マルコによる福音書2章23-28節、申命記5章12-15章「神様は愛を定められた」

19/1/27教会設立記念主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書2章23-28節、申命記5章12-15章

「神様は愛を定められた」

今日は高知東教会の教会設立記念礼拝を捧げております。実際の設立記念日は二日前の25日です。まだ借家の会堂が舟戸にあった1998年の1月25日に、それまで大津伝道所だったのが高知東教会となる教会設立式を行いました。伝道所から教会になるというのは、人に譬えて言えば成人式を迎えることだとも言えるでしょうか。もう伝道所には戻れない大人の教会として責任を負って成人するのです。

そうやって成人して、もう21年です。20歳で成人なら、人で言えば41歳。けっこうなオッサン。いや、教会はキリストの花嫁だから、おば…、けっこうな姉さん(笑)といったところでしょうか。

礼拝の後、教会修養会も行います。「礼拝を中心に回る一年を作る」という主題ですが、いや、いつもながら、さすが神様と思います。主題と今朝の礼拝での御言葉が見事につながっていて、そういうことですよねと嬉しくなります。ぜひ修養会も残って欲しいと願います。

イエス様は、今朝の御言葉で「安息日は、人のために定められた」とおっしゃいました。先の旧約聖書にありました通り、神様のために聖別された、つまり神様を礼拝するために仕事を休む聖なる特別な日です。

でもその安息の定めは、神様のためにじゃなくて、人のために定められた。人が人として人らしく生きるために、どうしても必要だと神様がご存じだからです。

人のため。それは一つには、奴隷が休めるように、定められた。今で言うブラックな職場同様、休めないのが当時の奴隷です。でも神様は、いや奴隷も同じ人だから、それは単なる、あなたがたの貧しい人間社会の定めに過ぎないだけで、わたしにとっては掛け替えのない一人の愛する人だから、休めるようにしなさいと。社会的に貧しくて休めない人のため、休めるように定められたのが安息日だと聖書は教えます。

また、社会的に貧しい人のためだけでは、もちろんなく、言わば霊的な貧しさを人は皆抱えている。考え方、感じ方、総じて生き方全般において、神様と共に生きる命に欠けていて、生活に神様が欠乏していて、貧しい。その一つの現れが、ファリサイ派の人々が、ほら、あいつらは安息日にしてはならんことをしていると、宗教的なことを言いながらも実に神様に貧しい態度になってしまっている。例えばそうした貧しい人が、なお、本来の喜びと安らぎである神様との生活を楽しめるように、あれをせられん、これをせないかんという生き方じゃなくて、神様に、まことの安息を!見出せるように、人のために、安息日は定められた。まずはそこから説き明かします。

安息する。休む。体を休めることは、この歳になると本当に大事だとつくづく思います。若い時は寝る時間が惜しかったですけど、寝るのは大事ですね。よく寝ると気分もスキっとします。心の安息も必要です。心が、溜息じゃなく、安息の安心した息を、ふ~っとすることができるように、心に安息を与える。

では、どうやって心を休ませるのか?寝るのも一つですが、神様による安息を得るのは、言わばレクリエーションを行うのに似ています。皆で集まって緊張をほぐす、ちょっとした遊びをレクリエーションと言うことがありますが、もとはリ・クリエイション、再創造、再び造り直すことです。例えばずーっと座りっぱなしの姿勢でいると、偏った緊張やアンバランスな体の使い方で肩こりになる。その凝りをほぐすために、レクリエーションをして、体だけでなく、心と体全体の凝りをほぐす。それには、肩凝りだからって、肩だけ運動してもだめ。凝った部分だけでなく体全体の運動をして、血液やリンパ液や神経物質が、スムースに流れるように、言わば全体の流れを造り直すのです。そこで感情の流れや気分の流れも動かして、しかもそれを仕事でやるんじゃなくて、レクリエーションですから、楽しむことで体と心の流れを再創造していく。生き方の流れを、楽しんで生きられるように造り直す。子供が親の前で楽しそうに遊ぶように、天の父の前で楽しんで生きられるように、心と体と、生活全体を造り直すためにあるのが、礼拝の日、安息日です。

それは仕事や家事をも、再創造します。つまり、仕事を仕事のためにやっていたら、家事を家事のためにやっていたら、生き方全体がおかしくなって、自分は何のためにこれをやっているのか、わからなくなる、というのは、よくわかることじゃないかと思います。何のため、また誰のために、自分はこのことをやっているのか、生き方のバランスを崩した時に思うのですけど、でもその根本には人本来の霊的なバランスの崩れ、神様のために生きてないという崩れがあることを、安息日の定めは教えるのです。神様のために生きてないと、バランスを崩すのです。

