マルコによる福音書8章27-33節、イザヤ書53章「あなた自身の思いは?」

19/8/4主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書8章27-33節、イザヤ書53章

「あなた自身の思いは?」

人は色々と言います。まあ、一緒に生活してないと、わからんことが多いですので、当然と言えば当然ですが、以前、別の教会の方からこう言われたことがあります。野口先生んとこは、先生が何でもパッパッとやってキビキビ動いて、愛さんはおっとり落ちついちょって、静と動、ぼっちりですねえ。いま心の中でブッ(笑)と思った人は、よくご存じの通り、静と動なのはそうなんですが、実際は私が静で妻が動。動いてないと倒れる自転車か(笑)と思うぐらい、朝から動いてくれて助かりますが、まあ人間というのは、そうなんでしょう。その人の、どこかの部分をカシャッと写真のように切り取って、ああ、この人はこういう人だと思う。もちろん人の全部を見ることはできません。神様以外には。神様は私たちの、人には隠している生活も、また心の中まで見ておられるので、私たちの本当の全てをご存じです。だから、日毎に罪の赦しを求めるのですけど、人は、相手のほんの一部しかわかりません。でも、わからないから、お互いに話を聴いて、相手を知る。また相手に聴いてもらって知ってもらって、互いに友としての愛、友愛を深め、信頼関係を深めていく。それが神様の求められる、人としての生き方なのだと、今朝の御言葉から、反面教師的に知らされるとも言えるでしょう。

反面教師的に、と言ったのは、まあ聴かんのです。相手の話を。いや話だけなら聴くこともあるのです。だから、その内容を既に情報としては知っている場合、ああ、もうその話は聞いた、と言ったり、思ったりするのでしょうか。でもその時に聞いているのは話だけで、それを話している相手の心は、聴いてないのかもしれません。

弟子たちの代表として、あなたはメシア、キリストつまり救い主ですと信仰告白をしたペトロは、でも続いてイエス様がなさった、しかも、ハッキリ、明確に、覚悟を込めて教えられた、そのキリストの救いの話は、聴いてないのです。話の内容は聴いています。だから、不快な話だと思って、イエス様ちょっと言うて、注意するのです。救い主に。でもその救い主イエス様の心、十字架を背負われる心は聴いてない。

イエス様を誰だと思うかというのは、ものすごく大事なことですが、それより大事なのは、そのイエス様にどう向き合っているかでしょう。それは人間関係にも言えます。例えば私は妻を妻だと思っていますが、それより大事なのは妻として、あるいは一人の人間として向き合っているかでしょう。でなければ妻という正しい答えに、何の価値があるか。

神様を相手にする場合も同じです。相手の自分に都合のいい部分だけ受け入れて、受け入れたくない相手の部分は、まあ、見ないことにして目をつぶる人もおるでしょうが、言わずにはおれん人もいて、ペトロは後者でしょう。でも、どちらであろうと問題は、その相手と、特に神様と!どのような関係を持つんだと思っているか、です。

人格と人格で向き合う関係、愛と信頼の関係か。それとも料理の好きなところだけ食べるような関係か。神様はどのような関係を求められる神様だと思っているのか。私たちは、どのような関係を神様と持つのだと思っているのか。

それが29節のイエス様の言葉に現れているのです。

「あなたはわたしを誰だと言うか」。人は色んなことを言う。殺された洗礼者ヨハネが生き返ったのだと言ったり、旧約の預言者エリヤの再来だと言ったり、いやいや他の預言者だと言ったり、色々。でも他の人はどうであれ、「あなたは、わたしを誰だと言うか」。

先に申しましたように、これは正しい答えを尋ねているのではなく、あなたにとって、わたしは誰なのかと、問うておられるのです。

日本では、未だに自分で考えて自分の意見を言うのが苦手なところがあって、最近の教育現場では、自分で考える力を得られるよう頑張っているようです。丸暗記の正しい情報ではなくて、自分がその情報をどのように、自分のこととして受け止めて、自分のこととして考えるか。でないと、また考えないで、流されて、気づいたら血を流している。後の祭り。今週はその悲劇を改めて考える平和記念の週でもあります。

自分のこととして考える。無論それは、自分のことだけ考えたら良いという自己中心の態度とは異なります。自分のこととして考えるとは、相手を、隣人を、自分のこととして考えることだからです。

そのように私たち一人一人を、愛すべき、救うべき隣人として、あなたのためなら命を捨てると決意されて、ハッキリ心をお決めになられた救い主が、自分のこととして私たち一人一人と向き合って下さっている人となられた神様が、あなたにとって、わたしは誰なのかと、私たちの答えを求められるのです。

そこでペトロが、弟子たちの代表として、あなたは約束の救い主ですと正しい答えをしたのですけど、その救いは、じゃあ、どういう救いだと考えていたかという点では、まことに自分勝手。もし、考えが間違うちゅうだけなら、話を聴いて直せばよいのです。でも聴かないで、自分の考えが前に出る。その点でもペトロは私たちを代表していると言えるのかもしれませんが、ならばそこでペトロがイエス様に叱られたのも、私は無関係だと言える人はおらんのじゃないでしょうか。

イエス様はペトロのほうを向いていたのに、ぐるっと弟子たちのほうに向きを変えて「振り返って、弟子たちを見ながら」ペトロを叱られるのです。何を叱られるのか。それについては次週も説き明かしますが、要するに、いま聴いたイエス様の教えより、自分の考えていることのほうが価値があると思っていた。それで叱られるのです。次の頁36節で「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか」と主が言われたのと同じです。価値観がおかしいと叱られた。

それがわかるのが32節、ペトロがイエス様を「いさめ始めた」と訳された言葉です。実はこれ30節で、イエス様が弟子たちを「戒められた」と訳された言葉と同じで、更に33節、イエス様が弟子たちを見ながら、「叱って」と訳された言葉も同じ言葉。三回、同じ言葉が対照的に用いられます。元の意味は「上から相応しい価値を与える」。なので、もし、相応しくない価値、間違った価値判断をしていたら、そうじゃないよと戒めたり、叱ったり、また、その間違った価値で生きんようにと、警告するという意味で用いられます。

ペトロは自分の考えのほうが価値があると思ったのです。イエス様の教えより。救い主が苦しみ死んで復活することに何の価値があるかと。イエス様は、そのペトロを叱られたのです。振り返って弟子たちを見ながら、あなたがたはどうかと、その代表としてペトロを叱られた。そのペトロの罪を負いながら。弟子たちの罪を負いながら。世の罪を一身に背負いながら、あなたのその考えは、永遠に耐え得る価値があるのかと叱られる。そのイエス様の眼差しのもとで、私たちはどのように、この命がけの愛の叱責を聴くのでしょうか。

その御言葉を、自分のこととして聴く者は幸いです。自分の罪の問題として、自分の価値の問題、自分の命の問題として。イエス様は私たちの問題を、ご自分の問題として背負われ、罪と死に十字架で解決を与えて下さり、永遠の価値に生きる復活の救いを与えて下さったからです。そのわたしは、あなたにとって誰なのかと主は言われるのです。わたしは主、あなたの神だと言われる方が、正しい答えではなくて正しい関係を、信頼関係を求めてくださっている。それが、その名を愛と呼ばれる神様が、私たち一人一人と持ちたい、相応しい永遠の関係だからです。