マルコによる福音書3章20-30節、イザヤ書49章22-26節「牽強付会な宣教理解」

19/2/17主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書3章20-30節、イザヤ書49章22-26節

「牽強付会な宣教理解」

今朝の御言葉では「家」という言葉がキーワードとして繰り返し登場します。まずイエス様が家に帰って来た。次に律法学者たちを説得する時、イエス様が、家が内輪で争ったら、その家は成り立たんなると言われる。更に続く譬えでも、強い人の家に押し入って、その強い人を縛り上げて、奪うんだと。これは強いサタンから、私たちを奪い返しに来られたのが神の子イエス様なんだと、自分を強盗に譬える凄い説得なんですが、そこにイエス様の必死の愛を思うのです。グリム童話の七匹の子ヤギのお母さんヤギのように、我が子たちを飲み込んだ狼を襲って取り返す愛の強さが、ここでは強調されています。そして、その強い愛を、また家が分裂したらいかんろうという家族愛の話を、家でなさる。この話、イエス様が皆さんの家で、そこに皆さんの家族がおられるところでお話しをされていると想像して聴いたら、天の父から私たちの罪を赦すために遣わされたイエス様の愛が、わかるんじゃないかと思います。

このイエス様が帰って来られた家、これはおそらく先に出たペトロの家です。この前の話で、ガリラヤ湖のほとりで多くの群衆の病を癒し、宣教なさったイエス様と使徒として選ばれた12弟子たちが、ペトロの家が近かったからでしょうか。家に帰って休みましょう、きっと妻と姑がうまい飯を作って待ってますよとペトロが言ったのかもしれません。

ところがまた群衆が集まってきて、一同は食事をする暇もない状態。この一同の顔、どんな顔をしておったと思うでしょうか。でも一同が、この状態になるのは、前にも繰り返されておりましたし、何より、そこではイエス様が神様しかできない御業をなさるのを、一同は知っているのです。その御業に自分たちはお仕えすることができる。この集まって来た人たちは、そこでイエス様から神様の御業や御言葉を受けるんだと知っておりますから、それによって自分たちも救われたのですから、疲れた顔はしておっても、嫌々している人はいなかった。そういう家に、イエス様が帰って来る。「イエスは家に帰られた」と、まるで自分の家に帰るように、安心できる家。それが教会なんだと、改めて思うのです。ここにはイエス様を信じて、従う人たちがいる。そこに多くの人が神様によって導かれてくる。教会の姿って、こうでねえ、この家が分裂とかサタンの家になるとか、ありえんろうと。この家の主として、わたしは来たのだと、あるいはこの世界を、神の家として取り返しに来たのだとイエス様が、この家で御言葉を語っておられる。それを今朝の御言葉は描き出すのです。

休む暇もなく、自分を顧みないで人々のことをかまわれるイエス様の憐れみが、この御言葉全体を包んでいます。その御言葉を聴き、信じ、イエス様の御言葉に従う私たちも、この憐れみに包まれて、主の憐れみに生きるようになるのです。ここにはイエス様に従って、自分を顧みないで、人の救いのために捧げる人生へと造り変えられていっている神の家、イエス様の家族の姿が語られています。

でも、それと対照的に、この家の外に立つ人とも言えるでしょうか。神様の救いの働きをなさっているイエス様を誤解する人々を聖書は描きます。一組目はイエス様の身内、つまり続く31節で言われる母マリアと兄弟たちですが、イエス様を取り押さえに来た、捕まえに来たと随分な言葉が用いられます。人から、おまえん家の兄貴はおかしくなっちゅうと非難されて、そのままにしちょったらいかんと、つまりイエス様より人の言うことを信じた。この問題については、次週説き明かします。

今朝の御言葉が取り扱う後の一組は、ユダヤ教の本拠地、エルサレムからわざわざ来た律法学者たちです。別に取り押さえに来たわけではなくて、言いに来たのです。イエス様が何をしているか。あれは悪霊の頭であるベルゼブルの力によって下っ端の悪霊たちを追い出しているんだと。言わばこの地域の信者たちを取り返すためテコ入れしに来た。デマを流して人々に信じ込ませるために来た人々です。

で、この人たちは、イエス様のもとに来たのではなくて、イエス様が家に呼び寄せられます。群衆のために時間を割いていて、イエス様から行くことはできないので、来てほしいと。それでわざわざ来る彼らには自信があったのでしょうか。なんせ人々を説得するためエルサレムから派遣されてきた人たちですから。

でも、どんなことでもそうでしょうけど、話も聴かないで決めつけたことって、誤解の中でも、おかしな誤解が多いように思います。彼らの決めつけた、イエス様の悪霊追い出しのストーリーを、ある説教者は、大変ユーモラスにこう説いていました。極道の偉い手がチンピラを蹴散らすように、悪霊の頭ベルゼブルが下っ端の悪霊たちに、おいお前ら、カタギの衆に迷惑をかけんじゃねえ、俺の言うことが聴けねえってのかと、チンピラの悪霊を追い出しているんだというストーリーなんだと。更に推測すれば、よくオカルト映画であるように魔術とかで呼び出したベルゼブルに自分の魂を売って契約でも結んだんじゃないかという彼らの理解でしょうか。聖書からではなくて悪霊の存在を信じる人たちからしたら、まあ、ありそうな理解かもしれません。

