マルコによる福音書1章29-39節、イザヤ書53章4-5節「深い憐れみと確かな救い」

18/12/9待降節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書1章29-39節、イザヤ書53章4-5節

「深い憐れみと確かな救い」

何がきっかけになるか、わかりません。しゅうとめの熱がきっかけで町中の人がイエス様のところに来たのです。

今のシーズンも急に冷えこんで、熱が出ることもあるかと思います。熱が出るのは決して望ましいことではありません。でもそこで、聖書が約束する通り、万事を共に働かせて益として下さる神様を信じることができるのは幸いです。ひょっとこのしゅうとめさんも、このことから、イエス様を信じたのかもしれんのです。

しゅうとめが家で一緒に暮らしているという状況は、夫に先立たれ、やもめになったからでしょうか。お母さんも一緒に暮らしましょうと、シモン・ペトロから言ったのか。あなた、お願いと妻に頼まれたのか。いずれにせよ住み慣れた自分の家を出て、娘の夫の家で暮らしている。どんな気持ちだったでしょう。

癒された後で町中の人が戸口に集まったところを見ると、大勢が中に入れるほど広くない、小さな家の持ち主が、イエス様の弟子となって、伝道の旅に出ると最近言い出した。しゅうとめは当然その時、この方はきっと約束の救い主だと聴いていたでしょうけど、え、でも、そしたら私たちの生活は?と思ったかもしれません。家に置いてくれたのはありがたいけど、娘ともども置いて出て行くのかと、イエス様が誰かは分からんけど、そんなことをする人なのかと、不安で熱が出たのか?

どういう熱だったか、どんな気持ちだったかは記されてないのでわかりませんが、別の福音書記者ルカによると高い熱だったと記されます。イエス様が家を訪れた時、人々が熱のことを告げたと言われますから、家族以外の近所の人や親戚などが来ておったのか、それだけ危ない状態だったのかもしれません。

これも、ルカによると、イエス様はしゅうとめの枕元で熱を叱ったと記されますが、このマルコは叱る場面を省いています。何故でしょう。

伝承によると、マルコはシモン・ペトロとしばらく伝道の働きを一緒にしておって、その時にペトロから聴いた話をもとにして、この福音書を記したようです。ペトロは自分のしゅうとめが癒されたのを目の前で見ていますから、おそらくここには、そこでペトロの心に深く残った、イエス様による癒しの風景が記されているのだと思います。

イエス様は、しゅうとめのそばに行き、その手を取って起こされた。熱を叱ったことよりも、イエス様が高熱に苦しんで寝ているしゅうとめのところに行って、そのすぐ隣にしゃがまれて、高熱で熱くなっているしゅうとめの手元にご自身の手を伸ばされて、ギュって、しゅうとめの手を取ってくださった。それがペトロの心には染み込んだのです。

私も病院にお見舞いに行く時、特に意識がない時や、あるかどうか分からない時、また本当につらそうな時、手を取って祈ります。イエス様が手を取って癒して下さいますようにと、私自身イエス様の手にすがるようにして、イエス様が触れて下さることを求めて祈ります。

一度、数日間意識のなかった姉妹の手を取って祈った時、起き上がりはしなかったけど、目を覚まされたことがありました。後で話を聴いたら、広い河のようなところを渡ろうとしておったら、ギュッと手を掴まれて、引き戻された。それから目を覚ましたのだけど、けんど、その手は…と私の手を握りながら、もっとゴツゴツして毛が生えちょった(笑)。それ入院直後に来られた鈴木先生の手です(笑)と笑いましたが、鈴木先生もまた手を取って祈っておられました。

私たちもそうやって祈ればよいのです。イエス様がこの手を用いて、手を取って癒し起こして下さいますようにと。無論、無理に起こしたらいけません。起こすのはイエス様にお任せします。イエス様だけが起こして下さるからです。

もし病床から起き上がることができなくても、起こして下さる方は、その名を復活であり命だと教えて下さった方です。「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」信じるかと、私たちの復活の命そのものとなられたイエス様が、人を起こして下さるのです。そのイエス様の名によって、信じて、手を取って祈るのです。

そしてイエス様はシモンのしゅうとめを起こされました。起こされたしゅうとめは、先にイエス様に対して、娘の夫を取っていった人と思っていたか、どう思うておったかはわかりませんが、そのイエス様に手を取って起こされて、あれ?熱がない!朦朧としちょって、ようわからんかったけど、この方がイエス様?いやそうに違いない。この方がシモンとアンデレが約束の救い主だと信じた人に違いない。いや、この方こそ本当に約束の救い主に違いないと、もう嬉しくなって喜んで、イエス様はもちろん、そこにいた全員に、おもてなしをしたんだと思うのです。

