マルコによる福音書2章1-12節、詩編103篇「人の常識を破る救い」

18/12/30歳晩主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書2章1-12節、詩編103篇

「人の常識を破る救い」

この、床に寝たまま屋根から吊り降ろされた人。仰向けに寝ておったとしたら、吊り降ろされている時に彼が見ておった景色は、大きな空と彼を吊り降ろしてくれている仲間たちの顔だったと思います。その仲間たちの顔は、どんなだったのでしょう。心配するな、もう一息やという微笑んだ顔でしょうか。あるいは大人を吊り降ろしているのですから、ちょっと力が入って、ゆっくり、ゆっくりぞと互いに踏ん張っている顔だったか。

それを見ていた病人の顔はどんな顔だったのでしょう。すまないという表情だったのか。それとも、もうすぐ、もうすぐイエス様が、触れてくれたら癒されるというドキドキした緊張の顔だったか。その時は未だイエス様の顔は見てなかったと思うのです。

彼の下からはきっと人々のざわざわした声が聞こえたでしょう。もしこの家が右ページの家と同じ、弟子のシモン・ペトロの家だったとしたら、ペトロが、おい、嘘やろ、おいおい勘弁してくれ、まだローンの支払いがあるに(笑)とか言っておったかもしれませんし、そのペトロを静かにイエス様が制しておったのかなとも思います。だって、人ン家の屋根を、おそらく勝手に壊して剥がして、床が吊り降ろされてくるもんですから、前代未聞の非常識なことだったと思うのです。

でもそうでもしないとイエス様のもとに行けなかった、そこまでしてでも、彼をイエス様のところに連れて行きたかった、彼らの切羽詰まった緊張感を胸に、床に寝たこの人は穴のあいた天井からの光と仲間たちの顔と、屋根から落ちてくる土埃と、ざわざわとした人々の声、そして見えない沢山の視線を感じながらどんどん下がっていく。その彼の視界の中に、ふっとのぞき込むようなお顔が見えた。この方がイエス様だ。すぐにわかったと思います。イエス様を見つめながら、床は更に降りてついに着地する。そこにイエス様もきっとしゃがまれたと思う。

そのイエス様の顔、どんな表情だったと皆さん思われるでしょうか。私は、すごい優しい顔で笑っておったと思います。だってイエス様は、この人たちは、人ン家の屋根を壊してでもイエス様のもとに連れて行きさえすればと、イエス様の力を信じただけじゃない、そのすべてを受け止めてくれると信じたから、こんな大胆で非常識なことをしたのです。きっとわかってくれる。だってもし、この方が神様のもとから来られた方なら、本当の救い主だったら、きっとすべてを受け止めてくださる、全部を大丈夫なようにしてくださると信じた、だって神様なんだったらって、信じてここまでした彼らの、イエス様に対する信頼を見て、笑うほど嬉しかったに違いないのです。ようわかっちゅうと。それが、人が救われるためになら、人々の罪を身代わりに引き受けて、犠牲になって死んだちかまん、それで彼らが罪赦されて救われるなら!と、私たちのもとに人となって来られた神様「人の子」のお姿だからです。

私はこの御言葉を読み返して、こういう体を張った信仰を、イエス様が私の内にも見て下さっていたことが、もしあったら、あの時は、そうだったのだろうか、どうだったのだろうかと思わされました。皆さんもあるんじゃないかと思います。イエス様を信じるが故に、体を張って、誰かのために無理なことを、いや無理じゃない、イエス様が何とかしてくださると、信じてなさったことが、あると思う。

人の目には、ひょっと、とんでもないことをしゆうと思われるようなことでも、イエス様は、そこに信仰を見て下さっていると信じることができるのは、本当に慰めであると思います。

また、そういう人の目には非常識に映るような信仰の行為を、一緒にしてくれる仲間がいるというのも、本当に慰められる。信仰告白にある聖徒の交わりを実感できるのも、そうした友の存在からでしょう。

先週クリスマスの喜びを多くの兄弟姉妹と分かち合えたのも、当然のことではなかったと感謝しています。教会によっては、高齢化もあって夜の礼拝に来れなくて、クリスマスイブ礼拝がなくなった教会もある。若いから来れるというのでもない。色々と都合を合わせて、教会の奉仕を担い、自分のことだけでなく求道の方々のことも思い、礼拝に集う。神様が用いて下さいますようにと、イエス様の前に出てくる。慣れないスイートポテトを焼いてもくる(笑)。人がその私たちをどう思おうと、批判されることがあっても、イエス様がきっと助けて下さるからと信じて教会に集う。その私たちと共に、イエス様がここにおられて、一緒に喜んでくださっている。神様を信じるって、一緒に信じるってことだと改めて、神我らと共にいますインマヌエルの喜びを覚えます。

