マルコによる福音書3章7-19節、エレミヤ書1章4-10節「押しつぶされないために」

19/2/10主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書3章7-19節、エレミヤ書1章4-10節

「押しつぶされないために」

人の波という言い方がありますが、この時は津波レベルだったのじゃないかと思います。病気に悩み、ほうぼうから来た数えきれない群衆が湖のほとりにおられたイエス様を、押しつぶしそうな勢いで押し寄せてきました。その場面を想像するに、10節でイエス様は多くの病人を癒されたと言われておりますので、この時も一人一人に手を置いたりして、癒しをなさっておったのだと思います。けれど、苦しみから早く解放されたいという思いが、順番を待つという防波堤を決壊させたのか、人のことや、その結果どうなるかを考えない暴力のような波になって、人々の手が、イエス様に触れよう触れようと押し寄せて来た。

そこには悪霊に支配されていた人々も少なからずおったようですが、ひょっと後で、その時の暴力的な衝動を、人々が振り返った時、自分は悪霊に取りつかれていたのではなかったと思うが、あの時、人のことを考えないで、ただイエス様に触れようという思いに取りつかれておったのは、悪魔に支配されているのと何が違うのか。もしドミノ倒しになっておったら、すんでのところで私は人殺しになっておったんじゃないかと、悪魔的な力に翻弄される、人の弱さと恐ろしさ、罪深さに、だからこそ私には救い主が必要なのだと、癒されるためにではなく、救われるためにイエス様を信じた人は、きっとおったと思います。

今朝の御言葉が告げますのは、神様がそのためにイエス様を遣わされただけではなく、教会を人々の救いのために遣わされたことです。古くより、教会は自分たちが誰であるかを言い表すのに、使徒的教会という言い方をしてきました。使徒たちがイエス様から遣わされたのは、教会を遣わされたのだ。使徒たちと同じように、同じ目的で、人々が福音の力によって救われ、癒され、悪魔の力から解放されるために、イエス様から遣わされているのが私たち教会だ。教会は使徒的教会だと言ってきたのです。今朝の御言葉は、その意味で私たち教会の選びと派遣の目的をハッキリ示すのです。教会が存在する目的は、そうでなければ救い主を押しつぶしそうになるほどに自分たちの苦しみや弱さ、自己中心的な求めと衝動と罪深さ、そして悪魔の力から人々を解放し救うためです。そのために遣わされたからです。人間が、自分の罪と悪魔的力によって押しつぶされてしまわないために、滅びから救われるためにです。

その目的を果たすためにイエス様が定められた、教会の三つの大事な務めがあります。14節と15節です。

「彼らを自分のそばに…持たせるためであった。」

一つ目はイエス様のそばに置かれること。二つ目と三つ目はセットになった派遣の務めです。まずイエス様のそば。そして派遣。この順番が大事なのですが、その前にあった湖での出来事との関連も大事なので、今朝は、その湖の出来事で、何故、汚れた霊どもが、イエス様のことを言わないように厳しく戒められたか、これを説き明かすために敢えて、この三つの務めの順番を逆に遡って説き明かします。

イエス様は、悪霊から解放するための権能を教会に与えられました。権能とは、これをしなさい、してかまわないと、上からの権威によって与えられた権限、力のことです。それによって悪魔の暴力に対抗するための神様からの力です。この権能を、今の時代の教会は土に埋めてないか、そしてまんまと悪魔の偽りを鵜呑みにしてはないか、改めて御言葉に立ち返る必要があると思います。これ、宣教とセットですから、もし今の日本で伝道が振るわない聖書的な理由を求めるなら、この御言葉を無視することは、やはりできんと思います。

そして、こっちのほうが悪霊からの解放よりも優先する!というのが宣教、キリストの福音を宣べ伝えることです。悪霊からの解放とセットで、しかし、これに優先する、罪からの解放、永遠の救いを人々に与えるために、キリストの救いを宣べ伝えること。何故なら、他のところでイエス様が言われるように、悪霊は追い出しても帰ってくることがあります。でも救いは、キリストと一つに結ばれて神の子とされる救いは、永遠です。人を神の子とする三位一体の聖霊様が、入ったり出たりするわけでもありません。キリストを救い主と信じて、神様に立ち返る人は誰もが聖霊様によってキリストと結ばれ、永遠の天の父の子になるからです。その福音を、罪の赦しと裁きからの救いを人々に手渡すことが、教会が派遣をされている最も重要な理由です。

けれど、先に申しました湖での事件が露わにするように、人は罪からの解放を求めてというより、求めの順番からしたら、自分にふりかかる悪魔的な力からの解放を先に求めることが少なくありません。おそらく今も多くの人々が、教会に足を運ぶきっかけとして、そうした苦しみをあげられるのではないかと思います。

