19/5/12復活節第四主日朝礼拝説教@高知東教会
マルコによる福音書6章14-29節、マラキ書3章19-24節
「何のための力なが?」
権力者が自分を守るために力を使う、悪用することは、昔からあったようです。学校や職場で起こる問題、また行政機関などで起こる問題もそうですけど、家庭内でも、力がどう用いられているか。一対一の人間関係においても、力を、自分を守るために用いていないか。そういう力の用いられ方を私、十代の頃こう思っていました。ダサっ!と。でも今ダサいことやってないだろうか。自分を守るために、人を守るための力を、悪用してないだろうか。何より自分のこととして、神様の言葉に耳を傾けたいのです。
話はイエス様の名をヘロデが聞く場面から始まります。噂もまた混じりながら。噂。つまり、あの人はこういう人だという勝手な憶測です。そこで、あの人○○やきと、その人と結びつけて言う○○って、なんかそれを言う人の心の中に引っかかっていること、こだわっていることが多い。あの人、性格がきついとか、自分にとってそう感じて心に残っていることを、ついそのまま言ってしまい、それを聴いた人からすると、へ~そう思うちゅうがやと、心の中が暴露されたりする。
ヘロデの場合、心に引っかかっていたのは、殺したこと。いや、それが生き返ったと言うのですから、単なる人間世界のことだけが心に引っかかっていたのでは、ありませんでした。「聖なる人」と思うほど神様と強く結びついたヨハネを殺してしまったことが、重く心に引っかかっていたようです。だから「生き返ったのだ」と、普通なら考えやせんことを、でも、あれは俺が殺したヨハネが生き返ったんだ!と考えるほど、ヘロデは、ヨハネとのことが引っかかっていた。
それは、殺した復讐をされると思って怖かったから、あれは私が首をはねたあのヨハネだと、パッと思ったのでしょうか。まあ日本でもどこでも、そうしたオカルト的な考え方はありますから。幽霊とか。化けて出るだけでなく、復讐されるというのが、幽霊話の怖い所以でしょう。どこでもそういう、死んでも復讐されるという考えがある。人間の心の中のよほど奥深くにあるマグマのような、やられたら復讐するんだ!というドロドロした思いが、誰の心の内にもあって無意識にドロッと心に浮かぶのかもしれません。死んでも復讐はされるんだって。ヘロデも、それが怖かったのでしょうか。
自分自身、そうやって復讐してきたのかもしれません。やられたことは忘れん、忘れるもんかと、こだわって、復讐を心に思って。
でも弟の女房を奪ってもいる人です。弟から復讐されるとは思わんかったんでしょうか。もし、それは怖くなかったとしたら、いや俺のほうが強いきと、心の中で自分が優位に立っておったということか。
でも聖なる人ヨハネの場合、神様に仕える人ですから、弟なら自分のほうが力が上だと思っても、神様と対立して勝てるとは、思わなかったということか。まあ、幽霊レベルの感覚でヘロデが神様を思っていたとしてもです。そうであっても、神様から復讐されたら…と恐れたとしたら、賢明じゃないでしょうか。神様を畏れないより。どうでしょう。
ヘロデは「ヨハネが正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し」ておったと言われます。「聖なる」という言葉は聖書の専門用語で「神様のもの」という意味です。ヘロデは、自分は自分のものだと、ドラえもんのジャイアンのように、自分は自分のものだと思っておったかもしれませんけど、ヨハネは神様のものだから、その人を殺すってのは、いくら妻から何と言われようと、神様のものである人から命を奪うというのは神様に刃を向けることになる。神様から復讐される。それは恐いと思ったのでしょう。だから牢には入れたけど、そこで保護したのです。妻はヨハネを殺したいと憎んでいるから、ひょっと家来に命じて殺させるかもしれん。それは困ると思って、妻から保護していた。
でも、それだけじゃない。20節は続けてこう言うのです。「その教えを聴いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」。だから、保護しておったと。
どんな教えをヘロデは聴いたのでしょう。ヨハネはどんな教えをこれまでも語ってきたのでしょうか。一つには、神様の正義の掟、律法で、それはいかん!と命じられている悪を、人が行っているなら、あなたは神様の怒りの対象となると、ヨハネは誰に対しても同じように、神様の正義と裁きを教えてきました。
それも見過ごしてはならんことですが、ヨハネの教えについて絶対に見過ごしてはならないことがある。それは既にこの福音書の冒頭で教えられておったように、ヨハネは罪の裁きを教えるだけでなく、その罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を教えておったことです。
