マルコによる福音書9章2-13節、マラキ書3章23-24節「枠にはまらない救い主」

19/8/18主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書9章2-13節、マラキ書3章23-24節

「枠にはまらない救い主」

「聖書に書いてあるように」。例えば、こんな話です。預言者エリヤの時代、当時のイスラエルの王アハブは、人々に偶像礼拝をさせることを良しと考えておったので、主はエリヤをアハブのもとに遣わされます。なのに、その預言者エリヤを見て、アハブがこう言うのです。「お前か、イスラエルを煩わす者よ」。で、エリヤが、それは、あなただ!笑えない漫才みたいですけど、アハブにはアハブの持っている枠組みがあって、その枠からエリヤを見たら、国を煩わす敵にしか見えない。

これが「好きなようにあしらう」ということですが、問題は、アハブだけでなく、人は誰しもが、自分の枠で、人や神様を見る。でもその枠は、特に神様に対しては狭い。いや狭いより、枠が自分中心で、ズレているのです。世界地図の中心が日本みたいに。因みに米国の世界地図は米国中心ですが、こう考えてもいいでしょう。もし私が、高知東教会の礼拝という写真を、ここから撮って、母子礼拝室のモナちゃんと、メイちゃん中心に撮ったら、枠がズレているので、前の人は切れてしまう。なのに、その座り方おかしいき、後ろにズレてと、もし言ったら、いやおかしいのは、あなたの枠だと、エリヤなら言うでしょう。

私たちは、どういう枠を持っていて、どんな枠で御言葉を聴いているのでしょう。イエス様に聴いて、聖書に示された枠で神様を思い、自分たちの救いについて考えているのか。あるいは好きなようにか。それが具体的な歩みに現れるのです。

今朝の御言葉は「六日の後」という言葉から始まります。六日前、前の頁31節のところからです。そこではイエス様が弟子たちに、ご自分が苦しめられて死ぬけれど、三日の後に復活するという、これがキリストの世界の救い方だという話を教えられた。でもペトロを代表とする弟子たちは、それが自分の持っている救いの枠にも救い主の枠にもはまらんもんだから、気に入らんのです。イエス様の話が、聴けんのです。

その弟子たちが、どうしたらイエス様に聴くことができるようになるのか。イエス様に従いながらも、イエス様に対して耳が閉じて、神様はどうして自分を捨てて苦しまなくても済む救いを与えてくれないのか?どうして十字架で苦しんで死ぬ救い主が必要なのか?わからない。その問題が、でも自分の問題となるために、自分のこととして心に留って、答えを求め始めるために、言わば無理にでも襟を正す態度になるよう、神様が、ここで弟子たちを助けて下さったのが今朝の話です。

でないと人は、いくら聞きなさいと言われても、何で聞かないかん?と、わからんかったら、聞けんからでしょう。戦争が何でいかんのか、わからん人は、言ってもわからんように。ここで弟子たちも、どうして苦しんで死ぬ救い主じゃないといけないのか、わかるための態度が形成されるために、非常に恐れる体験を、したのだと思うのです。そうでもない限り、主が教えられる死と復活に心を向けられないからと。

そこでモーセとエリヤなんですが、単純な疑問。エリヤは、その格好が、彼らの知る洗礼者ヨハネみたいな風貌で、服はらくだの毛衣なので分かるとして、モーセは、何でモーセだとわかったのか。横で柴が燃えよったとか、履物を履いてなかったとか(笑)。ま、それは冗談ですが、「高い山に登られた」と言われます。モーセもシナイ山に登って、下山した時に顔が光っていたという話があります。それとイエス様の姿が目の前で変わったのをペトロたちが結びつけて、じゃあイエス様と話しゆうのは、一人は格好からしてエリヤとすると、もう一人は、モーセだと思ったのか。案外イエス様が、おお、モーセと言ったのかも(笑)。

いずれにせよ、ペトロ、よく口をはさめたなと思います。どう言えばよいかわからんかったのに!とりあえず言う。だから、聞けないのかもしれませんが、仮小屋を建ててどうするのか。これ、ルカによる福音書を読みますと、モーセとエリヤが去ろうとしたのを見て口をはさんだとあります。いや、待って、ここにお泊まり頂いて、もっとこのドリームチームの語り合いを見ていたい!どうもそう思ったようです。

でもそのドリームチームは、そこで何を話していたのか。これもルカによると、イエス様がエルサレムで遂げようとしていた最期、十字架について話していたと言われますが、そこで再び単純な疑問が生じます。何故そのことについて語り合うのか。だってイエス様はもう知っているのに。人としての弱さをもお持ちのイエス様を励ますためでしょうか。続く御言葉の展開からすると、モーセも、エリヤも、民を主に従わせるようにと神様から御言葉を託され遣わされたのですけど、じゃあ民が、はい、言うて御言葉に聴いて、主に従うかというと、なかなか従わず、御言葉に聴かない。そこで心が折れる経験をモーセもエリヤも重ねながら、でも主に従って、言わば自分の十字架を負って御心に従うのです。その道を、しかも人となられた神様が、罪人の罪を背負って死ぬために歩まれる。その十字架の道は、けれどその先に人々の救いと復活、輝く栄光が待っているのですと、主への励ましを語り合ったのか。