でも、その理解をイエス様の場合に当てはめるのには無理があると、イエス様は言わば相手の論理に立って丁寧に説明なさるのです。これ、単に、違うわ!何言いゆうがなとかって丁寧な説明をしない、要するに自己主張だけの言い争いとは、全く動機が違うということがよくわかると思います。何とかして、神様の救いの御心がわかって救われて欲しいというイエス様の動機がよくわかる。

逆に話を聴きもしないで決めつけるような、そもそもの動機がおかしいと、自分では筋が通っているように思っても、それは単に自分だけの筋、しかも自己中心でおかしい筋でしかないものです。

そういう無理矢理に自分中心に理由づけしたり理解したりすることを説教題にしました牽強付会と言うのですが、まあ、そんな知ったかぶりの動機が入り込んでしまったので、説教題もおかしくなった(笑)と、後でわかりました。反省しています。ダジャレの動機も(笑)あったのですけど、私たちも、無理矢理こじつけること、してないでしょうか。そうした人間のやる、自己中心で無茶苦茶な理解、特に神様に対しての命に関わる誤解を、イエス様は、深い憐れみのもとに包み込むように、丁寧に説得を試みられるのです。

何故なら、イエス様がなさっている悪霊追放に見られるのは、神の国がそこに到来して、神様のご支配が、イエス様によって始まっている徴であるからです。ですからサタンでこじつける論理に対して、イエス様は国の支配や家の支配、愛と平和の支配を前提に説得をされるのです。支配とは上から無理矢理押しつけ決めるけるようなのじゃない。そんなことするから内輪もめして、分裂するのです。国も家も。サタンはそんな馬鹿じゃないですよ。家を破壊し、国を堕落させ、人を滅ぼそうとするサタンをなめてかかってるから、人間は、その傲慢につけ込まれて、分裂することになるのです。

私は想像するんですけど、ここでイエス様が、家が内輪で争えば、と説明された時、家の中にいたペトロとペトロの妻の肩にポンと手を置きながら、な、そうじゃないかという笑顔で二人を見ながら、家が内輪で争えば、その家は成り立たない、サタンこそ良く知っている。イエス様が来てから、もう内輪もめなんかしている場合じゃないと、良く知っていると、それから続く話をなさったんじゃないかと思うのです。

それが、先にも申しました、イエス様こそが、サタンの家を、いや、サタンに支配されていた人々の家を、また本来は神の家であるべき世界を、サタンから奪い返しに来られたんだ、それが悪霊追放において実際に起こっていることだという、イエス様による救いの説き明かしです。

サタンは強いですよ。最初の人アダムとエバが、神様の御言葉を信じないで自分を信じて罪を犯すように誘惑したように、私たちも同じように神様なんか信じないで自分を信じて罪を犯すように誘惑されて、で、その結果、どんなことになっていますか。私たちの国はどうなっていますか。私たちの家はどうでしょうか。サタンは、私たちの考えや態度も支配してしまうほどに、人間関係や家族関係、人生をおかしくするほどに強い。誘惑して、罪を犯させて、罪と死に縛り付けて、自分の支配下に常に置こうとする。

そのサタンの支配から、キリストは私たちを奪いに来られたのです。なぜ悪霊が出て行くのか。サタンよりキリストが強いからです!神様だからです!だからサタンを縛って、悪霊を追い出すことができる。

イエス様は、この福音を信じて欲しくて御言葉によって丁寧に説得をなさるのです。それは、誤解を解消してほしいからではなくて、神様が何をなさっておられるのか正しく知って、信じて欲しいからです。神様が救いの御業をなさっていることを、今ここでもそうです、知って信じて救われて欲しいのです。聖霊を冒涜する罪とは、その救いの御業を、そんなのは悪魔的だと冒涜して、具体的には聖霊様がなさっておられる救いの業を、あれはサタンだと断定し、決定し、救いを拒絶することです。イエス様は、どんな罪も冒涜も、十字架で担って下さって、それを赦して下さいます。そのために来られたのです。サタンの支配から神様の赦しの支配に、恵みの支配、救いに移し入れられるためにです。でもその十字架の憐れみを知らせられる聖霊様を、悪霊と呼ぶなら、そこに赦しを受け入れる心が開かれているか。永遠に閉ざされているほどに、頑なになってはいないだろうか。永遠って、あなたたち本当にわかっているのかと、その永遠の溝を埋めるためにこそ、キリストは来られた。そして説得をして下さるのです。どんな罪も赦されるから。罪はわたしが担うからと。どんなにサタンが強くても、あなたの罪をぜんぶ担って死んで赦して救う愛こそ、キリストの十字架の恵みこそ強いから、その神様の業を信じて、赦しの恵みのもとに身を置きなさい、信じなさいと主は力と愛を込めて言われるのです。だから私たちはこの恵みの家で、神様の家族として歩み、また招くのです。そこに救いがあるからです。