先週はまた、四教会の合同祈祷会を南国教会で行い、そこでも信仰の恵みを受けました。祈祷課題の中に、瀬戸キリスト伝道所が新会堂取得に向けて急進展していること、また芸西伝道所も、新会堂牧師館建築のため、建築業者と話し合いをしていることを分かち合い、祈りました。どちらの伝道所も、教会員数・礼拝出席者数ともに一ケタの教会です。それで何千万円とかの事業を行うというのは、世の一般常識からしたら非常識なことをしているのだと思います。四人の仲間たちが屋根を壊したように、その後の責任は取れるのか、非常識だけじゃなく無責任なのではないかというような批判は、教会が会堂建築について祈り始めると教会内からも聞こえてくることが多い。もっともなことでもある。それでも、信じて、さあ神様に身を託そうとする時、改めてわかるのです。信じて洗礼を受けた時のように、そうだ、御子を下さった神様を信じるというのは、信じるだけではないし、信じて自分の常識に従うだけでも終わらないのだ、ということをです。

合同祈祷会で一緒に祈られたメンバーに、私が以前代務した高知中央教会の長老がおられて、こう祈っておられた。会堂建築を必要としている他の教会にも、決意が与えられますようにと。決意が与えられたら、後は進みますからと祈っておられた。高知中央教会が会堂建築をした時のことを私は元代務者として思い出しました。20年以上、決意できなくて借家のままだったからです。会堂を建てようという話は前からあったし、そのための積立もして、その時にやろうと思えば、こういう言い方は何ですが、常識で考えたらできたのです。が、教会員が減り、ついに一ケタになって、積立を崩して、牧師もおらんなって、常識で考えたら教会をやめようというところまで来た。で、どうしたか。非常識な牧師を呼ぶことになった。益先生ですが(笑)。つまり非常識にも自分を顧みず、かえって捧げて、さあ一緒に信じてイエス様のもとに行こうって、常識の屋根をヒッペリ剥がす益先生が、わかりましたと、決意して来てくださって、だから皆さんも決意して下さいと導かれて、教会員は決意した。そして非常識な会堂建築への道も、バリバリっと開かれた。そのことを自ら味わった信仰の奇跡として、その長老は祈られたのです。

常識で神様に従おうとしても従えないし、信じられないのです。世の常識、人の一般常識は、神様より人を気にして、自分のあれこれを気にして、人からどう思われるだろう、迷惑に思われないだろうか、そんなこと本当にしたら自分が大変になるんじゃないか等々、イエス様のもとに行きたい私たちの足を、はばむ人の思いが沢山ある。

御言葉では「群衆に阻まれて、イエス様のもとに連れて行くことができなかったので」とありますが、直訳は「群衆を通って」です。群衆が邪魔をしたわけではない。でも、もし道を開けてと言ったら、常識で考えたら無理やろとか、もうちょっと待ちやとか言ったかもしれません。群衆というのは匿名の他人の集合です。仲間ではない。常識も似たようなものでしょう。誰が言い出したか分からない、分からなくてもいい、だってそれが皆の考えだ、常識だ、皆がしているようにお前もするのが常識だろう。そして自分も群衆の一人になる。そのほうが自分を守れるかもしれません。仕方ないよと言い訳できる仲間を群衆に見出せるからです。皆やっているじゃないかと。

律法学者たちが心で思った、罪を赦すことができるのは神お一人だけだという思いも、言わば一般常識的な信仰の知識です。一般常識的なというのは、イエス様との信頼関係がなくっても、信頼する相手との関係が曖昧なままでも、知識として、神はこういうもので、私はそれを信じているから大丈夫だ、というものです。

でも、その常識的な神がどうやって罪を赦すと信じるのでしょうか。自分は正しいことをしているから、大丈夫、赦されると、自分を信じているからではないか。それなら、今朝の御言葉でイエス様が「人の子」と言われた救い主が十字架で全ての罪を償って死ぬため、人となる必要はないのです。そしてその人の子を信じる必要もない。神が赦してくれると漠然と信じて、自分はそれに価する正しい人間だと信じて、その神を信じている人が正しいから救われると証明しに来る救い主を信じる。その一般常識的な神や赦しや救いを信じる一般常識的な信仰に対して、イエス様は、屋根を壊してでもイエス様のもとに来る必要があるのだと信じた五人の信仰をご覧になって、これが救い主を信じる信仰だと御業をもって証明なさったのです。わたしが、その罪を赦す神自身、すべての人の罪を身代わりに背負って死ぬために、人の子として生まれてきた永遠の子なる神であって、その救い主を信じる信仰を、あなたたちにも知ってもらいたいと、主は御言葉によって、この人を癒されたのです。人には非常識に思われようとも、イエス様は全て受け止めて下さると、自分の正しさや人の正しさでは救われない、救って下さる方はイエス様だと信じて、イエス様目がけて落ちて行くように自らを託した者たちをイエス様は、がっちり受け止めて救われる神様だからです。

私たちも、そうやってイエス様信じて、イエス様目がけて身を託せばいい。その信仰をはばむ、壊さないかんものは壊してでも、イエス様に託せばいい。さきの会堂建築と同じで、まだ大丈夫と思いゆう内は自分の常識を信じゆうのかもしれません。でも本当は大丈夫じゃない罪を、イエス様が背負って赦して下さるから、そのために人となられた非常識な神様だから、その神様のもとに一緒に飛び込んでいけばよいのです。