マルコによる福音書7章14-23節、エレミヤ書17章9-10節「もし心の中が見えたら」

19/6/23主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書7章14-23節、エレミヤ書17章9-10節

「もし心の中が見えたら」

「人を汚す」のは何か、という話をイエス様はなさいました。しかも繰返し強調して。まあ、弟子たちでさえわからんかったからですけど、じゃあ私たちはどうか。そもそも汚すって、どういうことでしょうか。

例えば、汚染という言い方があります。水質汚染とかって言う。汚染された水は、もう飲めません。受け入れられない。それが汚れるということです。受け入れられなくなる。神様にとっても。

それはでも単に衛生上の問題で言うのではなくて、例えばイエス様がおっしゃった心の中から出て人を汚すものに、姦淫があります。姦淫を犯した夫や妻を、じゃあそのまま何もなかったかのように受け入れられるものでしょうか。

それが、聖書が罪の問題を、汚れる、という言い方で、感覚的に表す理由です。神様はうんと感覚的に説得するのです。人が感覚的に受け入れられないことを通して、じゃあ神様が私たちを受け入れて下さるというのは、どういうことか、わからせて下さるのです。受け入れられない罪が、なのに赦されるとはどういうことか。そのためにはどんな犠牲が払われなければならないかを、心でわかるため、神様は、汚れるという言い方で、罪と救いの問題、受け入れられない者が、なのに受け入れられるという大問題を、心でわかるように語られるのです。

それなのに、です。人は何故だか罪の汚れを、自分の問題と言うよりは、自分の外の問題だと思う。例えば、ひどい言い方ですが、あの人とおったら不幸が移るというような言い方を聴くことがあります。まるでバイ菌のように、ウイルスのように、体内に取り込まれてその人を汚す何かがあるわけではないのに、そういう何か外から入って、外から汚染されて、汚れたらいかんからと差別したりする。本当はその心自体が、その人を、受け入れられない者として汚しているのに。

また、私たちが痛みと共に知っているのは、東日本大震災の後、住むことができなくなった地域から引越さざるを得なくなった特に子供たちが、引越した先の学校とかで、汚染されているからと言われていじめに遭った。決して昔の話ではないと思います。

でもイエス様がおっしゃるには、放射能は体には影響を及ぼしても、神様は、それが人を汚すとは思われない。何故なら、それは人の体には入っても、心に入らんからです。問題は心です。人を汚すものは、人の心の中から出てくるとイエス様は言われるのです。

心から出る、例えば悪い思いが、その人を汚す。言い換えれば、神様がその人を愛されるように人を愛する思いじゃなくて、愛さない思いが心から出て来て、その人を汚す。だってあの人は…と自分の心の中から出て来た理由で愛さない。そうやって心の中から出て来た思いや理由、その結果としてやっている、愛とは反対のこと。それがその人を汚す。そのままでは受け入れられない者にしてしまう。それは言ってみれば、汚い譬えですが、人が自分自身にペッ、ペッと、唾を吐いているようなものでしょう。自分の中から出たもので、自分を汚くする。自分では、それほど汚くないよと、ひょっと思っていても、です。

無論、今のはイメージですので、唾自体は人を汚しません。何故なら唾は口からは出ても、心の中からは出んからです。

でも何で唾の話なんかしたかと言うと、少し前に読んだ認知科学の本に、何で人は自分の口の中にある唾液は飲み込めても、一端ペッと外に出した唾液を飲み込むのは汚いと思うのか、その理由が書いてあって、なるほどと思ったからです。

人は赤ちゃんの時に、自分と、自分以外とを、区別することを学んでいく。じゃあ自分とは、どこまでが自分か。自分の体を境界線にして、この内側は自分であって、この体の外側は自分ではない、と理解する。で、唾も自分の体の中にあるので汚いと感じない。排泄物も然り。でも出てしまったら汚いと思うのは、それ自体が汚い汚くないというのではなくて、それがもう自分の中になくて、もはや自分の一部ではないから汚いと思うというのを読んで、なるほどと思ったのです。だから、自分の心の中の罪も、オエってならないのかもしれないなと。同じ悪いことや汚いことを、自分ではない他の人がやると、すぐ裁いて、受け入れられないのに、似たことをしている自分を、同じ嫌な感覚で拒絶しないで受け入れてしまうのは、自分の心が汚いって感じないからじゃないか。だから、人の罪は飲み込めないのに、自分のは飲み込めてしまう。

けれど、その自分では飲み込めてしまう、受け入れてしまっている心の汚れを、神様は、汚いと思われる。受け入れられないと言われます。

もし、です。もし神様が全くの他人なら、ああ、別にえいがやないと言うかもしれません。他人ですから。そもそも受け入れるということが頭の中だけの話と言いますか、心が、そこにはないでしょう。痛みも。心を一つにして共に生きたいという求めがない。それが他人です。

