マルコによる福音書1章40-45節、エレミヤ書17章14節「人の思いと神様の愛」

18/12/16待降節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書1章40-45節、エレミヤ書17章14節

「人の思いと神様の愛」

教会員には既に伝えておりましたが、週報にも載せてあります通り、私たちの教会の家族である森田光子姉妹が先週の木曜日、天に召されました。ご家族から知らされたのですが、姉妹はその前週に骨折で入院され手術をされました。けれど、その経過が思わしくなく、私たちの思いからすると、本当に突然に天に召されました。今は憐れみ深い主の御懐にて、その霊が永遠の安らぎを与えられ、また体の復活を待っておられる、そのことを思うと、慰めを与えられる反面、やはり余りにも突然な別れに言葉を失ってしまう思いがあります。

今日の午後2時から、まだ日は高いのですけれど前夜式を執り行い、明日の正午過ぎ、午後0時半から葬儀式を、ここで執り行います。そのわけで、今日は朝と夕の礼拝を、森田さんがいつも礼拝の時に座っておられた席よりは、少し前になりましたが、復活を待っている姉妹のお体と共に、その復活の希望を私たちに与えて下さった主に向かって、共に礼拝を捧げます。

姉妹が召されてすぐ、ご家族と、また葬儀社の方と葬儀の打ち合わせをしました時に、清めの塩はどうしますかと尋ねられました。日本では死が宗教的穢れとして理解されるため、その穢れから身を清めるために塩を用いる風習があるからです。

けれど、ご存じの方が多いと思いますが、教会の葬儀で塩は用いません。キリストが私たちの死に打ち勝つために、私たちの死を死んで、その死に打ち勝って復活なさって以来、死はもはや穢れたものではなくなったからです。神様がキリストによって与えて下さった復活の希望のもとで、やがて死そのものが死んでなくなってしまうほどに、死はその牙を抜かれ、力を失って、聖書はそれを眠りと呼ぶのです。

復活の主キリストご自身が、こう約束して下さったからです。わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。あなたはこれを信じるかと。

その復活の光のもとで、私たちは森田姉妹のお体、主の復活の栄光にあずかる約束に保証されたお体と共に、姉妹と私たちの救い主である、主キリストに向かって、信じて、礼拝を捧げます。

先に読みました御言葉でも、イエス様は、当時、宗教的な汚れとして触わると自分も汚れてしまうとされていた病の人の体に、その手を差し伸べて、触れて下さいました。きっとその手のぬくもりを感じるほどにピタッと触れて、わたしは、もちろん、あなたが清くなることを望んでいると、その人の心の奥底にまで届くほど深い愛の眼差しで、あなたはもう汚れてない、他でもない、わたしが望むから、あなたは清くなる、わたしの前に、汚れたままでいていい人など、一人もいないと、その人の汚れを全部吸い取って十字架で負われる救い主として、優しい手で、深い眼差しで、清くなれと、言われたのです。

先週の御言葉でも、イエス様は、高熱でうなされるしゅうとめの手を取って、起こして下さいました。

イエス様から、手を伸ばして下さる。救いの手が、神様のほうから、私たちに向かって差し伸べられて救って下さる。それが神様なのだと、御言葉は、私たちにも差し伸べられているキリストの手を、信仰の目をもって見てごらんなさいと、うながしています。

この病を患っていた人は、そのイエス様の手が、すっと自分に向かって伸びてきた時、何と思ったろうかと思います。

びくっとしたんじゃないでしょうか。この方が救い主なら、私を癒す力はあるんだと、あなたは清くすることがおできになりますと信じてはいたのです。でも、もっと違うやり方で、まさか汚れた私に直接触れてなんてことは思いもしなかったんじゃないでしょうか。

え、触るのか?恐くないのか?と。だって、みんな恐がったのです。おそらく、この病にかかる前は、自分でも、その病を患う方に触るってことは思いもしなかったんじゃないか。それだけ感染が恐れられていた病でもあったからです。旧約の律法にも、この病を患った人は、他の人への感染を避けるために、皆が住んでいる住宅地から離れたところに、自らを隔離して住まなければならないと規定されていたほどです。

いつからこの病を患っていたかわかりませんが、人に接触することは避けておられたでしょうし、また人からも避けられる。その辛さ、心の痛みと寂しさを思う。この病でなくても、今の時代でも、人から避けられる苦しみに心を寄せて、これでどうやってこの人は生きられたのか、いや生きていけないから、イエス様のもとに来たんじゃないかと考えたら、お腹にぎゅっと苦しみを覚えるんじゃないでしょうか。

その苦しみの中にあった人が、家族あるいは彼を助けてくれていた人から聴いたのでしょうか。キリストの話を聴いたのです。イエスという方が大勢の病を癒された、あるいは汚れた霊を追い出したと。救い主だと言っている人もいると聴いて、さて、この人が、すぐに信じたのか、時間がかかったかはわかりませんが、大事なことは、この人がイエス様のもとに来たこと。そして、こう言ったことです。

