マルコによる福音書8章31節-9章1節、詩編22篇「己の十字架を負うとは」

19/8/11主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書8章31節-9章1節、詩編22篇

「己の十字架を負うとは」

「神の国が力に溢れて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」。直訳は「死なない者たち」ですが、ということは、それを見たら、ああもう死んでも大丈夫だと思えるような神の国の力でしょうか。一体どんな力が、その人々を死から解放してしまうのでしょう。

私個人のことを言えば、私はイエス様を受け入れて、ああこれで天国に行けるから、もういつ死んでも大丈夫だと、ものすごい解放感を得ました。そういう力ある神の国、神様の救いのご支配を見たら、死が死でなくなるとも言えるでしょうか。神様は私をイエス様と同じように復活させて救って下さるのだ、永遠の命なんだ!と。

ただ、この時の弟子たちは、どうも、その復活の力を信じてなくて、だからペトロはイエス様をいさめるのです。果たしてそういう時、人はどんな力を、神の力だとイメージしているのでしょう。

ひょっとこの国が戦争の時に、神国日本と言っていた時に思っていたような、自分が信じていることに同調しない敵を滅ぼす力でしょうか。そして、そういう力に反対して平和を呼び求める人を迫害する力か。人が神の名において、なのに神様のことは思わないで、人のことを思って目を三角にする罪深い力、圧力というのは、確かにある。

でも、そういう御国を来たらせたまえと祈りなさいと、主は教えられたのではありません。むしろイエス様は今朝の御言葉の冒頭で、救い主の犠牲と復活による救い、赦しのご支配を教えられたのです。

そのご支配が一目瞭然の力をもって到来するのを見るまでは死なないというのは色んな解釈があるようですが、私はこう思います。イエス様が十字架で死なれて三日目、死を恐れていた弟子たちのもとに、復活のイエス様が来られて、神様以外の誰によっても不可能な復活という唯一圧倒的な力によって証された神の国の到来、神様のご支配を、弟子たちは復活の主に見た。そして、信じて、三位一体の聖霊様の力によって、死をも恐れず、伝道に遣わされて行くのですけど、それまでは死を恐れ嫌がっていたのです。主の死も、自分の死も。その弟子たちの心の奥にある弱さを見抜かれ、ケアされた言葉ではないかと思うのです。大丈夫だ、それまでは死なないから、だから、わたしを信じて、わたしの後について来なさいと、励まされた言葉だと思います。

ですので、死なない者とは、イエス様抜きで、ラッキーにも生き残っているとか、すごい信仰とか霊的な力があるから生き残って、すごいねという、人間のことを思って、人間の思いから出発して出てくるようなことでは、ありません。

でも、どうしても人はペトロのように、神様のことを思うより、人間のことが先に出て、イエス様の前に立ちふさがって、神様の救い、福音を、捻じ曲げて考えやすいところがあります。

その内の一つが説教題に取り上げました、全く誤解されて流布されている「自分の十字架を背負う」という言葉でしょう。神様と、人間との価値観の違いが、強く現れている言葉だと思います。

自分の十字架を背負う。世間では、人生の重荷を背負うという意味で用いられることが多いようです。例えば、人の命を殺めてしまったり、姦淫を犯したりした過去を、自分の十字架として背負っていかなければならない、と言ったりする。それはイエス様が言われた意味とは、全く逆なのに!です。

特に罪に関しては、イエス様がその罪の責任を引き受け、身代わりに責任を取って裁かれて死んでくださったから、だから自分がその責任を取って神様から裁かれなければならない、という重荷は、もうイエス様の前に、降ろしてよいのです。神様は、あなたの罪をイエス様の犠牲によって赦された!そこまで神様はあなたを愛しておられるから。それを信じて生まれ変わって生きていいlそれがキリストの救い、福音です。

なのに、どうして逆の意味での理解が流布され、説得力さえ持つことがあるのでしょう。

先に言ったような、力に価値を置く価値観、自分の強さに価値を置く価値観を持っているからじゃないかと思います。だから自分が負うべき苦しみを、神様に負ってもらうのはズルをしているように感じるのかもしれません。自分の力で負うべきなのだと。それを負わないのは、自分を捨てているように、誇り、プライドを捨てることのように感じて、嫌だ、捨てたくないと思うのか。自分を捨てよと主は言われたのに。結局は、そこなんじゃないでしょうか。

十字架は、人を磔(はりつけ)にして死なせるための、死刑台です。死刑を宣告されたイエス様が、死刑場まで自分の十字架を背負って行く場面を、皆さんもどこかでご覧になったことがあるかもしれませんが、それは、死ぬために背負うのです。自分の力でとかじゃなくて。むしろ自分の力ということなら、イエス様はどうも力がなくて、死刑場まで、他の人に十字架を背負ってもらって行って、そこで十字架に釘打たれて磔にされて死なれるのです。力は関係ない。もしも力を問題にするならイエス様はまことに情けない、力のない救い主だってことになります。問題は力じゃない。自力で十字架を負うことではない。むしろ、そういう自分を捨てること、自分に死ぬこと。それが自分の十字架を背負うということです。

だから要するに、自分を十字架につけて、自分は自分はという自分にこだわり自分の力にこだわって、神様のことを思わず人間のことばかり思う自分は死なせてしまいなさい。そんな自分は捨てて、わたしの後について来なさい。本当に力ある命を見せてあげようと、イエス様は皆を復活の命に向けて招かれたのです。

先に申しました、自分が犯した罪故に苦しむことが、自分の十字架を背負うことだと、十字架の福音を勘違いして考えることも、同様です。自分が犯した罪だから、自分が、自分の力で背負わなくてはならない、自分が苦しまなくてはならない、と考えてしまうのも、その苦しむ姿を見たくなくて、わたしが代わりに苦しむからと十字架を背負って下さった神様のことを、思ってないのじゃないでしょうか。どうしても自分の思いに支配されて、神様のご支配、恵みのご支配に生きられないなら、罪を赦され受け入れられて共に生きていくという神の国、父なる神様の愛のご支配に生きられないなら、そのご支配のもとへと私たちを招いておられるイエス様の前で、サタンが邪魔をしているのです。自分は自分は!と。

その私たちに向けてイエス様は言われます。直訳で言います。わたしの後ろに退きなさい。サタンよ。わたしの後に。そうしたら、イエス様の後に従えるからです。自分が前に出たら、従えんからです。だから、その自分は捨てて、十字架につけて、わたしに従いなさい、その先に、あなたは神の国の力、赦しのご支配の力、復活の力を見るようになる、いや、見るだけじゃなくて、その力に生きるようになるからと。

何故なら、そのためにイエス様は来られたからです。私たちの、命の代価を、代わりに支払うために、人となられて、私たち全ての人の代表として、主となられて、十字架で、命を支払い切ってくださったのは、私たちが死んでも死なず、命を失わず、復活のイエス様と一つに結ばれて、永遠の復活に生きるためだからです。

この招きを、主は群衆も弟子たちと共に呼び寄せて言われました。私には関係ないという人はいないから。それが十字架の福音だからです。