ガラテヤの信徒への手紙6章14-15節、エレミヤ書31章31-34節「十字架による新しい私」

18/10/21主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙6章14-15節、エレミヤ書31章31-34節

「十字架による新しい私」

新しい世界が始まると、それまで自分が関わっていた世界が、自分の生きる世界、価値ある世界だと思っていた世界が、旧くなってしまう。その旧い世界は、自分にとっては、もう終わってしまったのです。何故なら、既に始まった新しい世界に、自分はもう生き始めているから。

それが十字架によってはりつけにされて終わってしまった、今までの世と私たちとの関わりです。その旧い世界で価値のあった、例えば割礼の有無。割礼を受けているか、受けていないか、が例として挙げられていますが、今の世に引き寄せて、うんとわかりやすく言うなら、こんな感じでしょうか。学歴の有無は問題ではない。高い収入が有るか無いかも問題ではない。いや、あるろう、と思われる方はもちろんいると思いますが、例えば、こういうことです。自分の子供が頑張って、いわゆる良い大学に入って、このまま行けば良い仕事について…という、この世で一般に〈良い〉と思われているところにおったのだけれど、思わぬ病や事故で、その道が閉ざされてしまって、落ち込んで、その時、じゃあ親は落ち込んでいる我が子に何と言うか。学歴の有無は問題ではない。高い収入が有るか無いかも問題ではないって、言うんじゃないですか。生きてくれていてありがとうって、一緒に泣くんじゃないでしょうか。その時、それまで子供が生きていた世界と価値は、旧くなる。自分が、自分のいのちという資産を投じていた世界、限りあるいのち、限りある時間、そしてその他すべて、今自分に与えられている限りあるものを、ここに投資しよう、これを得るために生きようと、時間をかけ、これが欲しいと生きていた、その世界、皆が知っているその世界は、でも旧くなるのです。いや、それまで自分が投資してきた世は、自分にとって、世の終わりを迎える。あるいはその旧い世の終わりの只中で、私たちは新しい今を、生きるようになる。

その新しい今を、どう生きるのか。それが今朝の御言葉です。

「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」

大切なのは、新しい創造だ!それがもとの言葉です。創造されることと訳されると、自分の中に新しい自分が造られていくという、これまた聖書にある救いのイメージではありますけれど、ここで新しい創造だ!と言われているのは、もっと広い、もっと根本的で、自分の救いだけが問題になるような狭い話ではない。この朽ちゆく世界に、どれほど自分を投資したとしても結局は朽ちて、しかもその投資自体が神様の裁きの前に置かれて、あなたは何に自分を投資したのか、永遠になくなることのないものにか、それともなくなって後悔してしまうようなものにかと問われる、神様を無視して人間が投資し続けて来たこの世界が、しかしイエス様の十字架によって、イエス様と一緒にはりつけにされた。そして神様は、もう終わりにしよう、あなたはこんな世界に生きるはずではなかっただろう、生きよ、死ぬな、永遠に朽ちることのない喜びの世界に、あなたはそのいのちを投資して、全く新しい世界に救われて生きよと、神様は旧い罪の世界を十字架にはりつけられた。そして私たちが、どんなに自分を投資しても決して失うことのない、全く新しい世界を、その世界の土台としてキリストを与えてお造りになられた。その新しい創造、言わば全く新しい創世記を迎えて、あなたはこの新しい創世記の世界で、新しいあなたとして、新しい価値観のもとで、新しい考え方、新しい生き方で、新しい世界の歩みを一歩一歩、あなたの主キリストと一緒に刻んで行くんだと招かれている。その新しい世界が、ここで言われる新しい創造です。

この新しい世界に、私は私を捧げて生きるんだと見え始めたら、それまでの旧い世界との関わりは、ああ、これもあれも終わったんだなと、だから、もう終わってもいいんだ、終わりにしようと、具体的に終わり始めます。実際の生き方や考え方、あるいは心の中でも旧い世界が本当に古くなって、まあ、世の中はこう言うけど、だから?って本当に古くなって、新しい世界がじわじわ現実的になる。

だから、大切なのは、新しい創造です。この新しい世界が、ある!ということが、本当に大切です。旧い世界は、どのみち終わるからです。旧い世界を終わらせたくなくて投資し続けようと、いや、もうはりつけにされているんだ、だからもういいんだと踏ん切りをつけようと、どのみち終わるのです。踏ん切りをつけるから終わるわけではない。時間の問題なだけで、私たちの今いる世は必ず終わる。でも単に終わるのじゃない。その終わりを終わりとして踏ん切りをつけることができるほどの新しい創造が、もうあるから、だから必ず終わるこの旧い生き方も旧い価値観も、それは十字架にはりつけられた生き方と価値観だと、終わりにすることができるのです。

