マルコによる福音書2章18-22節、イザヤ書58章「喜ぶ理由入りの新生活」

19/1/13主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書2章18-22節、イザヤ書58章

「喜ぶ理由入りの新生活」

古い、新しいという言い方をイエス様なさいました。これは私たちが使っています、旧約の旧さ、新約の新しさと、そのまま言い換えることのできる、旧さ・新しさです。

旧約と新約。旧い約束と、新しい約束です。旧い約束とは、私たちの罪と裁きから私たちを救うために、神様が、救い主を与えると約束してくださった、つまりイエス様がまだ与えられてない時代の約束。そして新しい約束とは、旧い約束通りに!神様が救い主として来られて十字架で私たちの罪を全て償って下さった。その救い主キリストを信じる者は必ず救われるから、信じなさい、わたしについてきなさいと、既に旧い約束を守られたイエス様ご自身が、必ず守られる約束をして下さった。それが新約です。

いま読みました御言葉でイエス様は、要するに、もう救い主が来たのに、あたかも来てないかのような生き方をしているなら、言い換えれば既に来られたイエス様を無視して旧い生き方にしがみついておったら、救い主と一緒に歩むことができなくなる。そうじゃないかと問われるのです。

イエス様ここで、婚礼の譬えを持ち出して、花婿がもう来たんだからと、ご自身のことを花婿に譬えておっしゃっておりますが、本当、そうなんです。そこから更に別の譬えで展開するなら、もし花嫁が、いや、まだ花婿は来ていないと、来ると約束しておった旧い約束にしがみついて、自分は花嫁修業をせないかんから、そうしてないと気に入ってもらえんかったら大変やきと、一見かわいいことを言いながら、でも、もし花婿自身より、自分が信じている婚約の約束に生きているなら、しかもその花嫁修業中の自分に満足してしまっていると言うか、今で言えば、ゼクシィの世界に(笑)うっとり住みこんでしまったままでいるなら、もう新しくなっているはずの二人の世界は、そこでビリビリビリと破れを体験しないでしょうか。

その旧い生き方、しかも宗教的で、あるいは聖書的で神様が喜ぶはずの、けれども旧い、イエス様抜きの信仰生活が、ここでは喜びの葡萄酒と対極に置かれた断食によって特徴づけられています。おもしろいなと思いました。人々が、イエス様と弟子たちとの信仰生活を見て、ん?と思った点があった。あれ、断食せんがやと思った。この人々自身が断食をしよったかどうかはわかりません。いや~したほうがえいとは思うけどと言う人もおったでしょうか。あるいは、私はできんと思う人でも、当時宗教熱心な人々言うたら、洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派で、あの人らあは断食しゆうと。それが目立って見えた。それが熱心で言わば心に残る宗教心に思えたのです。今なら何にあたるでしょう?

断食は、先に読みましたイザヤ書でも注意されていたように、形だけの形骸化をしやすい。でも断食なんて苦行なのに、何でそんな形が残るか、しかも、あれは立派なもんやと心に残るのか。案外、人は苦行をしている自分に安心したり満足を覚えるナルシスト的な思いを持っているからでしょう。

でも、そうやって神様の名前を出しながらも、自分が自分を救う部分を持ちたい人間の罪、神様よりも自分というナルシストの罪に抗って、神様が!私たちを救って下さって、一緒に生きようと、婚礼の喜びへと招かれる。それがイエス様による救い、そしてイエス様を信頼して一緒に歩んで行く、主と一緒の信仰生活なのです。

先日、刑務所の教誨師の務めにまいりましたら、若い受刑者から質問されました。イエス様を信じて救われるというのは、罪が赦されるだけじゃなくて、新しく造り変えられる救いだと言われたけど、どんな風に造り変えられるのかと。私はそれを聴いて改めて、そうだ、新しく造り変えられたいんだよな、今のままじゃいかんと本当に思いゆうがよねゃと、グッとくる思いがありました。でも私たち、本当は皆そうなんじゃないでしょうか。新しくなりたい。でもそこで旧い生き方をあてがっては、ビリビリと破れる体験もしている。そしてあきらめるか、それとも新しい革袋に、イエス様と一緒になって生きるのか。

私は、その質問された方に、自分のことを話しました。一気に全部が新しくはならないけど、段々とでも何が造り変えられていったか。意識の中で、神様を意識するようになった。そしてイエス様に助けを求めるようになった。どんなことでも神様を意識するように造り変えられて、そしたら、考え方も、神様のことを思いながらの考え方に造り変えられていくし、態度も、自分の判断や決定も、神様のことを思って、だからこうだと。あるいは悪い方を選ぶ時さえ、やっぱり神様を思う。そこでごめんなさいと思う時もあれば、言い訳するような時もある。それでも神様抜き、イエス様抜き、救い抜きの生き方から、変えられると。

どんなことでも神様を意識するようになるというのは、皆さんも考えてほしいのですけど、例えば、もし皆さんが今ちょっと鼻の中がかゆいなと思っても、一人でおる時のように、指を突っ込むことはされないと思います。おったらかなりの豪傑ですけど(笑)。

