マルコによる福音書1章16-20節、イザヤ書40章9-11節「世界を変える担い手たち」

18/11/25主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書1章16-20節、イザヤ書40章9-11節

「世界を変える担い手たち」

イエス様から、わたしについて来なさいと招かれると、すぐについて行った弟子たちの顔。どんな顔だったでしょう。たぶん洗礼受けたてのあの喜んだ顔。少し緊張もある。でも嬉しそうに礼拝に来ている方々の顔をしておったんじゃないかなと思います。

ただ、今読んだとこだけで判断すると、え、いきなり呼ばれて、ついていく?危なくない?と思うのは、まあ宗教のイメージが悪い日本では当然だとも思います。が、ここでイエス様が弟子たちを招かれたのも、急にどこかの馬の骨が現れて、ついて来い、そんな乱暴な話ではない。ここに至るいきさつはヨハネによる福音書に記されていますので、後でぜひお読みいただいたらと思います。

少しだけそのいきさつを紹介すると、この弟子になった四人の内の、アンデレとヨハネ。両方とも弟たちですが、この弟たちが神様の救いにうんと関心があったことが記されています。かたや、シモンとヤコブ、つまり兄貴たちは、家を継がないかんからでしょう。神様の救いに関心はあったようですが、わかりやすい表現で言えば、出家するほどに深く関わろうとすることには、どっかで心のブレーキを踏んでいた。

私たちもないでしょうか。神様も救いも悪うはないけど、ここまでは関わったらいかん、という心のブレーキを踏んでいるところ。

私もありました。自分で自分を守ろうとする心のブレーキ。でも自分は自分を守れも救いもできんと思って、イエス様にドアを開けて、前に進んだんです。また、いま牧師やっていますけど、牧師になることにはブレーキがありました。俳優になりたかったんです。それが、どうして牧師になったかというと、もうイエス様から、幸生、あなたは牧師として、わたしについてきなさい、と言われたからとしか言いようがない。この兄貴たちも、うん、そうだなと言うんじゃないでしょうか。

ブレーキ踏む人も踏まん人も、皆、招かれているのです。救い主に。でもこの招きって、牧師になるということではない。牧師が教会の代表であるように、ここでは四人の使徒たちが代表とされて、弟子たちは、皆先ず、主に招かれて弟子になるということを現わしているのです。

人となられた神様は、単に人を救う、というのじゃないのです。救いの主は人々を弟子として招かれる。弟子。救い主の弟子。何をするんでしょう?人を救いに招くのです。そのことをイエス様は大変ユーモラスに、こう言われました。

「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」

何となくイメージはつかめると思います。私は改めてここを読んで、ん?と思いました。人間をとる。ひらがな!漢字で書かない。確かに、取得するの取るだと、モノ扱いみたいですし、捕り物の捕るだと、捕縛され捕まっているようなイメージがある。獲物を獲るも、いかにも胡散臭いご利益宗教が獲物にしているようなイメージがあるので、う~んと唸って、ひらがなにしたのかもしれません。もとのギリシャ語で書かれてある原文を見たら「あなたがたを人の漁師にする」という言葉です。とるという言葉がそもそも原文にはないので、まあいいか、ひらがなでということだったのかもしれません。

ただいずれにせよ、イエス様がおっしゃっている意味は明らかです。彼らが宣教を行うことによって、または歴史の教科書で教えられる言葉で言えば、彼らが布教することによって、人が神様によって救われて、神様のもとに行くようになるのです。

救われるというイメージも色々あると思いますが、うんと分かりやすく言うと、天国に入るようになる。それを今朝の御言葉のすぐ前15節は「神の国は近づいた」と表現しました。つまり天国は神様の国だから、国主、国王がおられる。その国王が、あなたを招いておられるのです。わたしについて来なさい。あなたも神の国の国民になりなさいと。

その招きを受け入れて、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネ、そしてそこから連綿と私たちにまで続く数えきれない人々が、同じように主の招きに応え、その天国の国民となり、救い主の弟子となりました。

そして救い主の弟子として、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じましょうと宣教してきた。つまり、神様が私たちの罪を十字架で全部引き受けて償って下さったから、その救いの神様を信頼して、その救いのもとに身を置いて洗礼を受けましょう。そのあなたの全てを主は受け入れて、天国に入れて下さいますからと、伝えたのです。それもただ、口だけじゃなくて、ライフスタイルを通して伝えた。なるほど、十字架の神様に救われるというのは、ご利益とかじゃなくて、こういうところに見えてくるがやねという信仰生活を、主の弟子たちは生きた。それは主の弟子として生き損ねてしまうような、罪の現実をも証明する歩みを含むのです。そしてそこでも招かれた弟子として用いられて、そうか、私もああやって救われたらえいがやと、イエス様に背負われている救いの現実を証して、そこでも弟子として生かされるのです。