先々週に行った四国障害者キリスト伝道会で、精神科医師もなさっている講師の山中牧師が、こう言っておられた。私たちはその内に皆、認知症になる、遅いか早いか、また程度の問題はあるけど、必ずなる。それでも大丈夫な救いと復活の希望を、私たちはイエス様から頂いているんですと言っておられた。参加されていたのはおそらく全員キリスト者でしたが、アーメンという顔で笑いながら聞いておられて、その中には実際に認知症で苦しまれた南国教会の濱田さんもおられて、その夜に、濱田さんはその証しもしてくださいました。認知症になって、幻聴とかも聞こえてきて、ああ、もう自分は終わりだと思っていたけど、教会の仲間が訪ねてくれて、家庭集会で聖書の御言葉を聴いて、一緒に祈ってくれて、礼拝にも送り迎えしてくれて、それで私は立ち直りましたという証しをしてくださった。

ご存じの方が多いと思いますが、濱田さんはそれまで南国教会の長老もなさっていて、今朝の御言葉の新しい創造、新しい世界に、それまでも既に生きておられたのです。でも試練にあって、自分の体の機能とか生活の在り方が突然旧くなって、いや自分は大丈夫だろうと思っていたのに、その大丈夫は旧い世の大丈夫で、その世ごと自分が旧くなって、それがショックで苦しかったのです。でもそこで兄弟は御言葉に触れ、祈りに支えられ、その旧くなった自分が苦しい旧い世界の只中で、でも改めて新しい世界に生きるようになった。新しくイエス様の救いを知り直し、新しく信じて生きるようになった。新しく。それが大切な新しい世界、十字架によってもう既に始まっているから、そこに身を置いて、改めて我が身を投資して、信じて歩める新しさなのです。

もしも、濱田さんが、旧い自分の世界の終わりだけを迎えて、新しい創造の世界に自分はいるんだと信じられなかったら、旧い世界の終わりだけが自分を支配していたら、どうなっていたことか。

だから本当に大切なのは、新しい創造、イエス様が既に私たちのもとに与えて下さっていて、イエス様ご自身が、大丈夫、やがて完全に全て新しくなった世界の中で、あなたも完全に新しくなるから、信じなさいと約束して下さっている、新しい創造なのです。

神様が、永遠の御子を犠牲にされて、これを土台として造られた全く新しい世界の創造、この創造の中に、決して朽ちることのない価値も、決して朽ちることのない永遠の喜びもあるのです。この世は朽ちます。この朽ちる世にある、この身も朽ちる。若い人も老い、老いたなと思う人はもっと老い、頑張って得たもの、そのために投資して、費やしてきた努力も喜びも、世にあるものは朽ちてなくなり、後に何が残るのか。悔いだけは残したくないじゃないですか。後悔したい人なんて一人だっているわけがないのです。だから神様が、あなたが後悔する生き方は、御子の十字架にはりつけたから、そんな後悔をあなたに与える旧い世界も、また旧いあなたも、御子の十字架にはりつけて、そこに生きなくてすむようにしたから、あなたは永遠に朽ちることのない、決して失うことのない本当のいのちの喜びに、新しい創造に生きてごらんと招かれるのです。十字架の光のもとで、キリストによって復活させられる希望の光のもとで、その世界が見え始めたら、旧い世は終わってよいのです。いや、むしろこの世は終わるんだな、本当に終わるんだ、でも私はその世と一緒に終わらなくて良いんだ、良かったって、神様に感謝を捧げることができる。

皆さんはどんな世に生きておられますか。最後になりますが、四障伝の二日前の土曜日、十市の子ども会で、南国教会の岡本牧師が短い説教をされた。教会になんて来たことのない子たちが、まあ、当然つまらなそうな、自分とは関係なさそうな神様の話を黙って聴くはずがなくて、岡本先生どうやって話しされるのかと心配していたら、淡々と、聖書にはこんなことが書いてあります。あなたの敵を愛しなさい、って静かに言われた。そしたら、子供たちでもわかるんです。敵って、愛する相手ではないのだと。攻撃しなければならない相手が敵なのだと。ひょっとしたら親からも言われる。やられたら、やり返せと。学校でけんかした子に教師が問うたら、親から、やられたら、やり返せと言われたからと平気で言う。親も教師に、そう言っていますと言うのだそうです。世の考え方、生き方なのでしょうか。力で勝たなければならない。子供たちは敵の意味を知っている。いや知らされている。その子たちが、でも、ひょっとしたら初めて、敵を愛しなさいと、静かに微笑んでイエス様の十字架の話をする牧師を見て、初めて神様の言葉を聴いて、シーンと、まるでその子たちの前で、世がはりつけになったように、十字架の神様の説教、イエス様の救いの話を聴いていました。

私たちが生きる世界、生きるようにと招かれている世界は、この愛が私たちの世界として新しく創造されて、この救いが新しい人生の土台となって、旧い世が、十字架にはりつけにされている世界です。そこに、私たちの生きる今があります。私たちが投資してきた旧い世界が十字架にはりつけられて終わりを迎える、世界の終わりの只中で、私たちは、決して失うことのない喜びに、キリストによって生きるのです。