マルコによる福音書5章35-43節、詩編16篇7-11節「ただ信じなさいの神様」

19/4/21イースター召天者記念礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書5章35-43節、詩編16篇7-11節

「ただ信じなさいの神様」

今朝は、キリストが与えて下さっている復活の光のもとで、先に天に召された兄弟姉妹たちを覚える召天者記念の礼拝を、イースター礼拝として、共に捧げています。

人が死んでも復活して生きる。その救いの道を開くために、人となられた神様イエス・キリストが、今朝の御言葉でも、こう言って下さいました。「死んだのではない。眠っているのだ」と。何故でしょう。神様にとって、死は終わりではないからです。そしてその神様から与えられる復活の恵みを信じる者にも、死は終わりではなくなるからです。

それはちょうど、いま読みました聖書の御言葉で、娘を失ったと思った会堂長が、「ただ信じなさい」と、イエス様が言って下さった言葉を信じた。そして、起き上がった娘を見て、ああ本当に信じて良かったと、イエス様のもとに行って本当に良かったと、家族で抱き合って喜んだろうと思う。その彼らを照らしていたキリストの光が、私たちにも、同じようにキリストから注がれているからです。

そこで、イエス様が言われた「ただ信じなさい」という言葉ですが、何を信じるんでしょう。この父親は上の段22節でイエス様にひれ伏してお願いしています。「…」。ということは、イエス様はこうおっしゃったのです。「あなたはわたしを信じて、来たのだろう。なら、わたしは娘を生かすことができると、恐れず、ただ信じなさい」と。

父親はイエス様が娘を生かすことができると信じた。でも一方で恐れてもいたことがわかります。娘さんは亡くなったとの知らせが来た時、恐れていたことが起こってしまったと、真っ青になったのでしょうか。あるいは、嘘だ、嘘を言うなと、伝えに来た人の襟を引っ張ったのかもしれません。やっぱりそうでしたか、などと簡単に受け入れられるはずはなかったと思います。拒んだんじゃないでしょうか。受け入れることを。信じられない。信じたくない。つまり、受け入れたくない。

そんなこと言っても、事実だから受け入れなさい、もう手遅れだから先生を煩わすことはありませんと、他人は言うかもしれません。でも、人の生きる死ぬに関わる事実って、そんな簡単な事実でしょうか。

人は必ず死ぬ。事実ですよ。でもだからってそれを簡単に受け入れられるとしたら、人の死を、他人が死ぬことだと思っているからじゃないでしょうか。人は、他人のやることって簡単なことだと思う。だから、何でそんなことができんと、簡単に思う。自分ができんかったら、難しいと思うのに。同様に死も自分のことになってなくて、他人事のようになっていると、簡単に受け入れられてしまうのでしょうか。

でも、この父親にとって、娘は他人ではなかったのです。そのことについては本当に良かったと思います。それはこの娘の死を、身代わりに引き受けるためにも人となられた神様、イエス様にとっても、そうだ、その通りだ、だってこの子はわたしにとって他人なんかじゃない!と、心動かされることだったろうと思うのです。

この父親は会堂長であったことが強調されます。会堂長というのは、長ですから、その地域の人々から信頼されていた人だったと思います。しかも会堂というのは今の教会堂のように、そこで巻物に記された旧約聖書の御言葉が読まれ、説教が語られ、皆で神様を礼拝する。そのための会堂ですから、それを任された会堂長というのは、何より信仰的に、皆から信頼されておった人だったんでしょう。

でも、この会堂長は、単に神様のことに熱心だとか、宗教的熱心さを買われてというだけではなかったようです。それが、娘のために!と、会堂長なのに!イエス様のもとに来たところに現れているのです。

というのは、会堂で旧約聖書の御言葉が読まれ、それが説教される時に、ほとんどの場合は、ファリサイ派と呼ばれる、言わば当時の宗教的エリートたちが説教をしたようなのです。で、それがどう関わってくるかと言うと、その宗教的に熱心なエリートたちは、イエス様のことを良く思ってなかった。「あれは悪霊の頭の力によって、下っ端の悪霊を追い出しているんだ」とか、誤解というよりは難癖をつけて、旧約聖書が、ずっと預言によって約束してきたあの救い主が、このイエス様なのだと信じなかった。受け入れられなかった。だからひょっと娘の死を伝えに来て、先生を煩わすには及びませんと言った人も、実はイエス様に来てほしくなかったのかもしれません。だって、いいじゃないですか。来てもらったら。家におった人々も、イエス様のことあざ笑いますし。何の涙かと思います。無論エリートでも、やっぱりイエス様が約束の救い主じゃないかと思う人もいたのです。が、日本人みたいと言いますか、人の目を気にして、それを大っぴらに言えなかったと別のところで言われています。おそらくその内の一人が、この会堂長なのです。娘のためにイエス様のもとに行ってひれ伏すなんてことしたら、会堂長でいられなくなるかもしれないし、今の生活が続けられなくなるかもしれない。