あるいは、です。やはり先に申しましたように、ここではイエス様に従いながらも、イエス様が死の話をなさったら心が閉じてしまうような弟子たちのために、弟子たちが、十字架を背負って行かれるイエス様の話を、これが私たちの救いなのだと、十字架と復活の話を聴くために、父なる神様じきじきの声で「これに聞け」とさえ言ってもらえるのです。ドリームチームの語り合いどころじゃない。そこまでして、イエス様の十字架の話、償いの話、罪の赦しによる救いの話を聴くことは、どうしても必要なことであるからです。神様が人の罪を負って、裁きを自らの死によって全うした上で赦すという愛の栄光、正義による復活ではない他の栄光は、神様の真実を隠す偶像の栄光でしかないからです。

そこまで主が配慮され、心砕かれて、その上でイエス様が弟子たちに9節で、改めて、人の子、救い主の復活について言われた。その復活について、じゃあ、わかったかと言うと、内容はわからんのです。仲間で何やろねと言い合うのです。でも救い主の復活が重要なのはわかった!10節で「彼らはこの言葉を心に留めて」と、強く自分たちのものとしてと言われます。それは良かったと思います。とにかく、これはこだわるべき重要なことだ!と心に留める。そこからがスタートです。

でも、天の父は、イエス様に聞け、とおっしゃったのに、仲間内では救い主の復活の意味について論じ合っても、イエス様にはそれを聞きません。じゃあ何を聞いたのか。エリヤのことを聞いた。何ででしょう。全然わかってないことを、「まだ悟らないのか」と叱られるのが怖くって聞けないのでしょうか。もし叱られたら、ごめんなさい、でも「聞け」と言われたので、だから聞きたいのですと言ったら、どんなにイエス様が喜ばれたかと思うのに。

けれど、復活のことはスルーしてエリヤについて聞いた弟子たちを、イエス様は叱らないで、その問いに答えられます。ただ、エリヤについて教えながら、そこでエリヤを言わばヒントにして、人の子が苦しみを受けることを、その救いを改めて教えられるのです。

そこでのポイントは、人々が、エリヤのことも、イエス様のことも、「好きなようにあしらった」という点です。詳しい説明はしませんが、洗礼者ヨハネは、エリヤとして神様から遣わされて来たのです。でも、人々はヨハネを好きなようにあしらって、彼は殺害されてしまいます。「好きなようにあしらう」とは、求めること、したいことを、何でも、求めるまま、したいまま行うということです。迫害だけでなく、間違ってあがめたりするのもそうでしょう。御言葉に聴かないで、自分が思うように、したいように行う。ペトロもそのようにイエス様をいさめて、「わたしの後ろに退け、サタン」と叱られた。先に申しましたように、人は神様を自分の枠にはめたがるのです。

私たちはどうかと主は問われます。方向は二つなのです。イエス様の後に従うか。イエス様を好きにあしらって、従わないで、自分の好きな方向に行くか。迷える羊という言い方がありますが、イエス様の十字架の救いを預言した旧約イザヤ書53章はこう言います。「私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私たちの罪を全て主は彼に(イエス様に)負わせられた」そこでは、罪とは神様に聴かないで、的を外して、めいめい好きに行くことだと教えるのです。

それは神様が与えて下さる枠を外れるとも言えるでしょう。三位一体の神様が、永遠に共に一つに生きられる愛の関係を指し示して、これがわたしだ、そしてその神の形に造られたのが、あなただと、枠を与えて下さった。その神様の愛の関係に共に生きることが正義であり、これが神の国、つまり神様の正義のご支配だと、与えて下さった枠の中に自らを置いて歩んでいるか、それが問われるのです。それとも自分の枠で、自分の好きなように、これが私で、これがあなたで、これが幸せで、これが…と、自分の枠で生きようとしてないか。いや、それすらできない不満や矛盾、自分自身の破れの中で、人との関係の破れの中で、愛の破れの中で、私たちは生きてしまっているんじゃないのでしょうか。

その私たちに神様が求められること、言い換えれば、神様が私たちにしてほしいと求めておられるのは、イエス様に聴くことなのです。何故なら、その破れた枠、罪の枠を、イエス様こそが自らに背負い、架せられて、その破れ故に裁かれて、その罪を償って死なれた救い主だからです。この壊れた枠は役に立たないと教えられただけじゃなく、その枠はわたしが処分するから、あなたは、あなた本来の、神様に造られた神の子としての枠の中で、天の父との関係を回復させられて、元通り、本来のあなたとしての新しい人生、復活の救いを共に歩んで行こうと、主は私たちを導いて下さっているからです。わたしに従いなさいと。

その救いに私たちが生きるために、天の父は、御子に聞きなさい、と言われるのです。御子に注がれる無限の愛が、その御子を犠牲にしてでも、あなたを救うのだと御子を与えて下さった、私たちにも注がれているからです。その愛に、はいと応えて生きるために、キリストの言葉、いのちの御言葉は、与えられているからです。