そして、その喜びは、その家だけでは終わりませんでした。その日は安息日でしたのでユダヤの戒律で働いちゃいかん。人を運ぶのも働きに入ると戒められていて、ユダヤの数え方で一日が終わる日没後、つまり安息日が過ぎてから、担架やロバで運んで連れてくるしかない病人たちを人々はあらゆる手段でイエス様のもとに連れてきたのです。

しゅうとめが癒された時におった人々が、他に病人がいる家の人々に伝えたのでしょうか。そりゃ伝えると思います。特に知っている人の家に病で苦しんでいる人がいたら、伝えないはずがないでしょう。教会が伝える、伝道するのと同じです。仕事や宗教的ノルマでやっているのではありません。イエス様が救って下さることを自分のこととして知っているから、喜びと共に味わったから、伝えるのです。また、どうしてもこの人に救われて欲しいから伝える。それ以外ではない。イエス様のことを伝えた人々も、知っているあの人、病で苦しんでいるその人や家族に、癒されて欲しいから伝えた。それ以外ではないでしょう。

ただ、今朝の御言葉でイエス様が強調なさるのは、癒されてほしいという憐れみを超える憐れみです。イエス様が来られたのは、言い換えれば、あの最初のクリスマスの夜に、神様が人として生まれて来られて、天の父のもとにある神の御座から出て来られたのは、人々に救いを伝えるためでした。それが15節の御言葉でした。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。そのための癒しでもあるのです。死ぬな、生きよと、十字架で神様ご自身が罪を償い、罪の裁きと死から救い出して下さる。その時がここに来たのだと、あなたも、あなたも、あなたも、皆、誰でも、わたしのもとに来て、あなたの罪の赦しと復活の救いを受けなさいと、人々が福音を聴いて、信じて、救われること。そのためにわたしは来たとイエス様は改めて強調なさいました。

癒しがメインじゃない。言わずもがなだと思いますが、一方で、日本では宗教と言ったら、ご利益宗教のイメージが強いのは何故でしょう。癒しのためには神を求めても、罪を悔い改めて福音を信じてほしい神様には距離を感じる。でもそれは皆そうだから、強調するのでしょう。

前にも言ったと思いますが、私は25年前、手をかざして祈っていいですかと、ある宗教の方に声を掛けられて、本当に血が綺麗になったんですと言われました。笑顔で良かったですねと答えながら、私はキリストを信じているんですが、罪は清められますか?と問いましたら、困った顔をされました。イエス様はご自分の血によって罪を清めて下さって、私は罪の裁きから救われたのです。同じようにあなたもイエス様を信じることができますようにと私も祈っていいですか。そしたら手かざしていいですよと言ったら、結構ですと去って行かれました。

私たちは、先月の幼児祝福礼拝の時、手をかざすんじゃなくて、幼子の上に手を置いて、十字架の神様の祝福を祈りました。教会でも、と言うか、こっちが元祖なのかな?と思いますが、聖書で教える祝福の祈りは、イエス様がそうされたように、手を置いて祈るのです。

礼拝の終わりの祝祷で手を会衆に向けて祈る形もあります。ちなみに私は、天から祝福を注いで下さいと、天を仰ぐ形で上げますが、二つの形があると教わりました。鈴木先生は手のひらを皆さんに向ける形でしたが、別にビームみたいのが出るわけではなくて(笑)、幼児祝福同様、手を置いて祈るイメージを浮かべたら良いと思います。イエス様が手を置いて祝福されたからです。牧師が手のひらをどっちに向けようとも、そこでイエス様が私たちに手を伸ばして、その手を置いて祝福して下さいます。その祝福を求めて、頭を垂れたらよいのです。

先にイエス様が、しゅうとめの手を取って起こされたから、私たちも癒されてほしい人の手を取って祈ると言いました。そこでイエス様が手を取って、癒し起こして下さいますようにと祈るように、私たちが癒しを求めて祈る時も、また、祝福を求めて祈る時も、そこではイエス様の手を求めているのです。御業をそこでなさるのは、イエス様の手だからです。その手は十字架で、私たちのために釘を打たれた、イエス様の手です。十字架で、私たちの罪を一身に引き受けて、釘打たれたイエス様の手が、私たちが救われるためどうしても必要な罪の赦しを、ご自分の命をもって与えて下さる。その救い主の手が、今日も差し出されているのです。

このイエス様の手を、改めてぎゅっと握ってほしいのです。

まだ握ったことのない方は、どうぞ信じて握ってください。イエス様が差し伸べてくださっている十字架の救いの手を、イエス様への信仰のうちに握ってください。その手をイエス様は決して離さないで、永遠の喜びに入れてくださいます。

このクリスマス、この永遠の光に照らされて、私たちもまたイエス様の奇跡を見た証人として、主のもとに、人々をお連れしましょう。主がその愛する者たちの手を取って、共に起こして下さるからです。