マルコによる福音書1章14-15節、イザヤ書29章17-24節「ここから世界は変わる」

18/11/18主日朝礼拝説教@高知東教会

マルコによる福音書1章14-15節、イザヤ書29章17-24節

「ここから世界は変わる」

イエス様がそうおっしゃいました。人となられた神様ご自身が、神の国は近づいた、ほらこんなにと、ご自分を差し出して言われたのです。

この近さ、この距離は、イエス様が私たち一人一人のもとに来て下さった近さと距離だと言ってもよいのですが、イエス様との距離感って、皆さん、どれぐらいの距離を感じられるのでしょう。神の国を、持って来て下さったイエス様との近さ。どんぐらい近いんでしょう。

その神の国の近さを、先週、あ、こんな感じと覚えた時のことを紹介します。先週の朝の礼拝の後、この教会の前の牧師であった鈴木先生の追悼感謝礼拝で説教を頼まれて、香川の琴平に行きました。どんな説教をすればよいだろうと一週間ほど考えておったのですが、どう祈っても明るい説教にしかならない。礼拝の名称自体、追悼記念礼拝じゃなくて感謝礼拝にしますので、よろしくと念を押されたこともあって、それでいいのだと、おそらく、え?そこまで?と驚かれるほど、笑いの渦巻く説教でした。妻が、あなたの人生の中で一番受けたんじゃない?と言うほどでしたが、それは礼拝に出席していた方々が、アーメン、キリストに救われて天国の喜びに包まれるって、ああ、本当、嬉しいことだと、本当に良かったね、鈴木先生、そして私たちも、同じキリストの救いに結ばれているんだ、こんなにも救われて安心して喜べるんだと、神の国を持って来て下さったキリストの近さを、皆がアーメンと感じておったから喜び笑えたんだろうと思うのです。そこにキリストの救いの現実、神の国の近さを感じておったんだなと。

イエス様が「時は満ち、神の国は近づいた」とおっしゃった時にも、笑顔でおっしゃんたんじゃないかなと思うのです。安心していいんだというお顔で、また優しくて、でも力強い頼れる声で、だから、誰でも、この国のもとに来なさい、この国の国民となりなさいと、神の国の国王ご自身が、救い主となられて近づいてきてくださった。

さきに鈴木先生のことを話したから、というのじゃないですが、この神の国が近づいた、という言い方で、おそらく思い浮かべやすいのは、天国が近づいたというイメージかなとも思います。でもそれだとなんかお迎えが近づいたように聞こえて、あまり近づかんとって欲しいと思われる方もおられるでしょうか。もっとこの世でやりたいことがあると。

でも、先に主の祈りでも祈りましたように、天国、あるいは神の国は死んで行くところじゃなくて、イエス様が持って来て下さって、神の国のほうから近づいて、もうここにあるのです。

おそらくは、国という言い方が誤解を招きやすいのでしょう。さっき言いましたように、神の国を考える時に、これが一番いいんじゃないかと思うのは、神の国の国王として来られたイエス様が、あなた、この国の国民になりなさい、わたしはそのためにあなたのところに来たのだから、さあ、と両手を差し伸べてくださっている。そこに神の国は近づいたのです。つまり神の国は、領土で考えない。土地で考えないのです。むしろ国王と国民の間で結ばれた関係で考える。私たちが神様の国民として生きているところ、そこに神の国はあるからです。国王である神様と自分との間に、国王と国民という関係があるか。皆さんも、それぞれに考えて欲しいのです。

これ、きっと江戸末期にキリストの福音が日本に入って来た時には、もっと分かりやすかったんじゃないかと思います。特に殿さまに仕えておった武士たちには、うんと分かりやすかったんじゃなかったか。皆、殿に仕えてますから。当時、例えば土佐の国とか薩摩の国と言いましたが、その国にはそれぞれ国主がおって、土佐の国に仕えると言ったら、山内の殿様に仕えることだった。単に土佐の国に生まれたからじゃなくて、国主との関係で、自分がどの国のものかが決まる。というか、国主との関係が、自分とは誰かなのです。だから、イエス様が神の国は近づいたと言われたのを聴いて、では、その国主であるイエス様を、信じ、お仕えするということが、神の国に入るということか、その国主を、私の主として信じるのだなと、分かったと思うのです。

イエス様が神の国は近づいたと言われた時、それは私たちとの近さを言われたのです。領土の近さ、天国が近いとか、そういうんじゃない。イエス様が言われたのは、この世界をお造りになられた神様から、人は世界も自分自身も引き離すようにして、世界を罪の世界にしてしまった。その私たちのもとに、でも、その罪と死から救う救い主として、神様のほうから来て下さった。その神様の近さです。私たちの罪も死も全部引き受けて十字架で償うために、人となられて近づいて来られた神様が、わたしのもとに来なさい、信じなさい、わたしは主あなたの神だと招いて下さった。それを福音、救いの知らせと言うのです。神の国は近づいたとは、その神様が命を捨てて、十字架の橋渡しをかけて下さった愛の関係が、ほらもう、あなたの目の前にあるということです。

そのイエス様が「悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。これも手垢のついた悔い改めのイメージを上塗りして言えば、悔い改めるとは私たちが、まるで当たり前のように自分を自分の国の国主にしてしまっている命の現実を見て、これ、でもやめる。私は自分の国の国主であることをやめて、私のために神の国を持って来て下さった神様、イエス様という国主を信じて、神様の国民となる。私の命の足場を、イエス様が持って来て下さった神の国に移して生きる。死んでも生きる。だって、イエス様が、その私の死を死んで下さったから、罪を背負って下さったから、そして復活して下さったから、私はそのイエス様に、私の国主に背負われて、永遠の神様の民として、もう既にここで神の国に生きるということです。自分が国主であることをやめて、イエス様を私の国主としてお迎えする。それが、悔い改めて福音を信じるということです。

私に近づいてきたイエス様の神の国に、そうやって、その国民として私が入ったのは20歳の頃でしたが、私はその時おかしな矛盾に生きていました。私は中学の頃、サン・テグジュペリの星の王子さまを読んで、強い感化を受けました。その本には自分のことしか考えない大人たちが小さな星に自分一人だけ住んで、威張ったり、計算ばっかりしていて、王子様に、大人って変だな、と言わせるのですが、十代の私は、こんな大人にはなりたくない、俺はならないと思っていました。でも、思っているだけで、自分が見えてないだけで、私もまた小さな自分の星という自分の人生の国主に居座って、王様ぶって、自分が幸せになるためだけの計算をしたりしている。なのに、その全部に言い訳して、裸の王様、国主で居座り続けて、そればかりか自分は頑張っているから天国に行けると自分を信じて、自分の国から一歩も出ようとしない。大人だろうと子供だろうと、同じなのだと思います。でも、そんな私たちのために、神様は来られた。ご自分の国の国主であることを、かなぐり捨てるようにしてです。私たちが神の国に入るための身代わりに、人となられて、しかも罪人として十字架で死ぬために、私たちに近づいて来られて言われたのです。ほら、神の国は近づいた、こんなにも近づいたのだから、あなたの足、あなたの命の土台を、あなたの国から、この国に移しなさい。わたしを信じなさい、わたしがあなたを救うからと。

ここから世界は変わったのです。それぞれが自分の小さな国の国主であった世界に、ご自分を捨てられた神様が来られてから、その小さな自分の国の目の前には、いつでも神の国が近づいているからです。世界はここから変わるのです。その福音を信じる者は必ず救われるからです。