無論、求めの順番としては、その順番で救われる人々が多いのが事実ですし、何よりそこにはイエス様の深い憐れみがある。それはゆるがせにできません。でも求めの順でなく、物ごとの順、あるいは優先の順番を間違えると、後々で大変と言うか、取り返しがつかないこともある。例えば子育てあるあるで、ご飯の時、幼児に先にデザートを見せると、プリン食べる!プリン!プリン~言うて、食卓の納豆が飛ぶとか(笑)。プリン求めても良いんですが、順番。結婚と性的関係の順番も、同様。罪からの解放も、イエス様のもとに行くきっかけとして、これを求めることが順番として後になることはあっても、救いに関わる優先順位としての罪の問題を、もし、いつまでも後回し、先送りにするなら、霊的に危険な状況です。そこにイエス様が厳しく問題視された悪魔的な状況も入り込むからです。

悪魔はイエス様のことをよく知っています。何故、神様が人となられて、神の子として、天の父から派遣されたのか。そうでないと私たちを罪の裁きから救い出せないからです。私たちの罪の償いを、永遠の御子なる神様が死んで償って、命を償って下さらないと、永遠の裁きからの賠償が、償いが支払われないから、そしてその償いを神様は、支払う、死んで支払うと、人となられて、神の子として地上に来て下さったからです。それが神の子イエス・キリストの福音の初めです。

その神様の救いのご計画に逆らって、神様に逆らい続けて、神様の愛する人々を奪って、その支配下に閉じ込めて救わせるかと文字通り悪魔的に病的に、人を神様の救いの愛から引き離そうとするのが悪魔です。サタンの企みは、この福音による救いから人々の関心を背けさせることですから、自分に降りかかる悪魔的暴力からは解放されたいが、罪から解放される必要はないと思わせたら、ミッションコンプリート。だからイエス様は悪霊を黙らせようとなさる。そのことを説いていきます。

無論、悪霊からの解放を軽んじてないからこそ、使徒を派遣する時に権能を授けられた神様の憐れみを、軽んじてはなりません。でも罪からの解放という目的にこそ、まず心を注がないと、結局、悪霊に振り回されるだけでなく、自分の罪に振り回されるのです。

その中には、神様を知らないが故に、知らないで勝手に勘違いして、罪に振り回されるということがあります。結婚前の性的な罪もその内に入るでしょう。皆やっているからいいのだと思っていたと。そこに悪魔的な力が本当にないでしょうか。

神様のことも、神様のお気持ちも、御言葉から知ってないと、勝手な誤解が生じるのです。先週のところでは、自分たちを悪く言うイエス様を殺そうという話にさえなる。知らないところに悪魔はつけ込みます。どうやってつけ込むかと言うと、人間は勝手に間違ってくれるのです。バレンタインがあるので、しつこくて申し訳ないですが、例えば神様が人に与えられた性の祝福について1%だけの真理を言う。そしたら後99%勝手に間違って、いけない方向に進むことを人間はする。1%だけの真理を、自分の中にある求めや衝動という矢印の方向に、勝手に話を結びつけて、だから、と、結論で間違ってしまうことを、知っていても人間はやるんですから、知らなかったら尚更つけ込まれる。

だから悪霊も、あなたは神の子だ、と一言だけ叫ぶ。そしたら神の子は、自分たちに苦しみを引き起こす病や悪霊から解放するために来たのだと、自分の強い求めに引きずられて、罪のことは思わないで、神様の裁きは思わないで、勝手な誤解を、群衆は信じてくれる。

でも、そうやって悪魔につけ込まれるほどに後回しにされる罪のために、神様は十字架で死なれるのです。悪魔に勝つためなんかじゃない、人を本当に滅ぼしてしまう罪を身代わりに滅ぼしてしまうためにです。私たちの永遠の救いは、この罪を、神の子が背負って死んでしまわれる償いの死にこそあるからです。悪魔の支配にある群衆を放っておけない深い憐れみが、神の子を決定的に十字架に向かわせられるのです。

その神の子による救いを、教会が、間違わないで人々に伝えるために定められた使徒的な務めが、最後になりますが、教会をご自身のそばに置くことです。教会がイエス様を、自分の求めに引きずられてでなく、十字架の深い愛に引き寄せられて知るために、頭だけでも口先だけでもない、イエス様を個人的に深く知る関係に生きられるように、主は教会を、ご自分のそばに置かれます。そしたら遣わせるからです。

教会が伝道し、悪霊を追い出すのは、このイエス様の憐れみを自分のこととして知っているからです。でなかったら悪霊につけ込まれます。すぐに誤解をしやすいのです。大切な人や時間や命を失ってから分かったりするのです。自分が間違っていたことに。いつも間違っていたことに。そんな自分の罪深さに、勝手な誤解や惑わしや嘘に押しつぶされてしまわないように、主は共におられます。いや、わたしに従いなさい、いつもそばにいなさい、わたしから学びなさい、わたしが救う救いに、あなたは生きよと、私たちを罪と悪魔的力から解放して下さいます。

そのイエス様を私たちは伝えるのです。知っているから信頼できるのです、イエス様を知って信じているのですと、本気で伝えられる信仰の喜びは、イエス様のそばから始まります。そして遣わされた先で、既に味わっているキリストの恵み、御国の福音を、人々に証するのです。