けれど、心を共にして、いのちを共にして一緒に生きていきたいと、心が求めている相手、愛する人がいても、もしその愛する相手が心の中で、いや、それは受け入れられないということを、例えば姦淫を、えいやか、だってよ…と求めていたら、問題なしとするでしょうか。

神様は、それは受け入れられない、それは関係を汚すとおっしゃるのです。姦淫以外も。悪口さえもと言ったら、もうそこで私が悪口をどう感じているのかが露呈されてしまうのですが、神様が汚いと心で感じるものと、人が心で汚いと感じるものの違いが、しかもそのことでわかる自分の心の汚さが、どうやったらわかるのだろうかと思うのです。

でも、そうやって、私たちは、おそらく人間関係も、おかしくさせてしまうのでしょう。あの人の感覚はおかしいと思って。間違っていると思って。自分の心の中の汚さは、頭では汚いところもあると思っても、心で汚いと感じない。だから受け入れてしまっていて、だから、それを受け入れてくれない相手に対して、どうしてと腹が立つ。神様に対して違和感を持つことも、だから、あるのでしょう。どうして私をそのまま受け入れてくれないのかと。何で私が受け入れていることを、罪とか、赦すとか言うのかと。

人との関係も、神様との関係も、そうやって自分中心に汚してしまうのが、罪であり悪なのです。

関係を汚し、汚染し、関係を悪くして、愛と信頼の関係を壊すもの。それがその名を愛と呼ばれる、神は愛ですと呼ばれる神様のおっしゃる罪です。イエス様がおっしゃった、人の心から出るもの。悪い思い、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪が、どうして悪いのか。自分がそう感じるからではありません。自分がどうの問題ではありません。関係にひびを入れ、汚染して、愛と信頼の関係に生きられなくするからです。人が自分の心の中でどう思おうと、どう感じようと、汚くないと、自分の唾のように感じていようと、例えば悪い言葉を吐く、それは人に唾を吐くこと、神様に唾を吐くのと同じ、関係を汚して壊す、神様にとって受け入れられない汚らわしい罪なのです。自分にとってどうじゃない。でもそれが心でわからない。それが汚染なのです。

その関係を、じゃあ神様はどうされるのか。人間の自己責任で、お前が自分を清めたら、受け入れちゃると言うのか。だから互いに受け入れられないで壊れたままの人間関係があるのに、それが神の救いだろうと自己責任で自分を清めようと、またもや関係を汚して、自分自分の汚れで汚物まみれになっているような人間を、だから神様は、そのあなたをわたしが洗って受け入れると、神様ご自身が、ご自分の血を流されて、いのちを流して、そのいのちによって清めると、人となって下さった。それがキリストです。十字架で私たちの全ての罪を負って、身代わりに裁きを受けた神様です。その身代わりのいのちによって、あなたの罪は洗い流された、その罪の裁きは終わった。わたしとあなたを引き裂く罪を終わらせたから、この関係の中に、キリストの血によって洗われた愛と信頼の関係の中に、わたしを信じて入って来なさいと、神様が全ての人を招いて下さっている。それがキリストの救いなのです。

そこには、罪を清める洗礼というイメージも浮かんでくるのではないかと思います。無論、それは正しいのですけど、そこで洗い流される罪は、私個人の罪ではなくて、私が個人的に清くなって、だから天国に行けるでしょうという、またもや個人主義的で自分自分で終始する救いのイメージではなくて、そんな私たちの汚れを、その私たちの救い主となられた神様、イエス様が洗い流して下さるのです。そのために流されたご自分の血によって。言い換えれば、神様が、いのちをかけて罪を洗い流して下さるということです。その全存在をかけて!

泥だらけになっている人を洗ったら肌が見えてくるように、キリストを信じて洗礼を受けた人の罪が、キリストの血潮によって洗い流されたら、見えてくるものがあります。それが神様との関係です。そこにいるのは洗礼を受けた人だけじゃなく、その人を抱きしめておられる救い主が、その人と共におられて、こう言われるのです。あなたの心は、この地上に生きている間に完全に清められないけれど、それでもわたしは、あなたを完全に受け入れて愛し続けて赦し続けて、あなたを離さない。何があっても、あなたはわたしのもの。わたしが洗うと、汚れた私たちを抱きしめて救い主キリストが離さない。だから救われるのです。

そのイエス様によって、わたしたちは神様のものとして、そのいのちがけの愛と赦しによって洗い清められて、やがて、この地上での命が終わり、神様の前に立つ時にも、私たちは一人で目覚めるわけではない。イエス様が目の前におられて、おはよう、わたしの愛する子よと、抱きしめられて目覚めるのです。それが迷える羊を見つけて抱きしめて抱えて離さない、わたしたちの永遠の羊飼い、そのために人となられた三位一体の御子、救い主イエス・キリストだからです。

その愛の中に身を置いて、洗礼を受けて、イエス様の中にいる者は、死んでも生きる。その清められた関係の中に、皆招かれているのです。