるのでしょう。

つまり、イエス様を信じる小さな者をつまずかせる者は、重い石臼を首に懸けられて海に投げ込まれる方がはるかに良いと言われたことが、実際にそうせよと命じられたのではないのと同じで、譬えるならという言い方なのです。海に投げ込まれたら、もはや小さな者をつまずかせることはできない。小さな者が守られるのです。それほど、この小さな者をつまずかせることは、主の愛に背くことだとおっしゃるのです。

今朝の御言葉は、つまずかせるという言葉自体、譬えの言葉ですが、それ以外の言葉も、最後の「互いに平和に過ごしなさい」だけが実際のご命令である他は、火も塩も譬えの言い方なのです。

その上で、誤解のないように申しますが、譬えとは、譬えで語られる内容が、嘘になるわけではありません。人と自分とをつまずかせることが、死の宣告を受けるのと同じほど深刻である事実は変わらんのです。

ですので、あなたをつまずかせる手や足を切り落とせとおっしゃるのは、実際の手足を切り落とすのではなくて、もし自分にとって、これを捨てたら不自由になると思う、それほど自分に大切なものであっても、それがあなたを、イエス様に従わなくさせているなら、つまずかせているなら、それはゲヘナの火の中に棄てられてしまうほど重い、深刻な罪だと、神様は見ておられるという意味です。

この世の考えでは、そんなのは、でも誰もがやっていることじゃないかと考えるかもしれません。ちょうど先に申しました、みだらな思いで自分の妻でない女性を見るのは、心の中で姦淫を犯すのと同じ罪だと、イエス様は言われたけど、でもそんなのは誰もが…と思うようにです。

でもそこで、皆やっているとか、人間だもの、仕方ないよと考えるのか。それとも、神様のことを考えるかなのです。言い換えれば、人間は裁きはないと思うのです。あっても軽いと思うのです。まさかゲヘナに投げ込まれる罪とは、きっとそのゲヘナで我が子を殺して祭壇に捧げる偶像礼拝をしていた人たちも、その自分が聖なる主の裁きに遭うとは、思ってなかったと思うのです。ユダヤ人として知ってはいても、です。でも、そういう信仰が、本当に人を救えるのか。私たちが神様を信じている、あるいはキリストを信じているとさえ思っていても、その信じているキリストが、そのような私たち人間のゲヘナの罪をこそ背負われてゲヘナの火で裁かれて死んで下さった事実の前に、アーメン、だから、私たちはキリストの赦しの平安に生きられるのですと、十字架の火によって塩味を付けられた信仰でなかったら、私たちは、使徒信条をもって告白する、やがて生きている者と死んでいる者とを裁くために来られるキリストを、どのように信じたらよいのでしょうか。

でも小さな者をつまずかせた罪も、心で姦淫を犯した罪も、キリストに従わなくてもいいと自分をつまずかせた罪も、主は負って下さった。その十字架の裁きを信じるから、キリストを信じられるのです。そこに塩味の利いた信仰が立ち直るのです。つまずいても、主が立たせて下さいます。その十字架の主を信じるから、互いに平和に過ごすのです。