マルコによる福音書1章21-28節、イザヤ書17章12-14節「教えを超える神の言葉」

18/12/2待降節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書1章21-28節、イザヤ書17章12-14節

「教えを超える神の言葉」

権威ある教え。しかも汚れた霊さえ、命じると言うことを聞くほどの権威です。それは確かにイエス様が、神様として、神の言葉を語られたということなのですが、私たち、イエス様の弟子たちもまた、御言葉をイエス様から委ねられているのですから、他人事ではありません。

このことについて私の心に刻まれていることがあります。明治時代、日本のプロテスタント教会の黎明期に、今の富士見町教会を創立された植村正久という伝道者がおります。余談を言えば当時の高知教会の長老で衆議院議長を務めた片岡健吉とも深い交わりのあった伝道者ですが、この方は、既にこの時代に、教会が神の言葉を語ることについて、教会の内部に危機があると、こんなことを言うております。最近の伝道者は聖書や神学を見事に説明するが、それは医者が病人の傍らで病理解剖の講釈だけしているのと同じだと言うのです。想像されたら良いのです。医者が病人の傍らで病理解剖の講釈だけしている姿。何の意味があるのか。それは人を生かすことができない。単なる説明だけして、後は自分で手術しなさいという自己責任にしているとも言えるでしょう。説教者の襟を正す言葉です。

いま読みました御言葉で言及される当時の律法学者も同じことをしておった。しかも皆がそういう教えばっかりしておったから、礼拝での話というのは、こういうもんだろうと皆思っておったのかもしれません。私たちも、とても他人事にはできない話です。

でも神様の言葉は、単なる人生についての教えとか、こうしたら天国に行けるという説明書ではないのですから、説明を正しくすればよいという話ではない。

こう言えば良いでしょうか。神様の語られる言葉には目的があって、その目的に向かって引っ張っていくのが神の言葉なのだと。

権威とはそういうことでしょう。聖書の権威や教会の権威も含めて、神様由来の権威には、人々を共通の目的に導く目的がある。反面教師的に日本でありがちな教育を考えてもわかりよいかもしれませんが、何の目的があるのか分かち合うことをしないで、これはこういうことだからと上から押し付ける。それは権威じゃなく暴力でしょう。

権威には、共に生きるための、そして相手を生かすための正義を貫く目的があって、じゃあ共に生きるためどうすればよいか、何が求められるか、その目的に向かって一緒に進んで行けるよう、導く力がある。

その目的に向かうため、何かが変わらなければならないなら、それを説明するだけで指一本動かさないのではない。説明はしますが、そこに自らも一緒に関わって、これが、神様が生きて働いておられると信じる姿だから、さあ、あなたも信じてついてきなさいと説得するのです。

この説明と説得との違いの急所を一言で言えば、相手との関係です。

御言葉の24節で汚れた霊は言うのです。「かまわないでくれ」。わかりやすい翻訳だとも思いますが、原文を直訳すると「あなたと私に、何の関係があるのか」。あなたに関われたくない。自分にかまわないでくれ。自分のしたいことに関わって来るな。自分に説得しようとする人に対して湧き上がる気持ち、よくわかると思います。説得するな。かまうな。説明だけサラッと、あるいは面白く、でも説明だけ。

また説明だけする側も、相手が生きている場所に身を置くことが面倒で、相手の外から、距離をとって、近づかないで、家族や友人との大切な話でも、仕事のように説明をして終わりたい。あるいは、わかったら俺の言う通りに動けと、モノ扱いする。それが単なる説明であり、相手に押し付ける暴力です。

そこに、イエス様が持って来て下さった神の国が近づくでしょうか。そこにあるのは近さではなく、むしろ罪の溝です。イエス様は、その溝を埋めに来られた。そこに神の国は近づいたのです。

説得また真実の権威は、相手が生きているところに身を置きますが、無論、暴力的に土足でというのではない。そこに身を置くために、私は変わってよいと、相手の場所に立って、その人の気持ちになって、その人の考えの筋道を追うからこそ、でもその道は、罪と滅びの道だからと神様の道を相手に説得できる。それがイエス様の教えです。

神様は、私たちのためになら、変わるのです。人になられるのです。しかも私たちの罪と裁きを身代わりに背負って、私たちが行きたくないけど行かなければならない場所で、裁きの場所で、十字架で身代わりに死ぬことさえ、あなたのためなら厭わないと、そのためにクリスマスに人となられた神様は言われるのです。

馬小屋に生まれた方は、汚れた霊が言った神の聖者どころじゃない。神様ご自身です。世界を造られた神様が、その世界を、神様とも人との関係をも、罪で汚した私たちのところに、神様が来られたのです。

昨日、十市クリスマスコンサートを行った後で、次は、ご当地ソングも歌ったら、特に年配の方は喜びますよ、高知なら南国土佐を後にしてですかねという話になりました。どう歌うかなと言われるので、私が、じゃあ替え歌にして、天国の御座を後にしてと歌ったらと提案したら、すごいスルーされました(笑)。ま、正しい選択だと思います(笑)。

でも、それがイエス様なのです。私たちのためなら、天国の神の御座を後にして、十字架で死んでもかまわないと、そこまで私たちをかまわれるのです。あなたのほうが大事だと。神様は私たちをかまわれる。

汚れた霊に取りつかれた人自身、もしかしたら神様とも、また人とも関係を持ちたくなかったのでしょうか。でも、もしそうだったとしても最初からそうだったとは思いません。だって人は皆、最初の人アダムの時から、神の形に造られていて、つまり神様との愛の関係の中に本来は生きているのが私たちなのです。人は自分が誰であるかを、神様との関係から知っていたのです。神様がいなかったら生まれてはないし、それ以外の自分が誰であるかの説明も、なら、嘘なのです。人にも自分にも嘘をついて、嘘の説明をして、自分が権威になって、愛するも愛されるも自分が選ぶとうそぶいて、神の形も命も汚す、その私たちのもとに、神様は命を捨てて、説得に来られた。関わりに来られたのです。

だから、そのイエス様の弟子である教会も、イエス様の説明だけするのでなく、イエス様がその人に向き合うように、相手に向き合うことでイエス様の紹介、神の言葉を紹介するのです。その人の人格に向き合うことで。言い換えれば、その人の内に隠されてある神の形に向かって、神様に愛されている人に向かって、イエス様が十字架でその人のために命を捨てて下さった人として向き合って、話をし、話を聴く。

そこにイエス様の権威が働きます。説教じゃなくても。そこに神の国は近づいているからです。口下手でいいです。愛し下手でもいいです。無視だけはしない。神様は私たちの誰一人、無視しておられないから。誰一人、十字架で背負われてない人はいないからです。

いまも神様は向き合っておられます。神様との関係を失い、汚して、わからなくなって迷い出た羊たちを、探し求めて、説得して、十字架で真実に現わされた、神様の愛と正義の権威をもって、主は言われます。あなたはわたしの愛する者。信じなさい、わたしはあなたに真実に関わる。あなたもわたしに真実に関わりなさい。わたしは主、あなたの神、あなたを罪の国、奴隷の家から導き出した神である、と。

この十字架の権威に照らされて、私たちはすべての人を見るのです。そしてその人の主となられた、キリストの御言葉を宣べ伝えるのです。