マルコによる福音書9章30-37節、ミカ書6章8節「心の中の怖れと欲望」

19/9/8主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書9章30-37節、ミカ書6章8節

「心の中の怖れと欲望」

イエス様から、何を議論しよったが?と問われて、黙ってしまった。その弟子たちの顔が見えるようです。恥ずかしかったと思います。

誰が一番偉いか。直訳は、誰がより偉大か。子供が背の高さを比べるように、つい人と比べて、人や自分に優劣をつけてしまう。

でも、何を基準にして、より偉いかを判断するんでしょう。もし学校だったら、学業やスポーツの成績とか、かっこえいとか、人に好かれて人望があるとか、そういう条件が偉い基準になるのでしょうか。

大人社会でも似たようなものかもしれません。実績とか、稼ぎがえいとか、かっこえいとか、人に好かれて人望があるとか。ほぼ同じ。稼ぎが加わるぐらいか。

じゃあ、これを教会でやるとどうなるか。相応しくない、と感じるんじゃないかと思います。実績とか。比較するとか。

この時の弟子たちは、どういった基準を持ち込んで、自分たちに当てはめようとしておったのか。聖書をよく知っている、とかでしょうか。祈って、律法を守って、奉仕を行って、人望があるとか。

じゃあ、イエス様から好かれて人望があると思っていた人、思われていた人って、おったんでしょうか。おったかもしれません。9章2節でイエス様が山に登られて姿が変わったとき、ペトロとヤコブとヨハネの三人だけ連れて行ったんです。後の弟子たちは、その間、子供から悪霊を追い出そうとしてできなくて、律法学者たちと議論していた。山に連れてってもらった三人は、それをどう思ったでしょうか。俺たちなら、悪霊を追い出すことができたと思ったかもしれません。あるいは逆に、できなかった弟子たちが、その三人と自分たちを比べて劣等感を感じたということは、なかったでしょうか。

似たようなことは、私たちも、ついやってしまうと思うのです。

そこで、イエス様が弟子たちに、まあ、ちょっとこっちに来なさい、よいしょ言うて座って、弟子たちも一緒に座らせて、文字通り膝突き合わせて話をなさった。私たちとも、イエス様はここで膝突き合わせて、御言葉を語ってくださいます。35節「いちばん…」。

ここでイエス様が人に求められる価値基準と、弟子たちの価値基準は真逆の方向を向いています。

神様の眼差しって、だいたいそうだなと思います。神の国は、人間が求める世の価値基準を、ひっくり返した価値基準が多いのです。ズバリ何をそこで目指しているかが違うからです。自分が目指すを見ているか、それとも後ろの人のことを大切に見ているかとも言えるでしょう。また先にイエス様がペトロにおっしゃった言葉で言えば、人間のことを思っているか、神様のことを思っているか。この違いです。

今朝の御言葉で重要な神様のことって何か。何をイエス様は目指しておられて、でもそれが弟子たちには分からなくって、つい馬脚を露してしまったのか。それが30節以下で弟子たちに教えられた、十字架の死と復活なのです。

神様が私たちの罪を身代わりに背負って、自らを犠牲にして罪を償ってくださったから、だから人は罪赦されて救われる。神様が身代わりになってくださったから。償い切ってくださったから。だから刑務所から償いを終えた人が出てくるように、主は死から出られた。復活とはその完全な償いを言うのです。人を滅ぼす罪と死に対する完全な神様の勝利を、復活と言うのです。

その救いを、あなたが受けられるなら、わたしは死んでもかまわないという眼差しで、この時もイエス様は弟子たちを見ておられて、そして同じ眼差しで私たちを見ておられます。いつでも、いつまでも。

その神様の眼差しの奥にいつもある十字架から目を離したら、神様の私たちへのお気持ちが分からんなって、私たちの立つべき価値基準を見失ってしまうのです。そしたら、たとえ世界を手に入れても、あなたを失ったら、その世界に何の価値があるとおっしゃった神様の価値基準が分からんなって、自分を見失ってしまう。人の価値も見失ってしまう。世の価値観に振り回されてしまう。それが弟子たちに、どのように起こったかが、ここでは赤裸々に映し出されています。

何で弟子たちが、イエス様の眼差しと真逆の自分の欲望の話なんかになってしまったかというと、イエス様の死と復活の話が分からんかったからだと、今朝の御言葉もまたイエス様の十字架の教えと、弟子たちを振り回す人間の思いとを、セットで語るのです。

31節で「…と言っておられたから」と訳された言葉は、直訳すると、「教えておられて、言っておられたからである」。つまりポツンと、一言二言で謎かけのように言ったのではなく、その内容を教えておられたのです。こういうことだと。けれど分らなかった。どうしても我が事に、自分のことにならなかった。むしろ、自分が求めることと異質すぎて、ついていけないだけじゃなく、ついていきたくない、遠ざかりたい話をされて、怖かった。怖くて尋ねられないほど、聴きたくない話を、でもイエス様は弟子たちのために集中して教えたのです。人々に気づかれて別のことをするようになるのを「好まれなかった」とハッキリ言うほど弟子たちに知ってほしかったのです。その時も、今も。それだけ十字架と復活が分かることが、神様のことが分かって生きられるようになる、唯一の土台、立ち位置だからです。

