マルコによる福音書9章38-41節、イザヤ書44章21-23節「自分は誰かを見極める」

19/9/22主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書9章38-41節、イザヤ書44章21-23節

「自分は誰かを見極める」

「私たちに従わないので、やめさせようとしました」と言ったときのヨハネの顔、どんな顔をしておったのでしょう。ひょっとドヤ顔で言うたりしてはなかったでしょうか。

あるいは私たちも、悪霊を追い出す働きはできんと思っても、けんどキリストの弟子だから、キリスト者だからというので行う働きはあるのです。私はキリスト者だからという理由で例えば礼拝しに来る。聖餐式のある時には、聖餐のパンと杯にも与る。でもそれを、もし、自分で勝ち取った特権であるかのように、自分には信仰があるからとか、まるで信仰や信仰者であることが、自分の所有であるかのような態度になっていると、偉い人、正しい人の顔になるんじゃないでしょうか。

先週、長寿祝福礼拝の御言葉で、マタイ福音書の「心の貧しい人々は幸いである」と主が言われた祝福の宣言を聴きました。実はそれ以来、ずっと一週間思っていたことでもあります。貧しい、つまり持ってない人々、所有してない人々の幸いを、イエス様は、神様のご支配はその人のものだからと言われたのです。神様を持ってない人の救いのために、わたしは来たのだから、わたしは主、その人の神だからと。

その幸いと対極にあるのが、私はキリストを所有しているという態度ではないかと思うのです。キリストも救いも信仰も他の何であろうと、自分が持っている、所有していると思うところで、おかしくなるんじゃないか。例えば自分の体なんだから好きにしていいじゃないかと。

10年ほど前に流行ったハーバード白熱教室という番組があって、本にもなっていますが、そこでサンデルという教授が、正義とは何かを皆に問うた。例えば勝ち組が富や幸せを享受するのは正義かと。ある学生が自分たちは努力して勝ち取ったんだから、当然の権利だと言うと、教授は、自分で勝ち取ったと思っているようだが、それを可能とした境遇も自分で勝ち取ったのか。貧しい地域、家庭、能力に生まれた人を、同じ土俵に上げて勝ち負けを競うのは不公平じゃないか。そもそも公平じゃない社会、世界において、そこで正義とは何かを問うた。その通りだと思って、私も白熱して見ておりましたが、同じことは、キリスト者であるとは、どういうことかを考える時も、当てはまるのです。

自分の行いを考えるに先立って、その自分に神様から与えられているのは何か?と問うところから始めるのです。与えられているということを、難しい言い方で言うと、所与と言いますが、本当は与えられている所与を、自分の所有だと考える態度から、全部ねじ曲がっていくのではないかと思うからです。コリント書には「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(一4:7)という言葉もあるのです。

聖書は、所有と言うよりは、むしろ、与えられて管理しているという言い方をします。すぐ思いつくのはタラントンの話でしょう。与えられた才能という意味のタレントという言葉で、よく用いられますが、管理してお仕えするという英語でステュワードという言葉もあります。その働きをする女性をスチュワーデスと言います。機内放送でシートベルトをお締め下さいと言うときに、上からものを言っているわけではない。乗客の安全管理の管理権を託されているから、その管理責任を果たしているのです。

キリスト者であることもです。また、それに先立って私たちに与えられている命そのものも、命の主から与えられた命に他なりません。そもそも命を勝ち取って生まれた者はおりません。でも命さえ所有しているかのように勘違いする社会に生きていたら、勘違いしてしまう。自分の子供の命さえ好きにできるのだと。どのニュースのことを言っているのかと思われるかもしれませんが、どれもじゃないでしょうか。

私たちも、ヨハネも、他の弟子たちも、誰もキリストや救いや真理を所有しているのではない。むしろ人々とその恵みを分かち合うために、言わば管理を、主から託されているのです。

更にこの関係を神学的に言うなら、所有ではなく、一体とされているのです。キリストと、一体とされている。それがキリストの弟子だという理由で、キリスト者に一杯の水を飲ませてくれる人が報いに漏れないと主が言われた所以でもありますし、また教会がキリストの花嫁とさえ呼ばれている所以でもあるのです。花嫁に水を飲ませてくれる人を夫が邪険にするでしょうか。

夫婦と同じだと聖書は言うのです。それは奥義だとエフェソ書で言われますが、こう考えるとわかりよいのです。私は妻を所有していますと言ったら、違和感を覚えるんじゃないでしょうか。でも私は妻と一体ですと言ったら、ごちそうさまとか言われるかもしれません。でもそれがキリストと私たちの関係だと聖書は断言するのです。

所有ではなくて一体。別々の人格なのに、二人はもう一体だと言ってはばからない。これはすぐ左の頁上、6節以下にもある主の言葉です。所有ではなくて一体。私たちの体で考えるなら、頭が体を所有していると考えるのも、体が頭を所有していると考えるのも、おかしな話です。