神様が、それはいかんと神様としておっしゃる悪と罪に気づいたら、その悪と罪を悔い改めて、神様、ごめんなさい、赦して下さい、あなたの望まれる正しい命の在り方に生きていきたいのですと、自分は自分で生きるという罪の方向から、神様と生きる方向へと命の向きを変えて、洗礼を受けなさい。そしたら神様は、あなたを受け入れ、赦してくださると、罪からの救いの道をこそ、洗礼者ヨハネは教えておった。そしてその悔い改めのしるしにと、人々に洗礼を授けておったのです。
だからヘロデにも、あなたも自分の罪を神様に悔い改めて洗礼を受けなさい、そしたらあなたは赦される、と教えておった。神様の正義だけでなく、その正義が愛の正義であればこそ、神様の赦しの正義、ヘロデに対する神様の愛を教えておったと言っても良いのです。
それを聴いて、ヘロデはどう思ったでしょうか。聖書は言うのです。彼は非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたと。自分みたいな人間が神様に愛されているはずはないと、ヘロデは思っていたのかもしれません。だから力を頼りに、権力に任せて、自分を信じて、生きてきたのでしょうか。神様の愛を信じられなかったから。
でもヨハネを恐れたり保護していたところから見えるのは、本当は、神様に対する恐れを、どこかで持っていたという側面なのです。
人に対しては、弟の妻を奪い取るような恐れ知らずで恥知らずなことをしていても、神様に対しては、人に対する恐れとは違う、どこか異質な恐れを心に抱いている。それが人間じゃないかとも思うのです。
しかもヘロデが感じていた異質さは、単に恐れの感覚だけじゃない。ヨハネが語る神様は、私の悪を追求しながらも、その人生を悔い改めて洗礼を受けるなら、神様は赦して下さる、と教えるのです。何だ、このヨハネという人はと、ヘロデは思ったのじゃないか。人など恐れんというのなら俺もそうだが、ヨハネが俺を恐れないのは、俺が人を恐れないようにではない。この男は本当に神様を畏れ敬い心の底から信じているから、いや、本当に神様から遣わされ、本当に神様を知っている聖なる人だから、だから俺のことも死ぬことも恐れないのだ。いや恐れないばかりか、俺が神様に向き合って悪を悔い改め、神様のもとに戻るなら、罪赦されて救われるから、洗礼を受けようと教える。純粋な目をして。全く調子が狂う。俺に調子の良いことを言って調子を合わせてくる奴らならゲボを吐くほど知っているが、ヨハネは全く俺に調子を合わせようとせんばかりか、俺を一人の人間として、救われるべき人間として真剣に俺と向き合って神様の言葉を語るから、本当に調子が狂ってしまう。俺もヨハネみたいに神様を信じると、本当に思っているのだろうか。
非常に当惑しながらも、喜んでヨハネの語る御言葉に耳を傾けていたって、そういうことじゃないんでしょうか。
でも、ヘロデは先に申しましたように、自分を守るために力を使い、それまではヨハネを守っていたのに、自分とヨハネとどっちを取るかってなった時、自分の評判、仲間への体面や、そとづらなんかを守ろうとするんです。だって、そとづらなんかではない、その内面では、本当は神様を恐れる思いがあるに、その神様の前でじゃなく、人前で、自分を守るなんてことを選んでしまう。
人は本当に弱いということを、しかも自分は強いと思っている人こそ本当に弱いということ、だから神様が本当に必要だということを、今朝の御言葉は、白日のもとにさらして教えるのです。
でもそれだけが、教えられていることではありません。この御言葉で際立っているのは、その構造です。この話は、イエス様の名前を聴いたヘロデが、じゃあ何で自分はヨハネを殺したか、その過去を「実は」と振り返って描いた、言わば心のドラマになっているのです。
ないですか。そうやって過去を振り返ること。取り返しのつかない、まるでそこから呪いが追いかけてくるような過去を、振り返ること。
ならばこそ、です。私たちは、その過去を取り戻すことも、巻き戻すこともできませんけど、その過去を赦して下さるイエス・キリストの名を、だから神様は、今!私たちに知らせておられるのです。今、新しく生きるために。それが、今朝の御言葉がキリストの名を、ここに救いがあると告げている、福音の物語り方でもあるのです。
私たちは自分の過去を振り返りながらも、今、そのすべてを背負って赦して下さるキリストの福音をこそ聴けば良い。ヨハネが教え知らせた罪の赦しの根拠は、ここにある!と、神様ご自身がその罪も呪いも全て身に負い、十字架で命と引き換えに償って下さった。神様が!人間は、すぐに自分の体面を取り繕い、自分を守ろうと、人を見捨てて、自分を裏切っても、でも神様は、そんな私たちを守るために、自分を捨てて、神様という体面も何もかもかなぐり捨てて、わたしがあなたを守るからと、あなたを罪に定める者は、わたしが裁くから、だからあなたは新しく生まれ変わって、罪赦されて、救われて生きよ!と、十字架と復活の救いを与えて下さるのです。
その神様が、主イエス・キリストが言われるのです。わたしはあなたを背負った。その過去も呪いも、すべて背負ったから、わたしのもとに来なさいと。だから私たちの過去が何であろうと、人はキリストのもとで悔い改めて、新しく生きれば良い。そこに真実の、死者の中から生き返って生きられる、キリストの救いがあるからです。