マルコによる福音書3章31-35節、詩編1篇「サグラダファミリアだな」

19/2/24主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書3章31-35節、詩編1篇

「サグラダファミリアだな」

イエス様の兄弟、姉妹、母。ま、それで聖書は教会のことを神の家族とも呼びます。イエス様の家族とされて、共に天の父よと祈り賛美して礼拝する神の家族。それが聖書本来の意味での聖家族でしょう。

それが言いたくて、また変な説教題をつけてしまいました。サグラダファミリア。日本語に訳すと聖家族。インスピレーションだけでつけたのがバレバレですが(笑)、因みにサグラダファミリアとは、130年以上建築中ということで有名なガウディ―設計の教会堂の通称名です。少し東北なまりっぽいところが好きですが、日本語の聖家族、この言い方はルネッサンスの宗教画によく出ます、イエス様とマリアとヨセフの三人セットの呼び名です。今もクリスマスカードに描かれたり、羊飼いたちや博士たちも交えて模型を飾ったりします。

ただ、これは人がつけた呼び名であって、聖書に聖家族という言い方はありません。聖母マリアも同じですし、イエス様が十字架で死なれた金曜日を聖金曜日と呼ぶのも同様です。他と区別して、この家族はただもんじゃないですよ、この母も、この金曜日も、特別扱いしなさいよという目的で、後で付けられた呼び名なのでしょう。

でも確かにその意味で、神様を礼拝する日曜日を聖日、主の晩餐を聖なる晩餐、聖餐式と、私たちは正しい意味でもまた、そう呼ぶのです。何故なら、聖餐式や聖日を特別に扱いなさい、というのは、聖書自体に教えられている神様由来のご命令ですので、後で人が名付けた聖家族やその類とは全く扱いが異なるからです。神様ご自身が特別扱いを求めておられるからです。そこは区別をハッキリしなければなりません。神様が、これは聖なるわたしのものだ!と宣言される聖なるものは、確かにあるからです。それらの神様がおっしゃる聖なるものは、特別に、神様への畏れと愛をもって向き合う必要があります。

が、そうではなくて、つまり神様が聖書の御言葉によって言われたのではない、どっかで人間が言い出した、ぶっちゃけ人間の考えも確かにある。それが色々と入り込んで混乱させるのです。何が本当に神様のことで、何が本当は違うのか。神様のことは永遠に私たちに関係します。永遠です。これは大きい。でももし人間の考えに過ぎないのであれば、ないですか、例えば子供の頃は絶対だったことが、どうでもえいとか。大人になってからでもそうでしょう。でもその時は、これが絶対!とかおかしなこだわりがあって、考えも生き方も支配されている。

この人間の考えが、強く、支配的に入り込んで来て、神様のお考えを雑に扱うことがないでしょうか。人間の考えや感情や状況を神様の御心の前に押し出して、神様に逆らうことをしてはいないか。しかも自分は絶対に正しい!と思いながら。

それが今朝の御言葉で、イエス様の身内に起こっているのです。先週少しだけ申しましたが、どうして彼らはイエス様を取り押さえに来たのか。上の段21節にその理由が述べられていますが、「あの男は気が変になっている」と言われていたからです。で、取り押さえに来た。先ずは話を聴こうというのではない。気が変になっている人の話を、それでも先ずは聴こうという人は、今でもほとんどいなんじゃないでしょうか。

気が変になっていると訳された言葉。この言葉は「外に立っている」という意味の言葉です。つまり本来の自分なら、したり言ったりしないことを、自分の外からの力に支配され、取りつかれるようにして、自分の内側からでなく、自分の外から振り回されて、え?と思う言動をするのを、あれば気が変になっているんだと、そういう言葉です。だから、取り押さえて、自分を取り戻させなければならんと身内は考えた。

でも、です。私もその口ですが、中一で教会キャンプに出て、神学生の証を聴いて、あの人おかしいと思った。それが今、おかしい人の側に立っている。つまり、どうして自分は正しいと言えるのか?なのです。特に、神様のことについて。自分の救いについて。

それを、今朝の御言葉はのっけから、こう問うのです。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」と。

兄貴は自分の外に立っている、おかしくなっている、自分たちで、元に戻させないかんと、要するに外からの悪霊や異様な雰囲気や誰かから吹きこまれた過激な教えに支配されているから、自分の外に立っているから連れ戻さないかんと。きっと善意に違いないのですけど、じゃあ、その自分たちはどこに立っているのかと言うと、外に立っている。もし愛する兄貴を取り戻しに来たのなら、兄貴の内側に入り込んでいこうとするんじゃないんですか。外に立って、何ができるというのでしょう。話を聞こうともせずに自分は正しいと、外から自己主張する以外に。