「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。

御心なら。祈りの言葉です。私たちも祈ったこと、あるんじゃないでしょうか。御心なら、このことがなりますように。御心なら、この病が癒されますように。御心なら。直訳すると、あなたのご意志なら、求めであるなら、神様、あなたが望んでおられるのなら。御心ならと祈る。皆さんも、祈ったことがあると思います。

この人も、ずっと祈っていたと思います。

そうやって祈っていたこの人のもとに、誰かがイエス様のことを伝えに来た。その話を聴いた時、ドキっとしたんじゃないか。これは、神様が私の祈りに、ついに答えて下さった徴なのではないかと。

そしてまた祈って…だって人から避けられていたこの人がイエス様がおられるところに来るというのは大変な事です。初めて教会に来る人が行こうかどうしようかと悩むように、悩んだと思います。でも行かな!だって、ここにおったってずっと同じままじゃないか、行くのは神様の御心だと信じると一大決心をして、それでイエス様の前へと進み来て、ひざまずいたのです。

皆さんはひざまずいたこと、ありますか。これは、懇願の姿勢です。お願いしますとひざまずいて願うのですけど、先に言いましたように、これは祈りの懇願です。だから、ひざまずいて、祈りの言葉をもって、御心でしたら、と願うのです。

私たちもまた神様に礼拝を捧げる時、ベンチに座ってはいても、心の中ではひざまずいて祈る。単に謙遜だとか、熱心にというのではなく、それが神様に対する姿勢だからです。天地を造られ、また私たちを神の形に造られ、命の息を与えられた造り主であり、またそれゆえに正しい裁き主でもあられる、神様の御心を求めて祈る時、やはりこれが祈りの姿勢になるのだと思います。

先にも主の祈りで祈ったように、御心の天になる如く、地にもなさせたまえと、私たちはイエス様から教わった、御心を求める祈りを祈る。御心の天になる如くと。それは、天の神様の御前においては、天使たちが皆、神様の御心、つまり神様が求められ、望まれ、ご意志されていることを、皆、天使たちは、はいと平和の内に行っているからです。でも罪に汚れたこの地では、人は、他の人の言うことを聴かん以上に、自らの造り主の言われることを聴かない。聴いていても、聴かない。自分の思いや願い、自分の意志は貫きたい。でも神様の意志、求め、御心は、自分と何の関係があるのかと、この地では、御心が拒まれる。そのことを誰よりも神様ご自身がご存じで、イエス様は、だからこう祈りなさいとおっしゃるのです。

でもイエス様は、なんだ、できてないじゃないか、やれやと、不満顔で上からモノを言って自分の思いを押し付ける人間のように言われたのではない。そんなにも自分の思いばかりで罪に溺れる私たちの救い主として、その罪深い人間を救うために人となられた神様として、御心はなされるから、祈りなさいと言われたのです。この罪深い地に、神様ご自身の命を注いで、罪の汚れと呪いから人々を救い出すから、十字架の血がすべてを清めるから、この地に救いをもたらす神の御心はなされる。罪人を救うことこそが御心だから、この地に、御心を成して下さいと、信じて祈りなさいとおっしゃったのです。

そのイエス様が、手を伸ばされて、優しく触れてくださったのです。深く憐れんで。直訳すると、はらわたが苦しんで、という言葉、聖書がイエス様の救いの心を現わす時に用いる言葉です。人となられた神様がなしうる体と心の最も深いところから湧き上がる愛で、その人の悲しみを思うと苦しくなるほど、その人と一つとなられる救い主の、思いと心の最も深い所から、愛が溢れて、思いが溢れて、イエス様の手は、その愛を溢れさせながら、伸びて行って言われた。直訳すると、イエス様はこうおっしゃったのです。

わたしは望む。清くなれ。

御心ならと言うのか。そうだ、それがわたしの心、わたしのあなたへの思いだ。清くなれ。救われよ。あなたを清め、救うために、わたしは来た、これが御心だと、十字架の主は、その御手で触れてくださって、言われるのです。そこに、御心がなるのです。

ただ、信じて洗礼を受けた者もそうですが、この人も、イエス様から言われたことを聴かないで、言いたいという自分の思いをなしてしまいます。それでイエス様の伝道の言わば妨げになってしまうのも、私たちと同じなのかもしれません。

それでも、です。御心はなされていくのです。私たちのために御子を差し出し十字架で償いを成し遂げられた方は、人の思いも罪も弱さも、すべてを超えて包み込んで救う深い憐れみによって、私たちを救う御心をお持ちだからです。この方に、私たちもひざまずき祈るのです。