マルコによる福音書3章1-6節、創世記4章1-8章「そら怒るし悲しいろう」

19/2/3主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書3章1-6節、創世記4章1-8章

「そら怒るし悲しいろう」

黙っている人と、黙っていられない人。どちらも付き合うのが大変な気がしますが(笑)、今朝の御言葉を読みます限り、イエス様は後者なんだなとしみじみ思います。無論、自己主張がうるさいというのでなく、神様は私たちを放っておけなくて、救いの言葉を、語られるのです。

そのイエス様に癒された人は、黙っている側とイエス様の側のどっち側におったのでしょう。2節に「人々はイエスを訴えようと思って…」と言われますが、安息日に働いてはならないという戒めをイエス様は破っているという理由を着せて訴えようとしていた人々の側に、この人もおったのでしょうか。もしそうなら、まんまとイエス様が食いつく餌になってやろうとして、立ち上がったのでしょうか。

私は、皆が皆、訴えてやろうという目でジロッとイエス様を見ておったわけではなかったろうと思います。むしろイエス様についての自分の意見、自分の立ち位置を、決めかねておった人のほうが多かったんじゃないでしょうか。

日本だと、そういう自分の立ち位置を決めてない人は、黙っているということが多いように思います。日本では出る杭は打たれるというのもありますので、黙っておったほうが得策、面倒にならない、意見がなくてもそれで困らなければ、それが賢いんじゃないかという意識が、割とあるのかもしれません。

ただ高知新聞なんか立ち位置が明確で、先の時代、そうやって権力者がどんどん法律を作ったのに、多くの人々は黙っていて、そのまま戦争に入った。同じことを繰り返したらいかんと警報を鳴らし続けているのは、やはり無視できないと思います。来週の2.11の出席も考えてほしいと思いますが、話を戻します。

この人はどうだったんでしょう。発言は何もしてないのです。したら困ることになると思ったのでしょうか。皆が自分を見て、ただでさえ変なプレッシャーを感じているのです。自分がイエス様に対して、どんな意見を持っていて、どっち側に立つのか、まるで見張られているような状況下。癒されたいけど、この状況でイエス様が来てくれるのは嫌だなと、ひょっと思ったかもしれません。安息日が終わる日没後に、わたしのもとに来なさいとイエス様が言ってくれたらいいのに。それなら文句は言われない。そしたら癒されるし、面倒なことにならないし、だからイエス様が、この時点では何もしないで、そっと放っておいてくれて、後で、自分の状況が良いタイミングでと、現代人が思いそうなことを、この人は思わなかったでしょうか。

でもイエス様はこの人に「真ん中に立ちなさい」と言われたのです。よりによって人々の真ん中に。皆から見られるところに。もしかすると見世物のように思ったかもしれません。恥ずかしさもあったでしょう。うるさい人々に後で色々と言われると思ったかもしれません。でも、これで癒されるなら…癒されたい。神様って、祈って立ち上がったんじゃないでしょうか。私たちがそうやって洗礼を受けたように。

この人を、また私たちを、イエス様は、まさか見世物にされるのではありません。イエス様も目の前に一緒に立っておられるのです。そして皆が見ているのは、その人自身じゃなくて、その人に、イエス様が何をなさるかです。

イエス様は、その人に何をなさったのか。イエス様はその人を、神様が生きて御業をなされる神様であられることを証言する人、キリストの証人とされたのです。

イエス様は、私たちにもそうやって「真ん中に立ちなさい」と声をかけられ、イエス様と一緒に立つ者となさいます。私たちの色々な思いを超えて。不安や戸惑いがある中で。自分で選んだのではない、イエス様が選んで下さった立ち位置に、イエス様の前に立つようにと招かれて、そこでイエス様は私たちに「善」を行われるのです。

ただその善が、人々のこだわりと違っていたことが、殺意に繋がったというのですから、人間は本当に、自分中心に善を考える罪人だと思わされます。本当に正しいことを言われると、むしろ腹が立ったりする。自分の正しさを捨てられないから。自分は正しいと思っていて、それで黙るってことが本当にあるもんですから、聖書は本当に私たちの真実を映し出す鏡だと思わされます。

ここしばらく報道されている、小学生の娘を虐待で死なせた父親が、自分は間違ったことをした認識はないと言った、あの言葉も、私たちが自分の正しさにしがみつく頑なさが、人を殺すことになるのだという罪の恐ろしさを痛いほど現実化していると思うのです。自分に固執して、人の苦しみを見ない、憐れみをなくした正しさ、愛をなくした正しさ、対話ができない正しさ。それは人を殺す正しさです。

強烈な言い方ですけど、今朝の御言葉で主ご自身、命を救うことか、殺すことかとおっしゃいます。それでも人は、自分が、人を救う善ではなくて、殺す正しさ、悪を行っている自覚を持ちにくくて、例えば悪を行っていると言われたら嫌な気分になる。すぐ顔に出て不愉快な気分になる人も、顔に出さない人も、誰だってそうでしょう。出ても出なくても、人は自分の正しさを守ろうと、怒るほど頑なになる。

けれど、その頑なさに対して、神様こそ怒られるのです。イエス様がここで怒られたのは、人々がイエス様の御言葉の問いに対して、黙っていたからです。自分は該当しないと思ったからでしょうか。むしろ殺す正しさに該当する頑なさが、そう思わせるんじゃないでしょうか。もし意見があっても、それが悪いと裁かれたくないし、既に自分の中で判決は出ているから言う必要はないと、答えること、対話することを拒み、黙っている。その頑なさに対して、イエス様は、感情を露わに出されて怒られるのです。

でも、そこで出された感情を、聖書は「彼らの頑なな心を悲しみながら」と、その神様の怒りは悲しみに満ちていることを告げずにはおれんのです。それを告げんのは嘘を言うことになるからです。それは十字架抜きで、神の裁きだけ言って、悔い改めを求めるのと同じです。憐れみのない頑なな正しさと同じです。それは人を救わない悪であって、その悪、心の頑なさが、人と自分自身を殺してしまうのです。

イエス様は、その殺す正しさを、怒って、悲しんで、でもその怒りと悲しみを現わしたとしても、飲み込まれました。そんなの飲みこんだら死ぬほどの、神様の怒りと悲しみを飲み込まれて、ご自分を神様の怒りの対象とされて、神様の正義の裁きが向かう矛先とされて、十字架へと向かわれるのです。本当に正しい裁きは、怒りと愛でできている。それなら私の裁きもそうだと言う人はいるでしょうけど、その怒りを自分が受けて、自分を殺して、頑なで悪を行って裁かれるべき人に愛を注いで自分には注がないという正しさのテストに、誰が生き残れるでしょう。怒りの裏側に愛があるのが本当の怒りだと言う人はいても、その怒りの矛先を全部自分が引き受けて、残った裏側の愛を、なのにその愛を受け取ろうとしない心の頑なな民に注いで、裁きを負う。その心の頑なさを悲しみながら、その罪を負う。それが十字架を負われた神様なのです。

私たちは、その神様の愛と正義の御業を証しする者として、イエス様に呼ばれて、ここにいるのです。嘘の裁きも、嘘の正しさも、もういりません。生きておられる十字架の神様が、本気で悲しみ怒ってくれて、萎えた命も真っ直ぐに伸ばされる。その神様をこそ証しするのです。