マルコによる福音書9章14-29節、イザヤ書59章15b-20節「議論する人と祈る人」

19/9/1主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書9章14-29節、イザヤ書59章15b-20節

「議論する人と祈る人」

なすべきことがあるのに、それができない時があります。できるはずのことが、できてないのを見ることもあります。夏休みの宿題とか(笑)。大人だってそうです。なすべき沢山の宿題を抱えて、でもできなくて、それに対して何か言われたら、だって…って議論になるのか、それとも謙って主に祈るのか。そこには大切な違いがあるでしょう。

弟子たちは、議論を始めてしまいました。でも、自分は正しいという前提で論じ合う議論が、何かを生むことはないことを、きっと私たちはもう知っているのです。

逆に、自分は正しくないという前提から出発して、だからこそ、神様の正しい答えを求めて、聖書の言葉で言えば、神の義、神様の愛の正義を求める態度で、神様の前で議論するなら、そこに神様の助けはあると思います。その態度を、謙遜とも言えるでしょう。

自分の正しさから出発しない。それは、自分の欠けから出発することです。その反対が自己満足であって、そこから出発したら、俺は正しい私は正しい、それがどうして正しいかの言い訳の議論になってしまう。

その自己正当化の議論を、他の人を出汁にしてやることもあります。あの人はこんなに困っているのに、何をやっているんだ、その苦しみに寄り添うべきだというような議論です。そこには、ではその人自身は、どうなのかが透けて見えてしまうのですけど、そこで寄り添えない欠けと痛みから出発するなら、一方的に責める口調ではなく、違う言い方になるんじゃないか。悔い改めと祈りになるんじゃないでしょうか。

弟子たちも律法学者たちも、苦しむ親子を置き去りにして議論するのです。なすべきことを置き去りにしたまま。すべては、自分を捨てて、自分の業、自分ができる・できないをも捨てて、十字架の神様の御業を求めて祈るところから、始まるのに、です。

28節で「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と、主は言われましたが、さすがに弟子たちも、祈りはしたと思うのです。少なくとも、いわゆる形としては、祈ったと思います。ただ、例えば、私は牧師として今も苦しみますが、説教が説教になってないことがある。それで打ちひしがれる経験をするのです。それは祈りにおいても言えるんじゃないでしょうか。祈りが祈りになってなかったということが。

では、神様が求められる祈り、イエス様が主の祈りで教えて下さった天にまします我らの父に祈る祈りとは、どのような祈りなのか。

それを今朝の御言葉は「信仰」という点で明らかにするのです。この父親が何と言ったか。「信仰のないわたしを助けて下さい」とイエス様にお願いした。私たちの祈りを聴いて下さり、その全存在をかけて、その御名によって、父に執り成してくださる救い主に向かって「信仰のない私を助けて下さい」と依り頼んだ。

父に私たち罪人を執り成し、父との関係を橋渡される方、それが人となられた子なる神様、イエス様なのだとは、おそらくこの父親は知らなかったでしょう。でも知らずとも、この父親は、その方に向って言わば祈ったのです。十字架で罪人を執り成される方に、その御名によって、つまりその全存在をかけて、罪人の救いを天の父に執り成される救い主に向って「信じます、信仰のないわたしを助けて下さい」と祈った。

信じます!そこで明確にされた信仰は、イエス様信頼する「信じる」です。他の誰にでもない、イエス様にお願いしたのです。助けて下さいと。

イエス様信頼する。けれど、その信仰は自分の内にはない。そこが急所です。信仰は自分の内にはないからです。信仰とは、私と神様との間にある信頼関係だから、神様との信頼の間柄であるからです。

だから自分の内に信仰を求めたら、私はこれをした、これができる、またはこれができない、あれもしてないと、間柄でなく、自分の手柄を求める自己満足の世界に生きることになる。それが19節で「信仰のない時代」とイエス様が嘆かれた世界の姿です。間柄でなく、自分の行い、自分の信仰で、神様にしかおできにならないことを片付けようとする、信頼関係を求められる神様を知らない世界の、何と薄っぺらいことか。

でも、だからこそ、その世界に、天の父はキリストを与えて下さり、父との間柄として執り成し、信頼関係の橋渡しそのものとして、私たちを助け救って下さるのです。神は愛だとはそういうことです。いつも、父なる神様との関係をイエス様が取り持ち、執り成して下さっている。そのイエス様を信じるから救われるのです。行いではなく、信頼の関係に結ばれて、人は救われるからです。

だから、この父親はまことに正しいことを言った。自分の内には信仰はない。でもそんな私を、イエス様が助け、取り持ってくださると信頼します!と。それが救い主イエス・キリスト様だからです

ですので、そのイエス様が「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」とおっしゃったのも、堪忍袋の緒が切れそうだという、個人の我慢の問題ではなくて、信頼関係があるはずの弟子たち、私たちと、共に生きる関係の問題を言われるのです。言い換えれば、信頼関係に共に生きるのだから、それなら、知ってもらわないかんことがあるという問題です。でも、それを私たちがわかってなくて、的外れなことをしていると、自己正当化の議論とか、自己満足や自己責任とか、そしたら、あなたがたは、いつになったらわかってくれるのだろう、信頼関係に生きることが、わかって歩めるようになるのは、いつなのかと言っておられるのです。

無理解なままでも愛してはおられますけど、愛の関係に生きるというのは、互いが互いを知って、そこで知った相手を愛する関係をいうのでしょう。ならば相手を無理解なままで、愛していると言っても、自己愛の投影に過ぎません。ハリウッドスターが映画の宣伝で、日本の皆さん愛してますと言っても、私の何を知っているのだろうと思ってしまう。知った相手が自分に都合の悪い相手だったら、愛せなくなるんじゃないでしょうか。

でも神様は、それでも愛される愛で、赦して赦し抜いて、だからこそ真実の愛の関係を求められる神様です。それが十字架の愛だからです。その神様を知ってほしい。無理解なままでなく、十字架の愛を知って、その愛の関係に結ばれて歩んでほしいと、主は私たちに求められます。そこに愛故の忍耐が生じるからです。

その忍耐は常にゴールを持っています。持っているから忍耐できる。イエス様もそうです。そこに私たちもまた希望を見出して、イエス様の忍耐に身を重ねられます。それを証する御言葉を最後にお開き戴けますでしょうか。ローマの信徒への手紙5章1-5節(新約279頁)。

「このように…心に注がれているからです。」 神の栄光にあずかる希望。これがゴールです。完全な罪からの救い、完全な解放、そして何より、もう神様を悲しませなくていい。心からの喜びを持って神様と永遠に生きられる。それが十字架で主が見ておられた栄光のゴールです。その希望を、御言葉は私たちに約束しています。だから私たちもまた忍耐を持って、神様が喜ばれる、愛の正義の関係に共に生きるのです。そのために主が執り成し、祈って下さっています。十字架で裏打ちされた忍耐が、それ故に私たちにも与えられて、栄光の希望を仰いで、祈る歩みが、そこに新たに始まるのです。