御言葉は問うのです。あなたは、どこに立っているか。神様のことについて、救いについて、御言葉の外、救い主の外に立ってはないかと。

イエス様は、この後きっと身内と話しに行かれたと思います。神様のこと、救いのことについて。いつもそうしておられたようにです。

私たちも、家族と、また家族でなくても、うまく噛み合わないことがあったら、話をしたらよいと思います。どうして私はこう考えるのか。神様のこの考えの筋に従ってですと、しかも神様の愛の態度に従って。それが福音を証しする神様の機会でもあるのだと思います。

で、イエス様も話をしに行こうとされた時、そうだ!と思われたのでしょうか。この機会は、ここにいる人たちが神様のお考えから出発して自分たちのことを考える良いきっかけになると「わたしの母、わたしの兄弟とは誰か」と当意即妙におっしゃったんじゃないかと思うのです。

別に身内に、つっけんどんに冷たくしたのではなくて、よくイエス様がなさるように。この急所がわかったら、ああ、そうか!と、今までの自分の考え方がパッと変わるような質問をよくなさるのです。

それが証拠に、そこに座ってイエス様の話を聴いておった人々の顔をグル~っと見回されたと、御言葉は記します。とても印象的なイエス様の動きです。学校の先生もなさるでしょうか。答え分かる人?言うて、グル~っと見回す。皆さんは、その時、目を伏せるタイプですか。目をそらさないタイプもいます。私は上を向いて考えるタイプです。そこにおった人々は、どうだったかと想像しますが、どうもその時に答えた人はいなかった。イエス様は何をおっしゃるつもりかと、期待して答えを待つ表情だったんでしょうか。そしたらイエス様がこうおっしゃった。直訳は「見なさい、わたしの母、わたしの兄弟だ」。きっとイエス様は目の前の一人一人に両手をグル~っと差し出しながら、見なさい、わたしの母、わたしの兄弟だと、笑顔でおっしゃったんだろうと思うのです。

皆どんな思いになったでしょう。ペトロの姑なんて泣きそうになったんじゃないかと思います。私をそんなに呼んで下さるなんてと。

そしてイエス様は、ここが急所ですが、どうしてイエス様の前にいるこの人たちが、イエス様の家族なのか、こう付け加えて言われた。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。

これに先立つ上の段25節では「家が内輪で争えば、その家は成り立たない」と言われました。ならイエス様の家族も、一つの思いになることが前提です。神の家はそうなのです。イエス様を筆頭に、天の父の御心を皆で行う。その父の家に、イエス様は失われた家族を招きに来られたのです。その父の御心を知りたい、救われたいと、神様のことを求めて集まって、イエス様の話を聴いている人々、イエス様の前にいるあなたたちは、御心の内側にいるのだと、そうイエス様は言われるのです。

「神の御心を行う人こそ」と言われたら、じゃあ罪を犯したら、御心を行えなかったから家族失格?と思われるかもしれません。でもそれが御心なら、どれだけの人が合格するでしょう。イエス様の周りに座っていた人たち、皆、合格な人たちだったのでしょうか。ペトロとか。ユダもいるのです。マタイなんて「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(2:17)と言って頂いた罪人です。でも救われた罪人です。私たちは違うんでしょうか。そこから考えるのです。神の御心を行う人々はイエス様の前にいました。インフルエンザの子供を病院の戸口まで連れて行って、中に入ったら感染るきと医者の外に立っていたのではない。自分も病人ですと、中に入ってイエス様の前にいた人たちが、御心を行っていたのです。つまりイエス様を与えて下さった神様の御心って何かという話です。

イエス様が来られたのは、私たちがイエス様によって救われるためです。そのために神様は三位一体の永遠の御子を、私たちと同じ人として生まれさせ、私たちの罪を全部引き取って、責任を負って死ぬために、私たちを罪と裁きから救うために、イエス様を与えて下さいました。

その神様の御心を、救いの御心を求めてイエス様の話を聴いて、その救いが私には必要ですと、自分の事として受け入れて、信じて救われてイエス様の前にいる人々に、どんなにイエス様は慰められたでしょう。だって、そこに御心が行われているのです。私たちが救われるために、神の子イエス様は来られたからです。

そしてイエス様は、外に立っている母や兄弟たちのところにも行かれたでしょう。その一人一人の救いのためにも、イエス様は来られたのですから。私たちもそうだったんじゃないでしょうか。神様のお考えより人間の考えが先立って、外にいたのに、なのにイエス様がその私たちを無視されなかったから、それで今、中にいるのです。

だから、そのことを知っている私たちも無視せんのです。イエス様が行かれる人々のもとに、私たちもついて行って、その救いの証をするのです。イエス様の家族として、永遠の家族とされた喜びと平安を胸に、さあ行きましょう。イエス様が愛されている人びとのもとへ、私たちの愛する家族、友人、イエス様の隣人のもとへ。イエス様に愛されている家族として。そこにイエス様を与えてくださった神様の御心があるからです。