マルコによる福音書2章13-17節、イザヤ書40章1-11節「新しい人生がここから」

19/1/6主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書2章13-17節、イザヤ書40章1-11節

「新しい人生がここから」

レビは、このイエス様の言葉を、脇で聴きながら、そうだって思ったでしょうか。思ったでしょう。涙ぐみながら思ったんじゃないでしょうか。イエス様が、私のところに来てくださって本当に良かったと。

イエス様がおっしゃったように、そうだ、私はイエス様が招いている罪の病を持つ罪人だと思う人って、どういう人が思うのでしょう。

皆さんは、どうでしょう。私たち、皆イエス様からそのように招かれたから、この礼拝にいるのだと思うのです。

逆に、イエス様から招かれてない人っているのかと考えてもよいかと思います。人々を招かれるイエス様の眼差しを考えるのです。あの人は必要だから招く。あの人は…いいか、招かんでも、って選別するような人の見方を、イエス様、されるのかということです。

レビの前に立たれたイエス様の眼差しが、もしそんな、人を選別するような眼差しでレビを見ておったのなら、レビは、きっとそんな人について行くようなことは、せんかったろうと思います。

でもレビは従った。この方について行こうと思った。そして、自分を奴隷のように縛り付けていた古い生き方から、立ち上がったのです。

今朝の御言葉は、実はその前の話とセットになっています。そこでもイエス様は、自分の力では立ち上がることのできなかった病人を、神様の権威ある言葉によって立ち上がらせた。そういう、人を御言葉の力によって立ち上がらすことのお出来になる医者として、イエス様は私たち皆を招きに来られたのです。

ただ、まあ丈夫な人に多いのでしょうけれど、熱が出たばあじゃ医者にかからん、と言うか、自分は医者を必要としない病人だと思いたいということが、よくある。病気の自覚がないわけじゃないんです。自覚があるけど、大丈夫じゃないけど、そこまで悪くないと思う、丈夫で強い人。でも本当に強いんでしょうか。たぶん、レビもそうだったのです。だから皆がイエス様のそばに行っても、自分は立ち上がることをせず、座り続けていたんです。色んな思いがあったはずなのに。

そのレビも、また私たちも、医者が必要なのです。

イエス様が、ここで医者の話をなさったのには理由があります。先週イエス様は、私たちに必要な罪の赦しを宣言なさったのですけれど、単に罪が赦されたら、それで救われるから、はいお終いじゃない。赦しが必要なのは、うんとまとめて言うと死後の裁きの時に、罪が赦されないと救われんからです。そのために、私たちの罪を償って死なれた神様、罪を負うために人となられたイエス様が必要なのです。

でも、人が救われるというのが、神様が私たちに求められる救いが、それだけなら、必要なのは医者じゃなくて、負い目を代わりに支払ってくれる連帯保証人がいればよいのです。犠牲がいればよいのです。

でもそんな救いのストーリーこそ、罪に病んでいます。イエス様は、私たちを今ここでも立ち上がらせる医者として「わたしに従いなさい」「わたしについて来なさい」と招くために来られた救い主だからです。

罪が病に譬えられる理由でもあります。罪は単なる個人の悪い行いではなくて、神様との関係が破れている状態、また破こうとする問題だからです。そして関係が病んでしまう。あるいは神様との関係、また人との関係をつくり育む愛が病んで、人のせいにして、逃げる、自分自分という自己愛が癌細胞のように増殖して、愛が病んでしまう。神様との愛の関係も、人との愛の関係も。

その破れた関係を癒し、罪から私たちの人生を救い出して、その名を愛と呼ばれる神の国のご支配に招き入れるために、三位一体の御子は、私たちに必要な医者として、人となられて来られたのです。

罪によって生活が病んでいない人、愛が病んでいない人がいるのでしょうか。神様から愛されることにも、人から愛されることにも病んでいて、神様を愛することも、人を愛することにも、人は病を抱えている。皆、必要としているのです。その罪の病を打ち砕きに来られた十字架の神様を。その愛と力を。罪の赦しと、罪からの癒しと解放を、レビも、私たちも必要としているのです。

なのにレビは座っていました。立ち上がってイエス様のもとに行こうとしませんでした。座って何を考えていたのでしょう。イエス様のもとに行く人々を見ながら。自分も行こうかと思わなかったでしょうか。

その点でレビは、ローマ帝国の手先として皆から嫌われている徴税人仲間であっても、ルカによる福音書に出てくるザーカイとは少し違っているのです。ザーカイはイエス様を一目見たくて木に登ったところを、イエス様に見つめられたのですけれど、レビは、あたかも自分はこれで生きるんだ、これが私だとでも言わんばかりに、収税所に座り続けた。

ただレビはイエス様から「わたしに従いなさい」と招かれて、立ち上がった、そして立ち上がっただけでなく、従ったのですから、古い自分に居座りながらも、何も考えてなかったのではないでしょう。従いたかったのかもしれません。自分も立ち上がりたかったのかもしれません。ないでしょうか。この罪と破れから立ち上がりたいと思うことが。でも自分だけの力では、立ち上がれんのです。今までと何も変わらない自分の罪の中に、座ったままなのです。

そのレビの前を、人々は、通り過ぎて行ったのでしょう。イエス様の話は聞きたいし見たいし癒されたいけど、このレビは、避けようと。

でもイエス様はレビを、擦り切れた自分の椅子に座ったままのレビを通り過ぎては行きませんでした。レビの真ん前に立ち止まってくれました。そしてレビを見たのです。見かけたと訳されましたが、じっと見つめられたのです。人として。その横を通り過ぎて行って決してよくない大切な人として。慈しみ深い目で見つめて下さった。

そして、こう言って下さった。

「わたしに従いなさい。」

それでレビは、一人では立ち上がることのできなかったレビは、立ち上がることができたのです。

立ち上がる。それは聖書では、イエス様が復活された、墓から、死者の中から立ち上がられたことを意味する言葉でもあります。

そしてイエス様に従う者たちも、同じように死んでも起き上がらせてもらうのですけど、それは単に、死後だけのことではないのです。聖書がイエス様によって立ち上がらせてもらう人々の立ち上がりを描く時には、その復活の立ち上がりを前もって描くように、言わば、復活の命にこの人は新しく立ち上がらせて頂くのだと預言するように、イエス様によって立ち上がる姿を、聖書はここでも描くのです。

そしてここに私たちの立ち上がりもある。ここに描かれているのは、レビ一人だけの立ち上がりではありません。先に弟子となったペトロたちがいるからというのでなく、イエス様がいるからというのでもない。15節はこう言うのです。「実に多くの人がいてイエスに従っていたのである。」そこにいたのは徴税人仲間と罪人たちです。皆招かれた人です。皆病に苦しみ、皆医者を必要としていて、その皆を立ち上がらせて下さったイエス様に、皆で従っていた。それが私たちです。

さあ行きましょう。イエス様が、わたしに従いなさいと、招いておられます。そのイエス様にお従いして、ついていく。そこに私たちの新しい年が開かれているのです。