しかもファリサイ派のように、キリスト者も陥りやすい、人の貧しさがありまして、神様のためにと思いながら、例えば礼拝であってさえ、いつの間にか礼拝が、自分のやるべき仕事になって、自分のせないかんこと、やるべきこと、これをせな、自分はこれをせなと、自分のことで一杯になる。家族のための仕事のはずが、仕事のことで一杯になって、家族との関係が薄くなるように、神様のための礼拝や奉仕のはずだったのが、自分自分と、バランスが偏って、神様のために動かなくなると、まるで肩凝りにように、私たちの霊が動かなくなる。神様との生活が、愛を中心に流れなくなる。リンパが流れなくなるように、神様との会話である祈りが流れなくなって、祈っても、それが仕事になって、願い事のリストの羅列みたいになったりすると、リンパが流れず肩凝りになるように、祈りも信仰も自分自分でカチカチにこわばってしまう。

ファリサイ派の人々がそうで、律法を守る生活と言いながら、それが自分の仕事になるのです。神様との生活ではなく、仕事化してしまう。自分の仕事、ノルマ、つまりやるべきことをやるのが、律法主義です。

私は、情けないことですが、説教準備をしている時に、この仕事化の問題をよく感じます。説教準備が仕事化すると、どうなるか。スムースにいかないと、イライラする。御言葉に向き合っているのに?いやまだその時点では、向き合おうとしている自分を見て、自分はやるべきことをやっていると、そこに留まっているのでしょう。そして、やるべきことをやっているはずなのに、スムースにいかないとイライラする。イライラするとどうなるか。言わずもがなだと思いますが、人のやることに不満を感じると言うか、やるべきことをやってないように思う。欠点が見える。しかもそれを言いたくなる。裁く態度で。

イエス様の弟子たちが、人ン家の麦畑の穂を摘んで生麦を食べ出した時に、ファリサイ派の人々がやったことが、それです。

実は、人ン家の麦畑の穂を摘むことは、律法で、こう言われているのです。「隣人の麦畑に入る時は、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(申命記23:26)。これは主人のもとを逃げ出した奴隷はかくまってあげなさいと命じる憐れみの流れにある律法で、そら鎌はいかんけんど(笑)とユーモアを交えて、憐れみの欠けた正しさの如何に貧しきことかを教える律法だとも言えます。が、ファリサイ派の人々には、その御言葉が心に流れて来ない。それよりも肩凝りのように凝り固まった、安息日を仕事化する態度から見えるのは人の欠点です。御言葉が流れてこない。憐れみ深い神様の御心が流れて来ない。御心がわからない。わからないのに、律法を仕事化して、ダメな上司のように上から裁く。それは、もし、その人が、本当に間違っていたとしても、その間違いを直せない自己責任で終わるのが、ダメなのです。

だから、その上司をも含む私たち全ての人を直すために、人を新しく造り直すための、安息日の主として、神様は人の子として来て下さったのです。右頁の上17節の御言葉では、イエス様は医者として、私たちを治しに来られたと言われましたが、そこには頑なな罪の凝りを治して、神様の愛の御心が流れるように人を造り直される、整体師としての姿も含めて良いと思います。

ここでイエス様は旧約聖書のダビデが行ったことを例に上げて、一言で、イエス様がここでなさったことを言えば、御言葉によって、流れを造り直そうとなさるのです。仕事化された安息日の考えに凝り固まってしまった考え方を、神様の考えの流れに沿わせようとされる。そのことで、どういう考え方をしたら律法がわかるのか、それがわかるように、神様の考えの流れの中に人を置き直される。そしたら、自分自分に凝り固まった考えや態度の血栓が溶かされ、考えが正しく流れていくだろうと。御言葉の流れに沿って、神様の憐れみが流れるようになって、神様のお気持ちに沿って、考え、感じることができるように、御言葉による造り直し、癒しをなさるのです。

それが安息日の礼拝で、必ず御言葉が語られる所以です。安息日の主が、私たちの再創造、聖なるレクリエーションの御業をなさるのです。

その安息日の主のもとで、イエス様を信頼して御言葉を聴くことで、イエス様のように考えたらよいのです。イエス様に従って、イエス様が考える考え方をなぞって考える私たちの心と体が、そしたらイエス様のように動くように造り直されていくからです。そこに霊的な癒しが起こります。自分自分、仕事仕事で凝り固まった考え、心と態度が、神様の御心に沿って流れるようになって、そしたら神様のお気持ちがわかる。神は愛だと。動かない文字としてでなく、凝り固まったお約束の言葉でなく、私という生きた時間の流れの中で、神様が私と共に生きておられて、私のために生きておられて、そして本気で神様は、私が、神様のために生きることを求めて下さっていると、愛しているよだけじゃなく、愛に生きよと、わたしは愛だ、あなたを愛する愛、そしてあなたが愛に生きられるように、愛し続けて、罪から救う愛だと、十字架の愛の神様が、本気で私たちを愛しておられることが、生きている私の現実となるのです。求めるだけで与えないのは、愛じゃないですけど、相手が愛に生きることを求めないのも、本当の愛ではないでしょう。神様は本気です。十字架で死なれるほどに本気だからこそ、人はその愛に赦され、抱かれ、その愛に応える愛と信頼の関係に、霊の安息を得るのです。