私、ホントいっつも言うておりますが、イエス様に救われて、えらい楽になりました。一つには自分の行き先について、もう悩まなくて済むようになった。また自分の人生を自分が自分の力で自分の責任で自分でやらないかんという重荷から解放された。その頃、同世代のキリスト者の友人と、しょっちゅう言い合ってました。ホント楽やねゃあと。受験が永遠に終わった解放感みたいな(笑)。今も同じです。無論、社会的な責任は増えました。夫の重荷、父の重荷、牧師の重荷とか、重荷は増えたんですが、若い時に縛られておった自分のこだわりとかプライドから自由になって、その点はもうホント楽です。譬えたら、イエス様から、わたしについてきなさいと招かれて、はいとお従いしていったら、それまで洗濯板で洗濯石鹸こすりつけて自分で洗わな!と縛られた人生が、神様から全自動洗濯機もろうて、うわ、楽!という嬉しさがある。

何故、十字架で救われた弟子たち、十字架を教会の頭上に掲げて歩む者たちは、宣教をするのか。この救いの喜びを知っているからです。

私たちが救い主の弟子として宣教する。あるいは伝道する、道を伝えるとも言いますが、それは要するに、イエス様に全部背負われた自分の生き方、天国の国民としての生き方を見てもらうことです。そして年に何回か、例えば今日のリース教室とか、クリスマス礼拝、イブ礼拝に、一緒に行きましょうよと、年に何回か案内を渡す。後は365日、ずっと天国の国民としての私、イエス様に背負われている私を、見てもらう。ま、だから祈るしかないですけど(笑)。助けて下さい!って。

どうせ皆見ています(笑)。立派なふりなんかしても、どうせバレる。特に家族に。無論だからって敢えて人に隠している罪をひけらかすことはしなくていい。その罪は、十字架のイエス様の前に悔い改めて、後は自然体に、イエス様に背負われた天国民として生きれば良いのです。

背負われた自然体というのは、皆やっていることだからと、罪を開き直るのではありません。また赦されているんだからと開き直るのでもなくて、例えばもし誰かから、お前クリスチャンのくせにと言われたら、だからイエス様がいるがよと、涙目で答えればよいのです。そしたら、ひょっと相手も、私もいるかもと思うかもしれません。いらん人なんておらんのです。知らんだけです。誰だって最初は知らんかったのです。だから救われた者たちは、弟子として遣わされるのです。赦され、背負われた喜びを知る者として。知っているから、知らせることができる。それが福音の良き知らせです。

世界は変わることを望んでいます。また私たちも世界の変わることを望んでいる。でも何も変わらない。変わったと思ったら歴史は繰返す。罪の姿。欲望の姿。この国も何も変わらない。でも、この国も、世界も、どっか自分の関わらなくて済むところで変わるのではないのです。世界は、ここから変わるからです。自分から変わるとも言えますが、それはこの自分が本当の自分として、神様の子供として生まれ変わって永遠に生きるために、その当の神様ご自身が、あなたのためなら、わたしが、その罪を背負って、全部何もかも背負って、変わり果てた姿になって、死んで全てを受け止めるからと、神様があのクリスマスに人となって、私たちのところに、この命の只中に、問題の只中に、神様が、今ここに今日も来てくださって、神の国は近づいた、さあ、来なさいと、無償で私たちを招いて下さっているから、だから私たちは、この神様について行って、本当に生まれ変わらせていただけるのです。

そして、そのために私たちを神様は用いられます。十字架の主の弟子として。その愛を、その真実を知る者として。

そのことをイエス様は「わたしについて来なさい。人をとる漁師にしよう」と言われたのです。でもそこで実際に人をとるのは、こう言えばよいでしょうか。それは弟子たちじゃなくて網なのだと。そしてその網は、十字架の形をしている、十字架のイエス様なのだと。

私たちはイエス様を伝えながら、網を投げるのです。そして、そこで言わば人々の魂の底にブクブクと沈んで行くのは、十字架で私たちの罪と死を背負われて死んで陰府へと沈まれたイエス様です。そのイエス様が、魂の奥底で、罪と死と裁きに捕えられている私たちのもとに来てくださって、わたしがあなたを救うから、わたしを信じてつかまってと、十字架で全てを受けとめて下さった恵みの両手を差しのべてくださっている。そのイエス様につかまって、人は救われるのです。

イエス様につかまる。嵐の中で沈みそうな舟の、マストにつかまって救われるイメージでもあります。私たちもまたマストにつかまるようにしてイエス様につかまるのです。でも、その私たちの柱に捕まる腕力や握力で救われるのではない。救われるのは、その私たちを、どんなことがあっても、決して振り落としたり振り放したりはしない、どんなことがあっても、わたしは絶対にあなたを離さないと、イエス様が私たちをギュッとつかまえて下さっているから、人はイエス様につかまって救われるのです。この神様に一緒につかまって、共に救われ、共に愛されて歩みましょうって、この舟は、そうやって進んでいくのです。