でも!なりふり構わずですよ。イエス様のもとに来るなり、バッと、ひれ伏して「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」とイエス様を信じた。それでイエス様は一緒に彼の家に行くのですけど、私、思うのです、そのイエス様を信じて家に帰る道すがら、この父親はイエス様について行ったんじゃないかと。

自分の家ですから、走ってイエス様より先に行こうと思えば行けるんです。でも一人で行って、どうなるんでしょう。自分ではどうもならんからイエス様のもとに来たのです。人は命のことについて神様にすがる他ないのです。だからきっとイエス様について行ったのです。恐れず、ただ信じなさいって支えられながら。支えられて、信じながら。死んだから、もう終わりですと言う人々の言葉は受け入れないで、ただ信じなさいと保証して下さった神様の言葉を受け入れて、御言葉に支えられて娘のもとに行くのです。

そして、信じた通り、いや信じた以上の、驚くべき神様の救いの恵みに、家族ごと、包まれてしまうのです。

この後、この家族どうなったのかなと思います。聖書には書いてないので推測に過ぎませんが、やはり会堂長の職は失ったかもしれません。周りの人々は何と声をかけたでしょう。娘さんのことは良かったけど、会堂長の務めもやめさせられんかったらなお良かったにねえと言われたでしょうか。でもきっと、もしそう言われたら、会堂長のことは他人がやってもかまんがやき。それは替えがきくし仕事も替えがきくけんど、娘は替えがきかんき。神様はその娘を救ってくれた。イエス様が救いに来てくれて本当に良かったと、会堂長のことに関しては他人事のように言ったんじゃないでしょうか。

だって、先にも申しましたが、この父親にとって、娘はどうしたって他人ではなかったのです。他人ではないというのは、替えがきかんということです。替えがきくと思う人のことを、人は他人と言うのじゃないでしょうか。聖書は他人とは呼びません。隣人と呼びます。その人は、あなたと同じように、替えがきかん人、あなたが、あなた自身を愛するように愛すべき人だという意味です。神様が私たち、全ての人をご覧になって、そうだろうとおっしゃる、替えのきかない、掛け替えのない、神様が命をかけて愛されている人。それが私たちです。

神様にとって、他人など一人も存在しません。イエス様がおっしゃった「恐れず、ただ信じなさい」という救いの言葉を、自分のこととして信じるなら、そのことから信じ始めたら良いのです。私は神様にとって他人ではないのだと。神様は私に対して、あなたは替えがきかない、掛け替えのない大切な存在だと、神様ご自身の存在をかけておっしゃっておられることを、ただ信じることから始めたらよい。

「ただ」とは、頑張ってあれこれをして、その上で、こんなに頑張っているのだから、頑張って信じているのだから、神様から大切な価値のある存在だと見てもらえて、救われもするんじゃないか、というのではないのです。ただ信じなさい。それは宗教的行為や熱心さと引き換えにじゃない。人間は、ただ愛されることが恐いのでしょうか。理由もなく愛されるなんて、理由もなく棄てられる前触れだと思うのでしょうか。あの父親は、娘が頑張って良い子だったから、自分を捨てても良いと思ったのでしょうか。人は自分のしていることや、自分の何かに頼って、何かを理由にして、だから自分は価値があるから大丈夫、と思いたい。でもそうやって自分で価値を見積もって、何かを理由に自分を高く見積もり、それがない人を低く見積もって傷つけたり、そうやって自分には生きる価値がないと人に思わせたり、逆に自分でそう思ったり。でもそれは全て、ただ信じなさいと、そんな私たちを、ただ受け入れて救って下さる、その名を愛と呼ばれる神様、神は愛ですと永遠に刻まれている神様を、信じ損ねてそうなるのでしょう。

でも、そんな私たちならばこそ、神様は全ての人の、罪も汚れも心の汚さも、恥も弱さも痛みも苦しみも、何もかも全てを十字架でお引き受け下さって、身代わりに死んで、命を償って下さった。すべての人の命を、です。

人は、だから救われます。誰一人、他人なんていやしないからです。神様が、そのために人となられて死なれてない人、十字架で担われて、愛されてない人なんていないからです。

ただ信じなさい。何を信じるのか。この、ただ信じなさいの神様を、です。人に命を与え、死を打ち破り、復活の命を与えて下さるキリストの救いの知らせ、福音をです。どんな人でも、ただ信じなさい、恐れなくて良いと、神様が呼んでおられる。それがイースターの、キリストの福音なのです。