十字架のもとに立って、神様が自らを捨ててまでも求めて下さった、私たちの救いを、神様が今も見つめておられる人々の救いを、十字架のもとに立って一緒に見つめて、一緒に求めたらよいのです。そこに本当の幸いがあるからです。その眼差しから離れて、十字架から離れて人が欲することは、的外れで、基準が狂っていて、救いとは関係ない方向、むしろ救いから人を遠ざけさせる不幸せな方向を向いていると思うのです。例えば私が思うのは、私は人に、どうだ俺の言っていることは正しいだろうと思わせて反省を促す、お説教をしてないだろうか、説教とか伝道とか教育の名のもとで、人を言い負かせることをしてないか、皆とイエス様を見上げるより、しゅんと、うつむかせることをしてるんじゃないかと、いつも襟を正す思いをさせられるのです。

けれどイエス様が今朝の御言葉で、よっこいしょと先ず自ら座って、さあ、みんなも腰を下ろして楽にしてと招かれた時、きっとイエス様は笑顔で弟子たちに話されたと思うのです。それが証拠にって言うのではないですけど、その家に小さな子供がいて、その子をイエス様は連れてきて皆に分かってもらおうと、子供の手を取って、大人たちの真ん中に立たせた。そんなん、イエス様が怖い顔してたら子供は来んでしょう。いや本当のことを言えば、大人だって、怖い顔した人のもとには来たくない。どうしたら子供も大人も来たくなる礼拝をイエス様に捧げることができるだろうかと思います。どうしたら教会が、怖い顔した偉い人の集まりにならなくて済むのか。そういう話をイエス様はここでなさったと思うのです。十字架の愛の話を。人を受け入れるという話を。

このような子供を受け入れる、ということを考える時に、どのような子供を想像するかで、その受け入れイメージも随分変わると思います。極端に言えば、24時間泣き続けている子供。何一つ言うことを聞かない子供。それ、そんなに極端じゃないと思う人もいると思います。敢えてこう言ったらストレート過ぎるでしょうか。何一つ言うことを聞かない分からず屋の大の大人を、イエス様の十字架を思って受け入れる人は、イエス様を受け入れるのです。簡単に受け入れられるなら、へ~、受け入れればいいのかで、終わってしまうような話です。当時は今と違い、子供は大人に比べて価値が低い思われていました。昨今の日本で言えば生産性がない人を国として受け入れる必要があるのかという話題です。お国のために役に立つかどうかの価値基準。お国のためを、会社のためとか、クラスのためとか、教会のためとか言い換えたら分かりよいかもしれません。それが子供でも大人でも、この人がいると足手まといで、お荷物だと感じる世界、このような人がおらんかったらいいのにとさえ思う怖ろしい世界に私たちはずっと生きている。

それは、そんな私たちを受け入れ永遠に共に生きるために、神の御子を十字架で身代わりに裁かれた神の国の価値基準と、なんと正反対か。神様は、あなたと共に生きたい!と、そのために人となられて十字架で全てを受け入れて、その引き換えに自らの命を償いとして支払われたのです。それであなたが永遠の御国に受け入れられるならと。その神様が言われるのです。この世では価値が低いと思われる、この人を、わたしのために受け入れる人は、わたしを受け入れるのだ。わたしはこの人と共に生きたいし、あなたにもそこで一緒に生きてほしい。それが十字架なんだ、分かってくれるだろうと。

イエス様が抱き上げられた子供は、きっと何で抱き上げられたのか、分らんかったと思います。でもイエス様に愛されたのは分かったと思います。同じように、きっとこの時の弟子たちも、イエス様が自分たちを愛しておられるのは、それは分かったと思います。受け入れられているんだと。でもそれが分かれば十分とはイエス様は言われません。それだと自己満足の十分で、この世と変わりありません。イエス様は、わたしのために、あなたの受け入れがたい人を受け入れて歩んでほしいと求められるのです。そこで私たちは知るのです。自分たちが偉大などころか何と小さな愛しか持ち得てないかを、何と自分たちの支払う犠牲の小さなことかを、人を受け入れることに挫折するたび、思い知らされるのだと思います。でも、そこで理解していくのです。その私を受け入れて下さったイエス様の十字架の何と大きなことかを。そのために支払われた犠牲の何と大きくて重たいことかを。こんなにも重い十字架をイエス様は背負われたのかと、そこで十字架を知るのです。我が事として知るのです。そしてそこでイエス様から知らされるのです。この十字架より、あなたのいのちのほうが重い。わたしのもとに来なさいと、イエス様の救いの重みを知るのです。