何故しないか。一緒におる人のことを、変な言い方ですが、無意識に意識するからでしょう。人がおるから。見られているから。

同じように、神様を意識する生き方になる。しかも十字架で私の罪を負って下さった、私の救い主なる神様、イエス様を意識する毎日の生活が、じゃあどうして始まり得るか。頑張って意識するからでしょうか。それなら鰯の頭も信心からで、何だっていいんです。意識の問題なら。それならお一人様の断食と何も変わらない。

じゃ、どうしてイエス様を意識する毎日に変わっていくか。イエス様が来てくださって、あなたを愛している、わたしと生きようと、招いてくださり、その約束を守ってくださっているからです。そこで私たちもまた、あなたに従いますと約束を守る。その時に、単に信じるだけじゃない、共に生きる婚礼の生活が現実に味わわれるようになるのです。

ま、婚礼は一時だけ、という言い方もできないわけじゃないですが、その時が過ぎたからって、イエス様が共にいなくなるわけじゃない。昔のCMみたいに、亭主元気で留守がいい、と私たちが仮にイエス様に対して思ったとしても、十字架で命をかけて約束を守って下さった、人となられた神様は、その命にかけて、わたしはあなたと共にいる。その約束を、わたしは破らない。あなたが破っても、わたしは約束を守るから、信じなさい、わたしはあなたを離れない、そのわたしにあなたは従いなさい。じゃないと、わたしは共にいるけど、共に歩めないだろう。共に歩もう、ついてきなさいと、私たちの主は言われるのです。

聖書は、そのイエス様のことを花婿と呼ぶのです。花婿と、ずっと花がついているのはイエス様だけでしょう。また教会はキリストの花嫁と呼ばれます。愛の冷めやすい人間関係だと、花嫁が嫁になってしまうのかもしれませんけど、イエス様にとっては、いつまでも花嫁です。命を捨てて惜しくないのは十字架の時だけで、今は考え直させてもらいますということは、その名を愛と呼ばれる神様に限っては決してない。冷めやすい人の愛とは違うのです。その神様を信じるとは、人を信じるのと同じではない。その神様に従うとは、人に従うのと同じではない。神様の何を私たちが信じるのか。私たちのために十字架で死んで罪を償って下さった、その愛が、決して変わらないことです。その神様の何に従うのか。その変わらぬ愛で招かれる十字架の主の愛に対してまるで人間に対する愛のように冷めてしまいやすい、従うことに疲れてしまいやすい私たちに、ならばこそ変わらぬ愛をもって、共に歩もう、わたしが造り変える、だから信じて従いなさい、わたしはあなたを愛していると招き続けて下さっている神様の、変わらぬ愛のお気持ちに、はいと従って、主と共に歩んでいく。それが主に従う新しい信仰生活、イエス様と永遠に共に生きる、全く新しい命を入れた、破けない新しい革袋です。

それは御言葉の旧い新しいの譬えで言うなら、イエス様抜きでの古い生き方に、イエス様を信じる新しい生き方をあてがってミックスさせることではない。混ぜるから破けるのです。全体が一つの新しい生き方、主と共に生きるという生き方に、生き方を丸ごと変えるのです。

それは、断食でも何でもそうですが、単に形を変えることじゃない。形だけ変えても、それをお一人様でやるなら何も変わらない。生き方を丸ごと変えるとは、何をするにしても、何を考えるにしても、イエス様が共におられて、私に求めておられることがある。そのイエス様を意識して、求めを意識して、イエス様のために、またイエス様と結ばれて、共に生きるようになった私とイエス様のために、ちょっと臭い言い方をすれば、二人のために何が最善かと意識して考えて、行動する。態度も含めて、イエス様と一体とされた者として命を生きる。

断食も、そこで新しい断食に、イエス様と一緒の断食になるのです。断食は、神様に対する罪の悔い改めと悲しみの表明ですが、自分は罪を悔い改めなければならないという罪意識と、その罪を背負って下さり、私を愛して償って下さったイエス様のお気持ちを思う意識と、どちらを優先するのかで、断食の意味は変わるからです。

イエス様を思いながらも、この罪を私はどうしたらよいでしょうと、罪の悲しみを押さえられないところでは、イエス様と一緒に苦しんだらよい。十字架の主の苦しみを思うところで、断食して悲しめばよいのです。その悲しみの全てを主はご自分のものとされるからです。

また、罪だとわかっているのに罪の悲しみが麻痺していて祈ることもあるでしょう。その時は、罪を悲しむことができるよう助けて下さいとイエス様の憐れみを求めて断食したら良い。断食の良いところは、本当に弱くなる点です。自分の力だけでは生きられないのだと体で分かる。その弱さの中で、罪を悲しむことができないほど強くてごめんなさいと断食の助けを借りて、弱くされて祈ればよい。その弱さを、イエス様が祝福して下さいます。悲しみの中にも弱さの中にも、主が共におられて祝福に変えて下さる。そして全てが新しく造り変えられるのです。