そもそも、なぜ一体とされたのか。共に生きるためです。しかも永遠に神様と共に生きるためです。そこまでキリストと一体とされるから、救われるのです。所有なんて、そんな、みみっちい話ではないのです。自分で救いを所有しているとか、こんな信仰じゃ所有してないんじゃないかと、どっちに転んでも自分中心に考えて自分自分になるところで、神様に対しても、人に対しても態度がおかしくなる。ともすると、次の週の御言葉ですが、42節「わたしを信じるこれら小さな者の一人をつまずかせる」ことをしてしまう。ヨハネが、俺らに従えないのなら、勝手にイエス様の名前を使うなと言った相手も、イエス様を信じておったのかもしれんのに、ひょっとヨハネの言い方や態度によっては、なんだ、じゃあ、もうやめた、あんなのが弟子なんだったら、一緒にやっていけるかと、つまずかせたかもしれんのです。

そんな私たちのことを、もし神様が、それがあなたの態度だったら、一緒には生きていけんから、悔い改めて、一緒に歩むことができるようになったら、捧げもん持ってやって来い、ほいたら一緒に歩んじゃうきと言われる神なら、そもそも神様は、私たちの罪を背負って死ぬために人になられたりはせんかったでしょう。イエス様が一体となって一緒に歩んで下さらんでも、またそのイエス様と本当に一体とされて歩む教会が一緒に歩んでくれなくても、一人で悔い改めて救いに相応しくなれるなら、そもそも、その人は最初から持ってるでしょ。所有してますよ。自分の救いを。救われる力を。そしたら後その人に必要なのは、法的に罪が赦免されたという神様からの認定ということでしょうか。ようやったねえ、頑張って、救いを勝ち取ったねえという話じゃないですか。

ヨハネも、ペトロも、他の弟子たちも、私たちも、そういう救いを、自分が所有できると思っている救いを考えておったから、おかしなことをやるんじゃないでしょうか。自分はイエス様に従っているから、これこれを所有している、イエス様のご好意も、頑張っているから所有しているんだ、勝ち取ったんだとドヤ顔の信仰になってしまう、そこにこそ神様が身代わりに死ななければならなかったほどの、どうしようもない人間の傲慢が露見するのです。しかもキリストの名が使われる場面で、キリストの弟子たちの内に、露わにされてしまうのです。

その弟子たちを、けれどキリストは自己責任にして責任追及することはなさらずに、その責任を代わりに負われるのです。そして共に生きて下さるのです。それが一体となるということです。罪に染まった私たちが救われるためには、他に仕方がないのです。でも、この場合の、仕方がないというのは、人間の、最後まで責任を取りたくないからという、あきらめや妥協や当てつけの言葉ではなくて、これがその名を愛と呼ばれる神様の仕方だからです。仕え方と言ってもよいのです。

一体となるというのは、単なる神学用語や救いの説明ではなく、愛と責任を言い表す言葉です。罪を犯す人間が、そこに関わってくる時は、どうしても赦しがなければ、成り立ち得ない言葉です。一体どころか、バラバラになる。裂かれてしまって、一緒に歩めない。でもキリストは違うのです。バラバラにさせんために、ご自分の体と命が引き裂かれて天の父から見捨てられてでも、それでもあなたを見捨てないためにと、十字架で自らを打ち捨てて、私たちと一体となることを選ばれた。命の主であられる方が、罪人の救いのために仕えて下さったのです。

だから、そのキリストを信じて、キリストと一つに結ばれ一体となる洗礼を受けた全てのキリスト者は、その責任を、全部キリストに負われて、永遠に赦されているのです。そこまでキリストが背負って下さり、償って下さり、何があっても一体だから、永遠に共にいて下さるから、だから救われるということを、これがキリストの救いだということを、信じてよい。そしてこれがキリストだと、キリストの弟子として信じて歩む信仰の歩みは、ならば、先に申しました、所有しない者、貧しき者の幸いなる歩みに、なっていかざるを得ないでしょう。

それが言い換えれば、自分から自由にされていく道でもあるのです。自分が持ってなくても良いのです。与えられていることの感謝と謙遜に身を置くほうが、この言い方はどうかとも思いますが、ずっと楽です。ヨハネも、こう言えばよかったかもしれません。あなたもイエス様の名を与えられちゅうがやね。そのイエス様のこと、もっと知りとうない?紹介するでと。

私たちも、例えばお店や家にハロウィン商品が並んで、むしろ悪霊を呼び込んでそうでも、それをドヤ顔で否定するより、そっから話ができる言葉を与えて下さいと、天の父に求めたらよいでしょう。また十字架のアクセサリーを首や耳につけた方を見ても同様に、むしろ、主が話すきっかけを与えて下さったと、その人に既にお仕え下さっている主に、お従いしたらよいのです。主はその方を既に愛しておられるからです。