ガラテヤの信徒への手紙6章6節、列王記上17:8-16「チームプレイの神様」

18/9/9主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙6章6節、列王記上17:8-16

「チームプレイの神様」

分かち合いなさい。良い言葉だなと、改めて思います。分かち合う。その時、人は相手を見ています。モノではなく。しかも目で見ているというよりも、その心が相手を見ているところで、分かち合いは起こる。

イエス様は言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」と。分かち合う時、私たちの心は、自分の持ち物を宝として見るよりも、目の前にいる相手を、宝として見ているということでしょう。その相手が神様であっても、隣人であっても。

だから、そこで分かち合われるのは、この新共同訳は何故か「持ち物」と訳しましたが、前の口語訳が直訳でして、「良きもの」です。良きものを分かち合いなさい。これが、今朝教えられている主の御言葉です。

誰にとって、良きものなんでしょう。分かち合う人にとっては、良きものが、相手にとっては、何それ?ってことが、モノなら、ありうると思います。小学生の頃、私は通学路にあるパチンコ屋さんの横で、おそらく店の窓かテーブルが壊れたのだと思いますが、強化ガラスのかけらが、キラキラ輝いて落ちているのを見て、うわ宝物や!と持って帰って大切にしていました。ある日、クラスでお楽しみ会があって、宝物交換か何かがあった時、よし、これは喜ばれると思って、それを箱に入れて持ってったら、それが当たった女の子が、うわ危険物が入っちゅう!と皆で犯人探しみたいになったことがあります。結構なショックで(笑)、私が贈り物が苦手な理由になっているのかもしれません。

でも分かち合ってもらうことは結構あります。牧師だからというのではなくて、高知に住んでいると、よくお野菜とか、これもろうてくれん言うて分けてもらうことがあります。南国教会の西川さんが、今年のがは、うんと上手にできたき、もろうて、うんとおいしいき、言うて満面の笑顔で分けてくれる野菜は、うんと嬉しくなります。これは良いものだと、笑顔で分かち合う良きものって、そこでは心が、分かち合われているのだと思います。仮に同じ野菜がうちの冷蔵庫にパッツンパッツンに入ってても(笑)、ありがとうございますって受け取りたくなる。

キリストの御言葉を、分かち合うことも、無論、牧師に限りません、そういう良きものの分かち合いと同じです。キリストと共に生きる救いの良さを一緒に味わいたい。同じ御言葉に生きる幸いを分かち合いたいから、御言葉を中心とした共に生きる教会生活が生まれるのです。

そこで言う御言葉は、礼拝で説教を聴く現場だけのこととして考えない方が、より具体的、現実的かと思います。礼拝説教で聴いた御言葉であっても、それが分かち合いになる現場というのは、それが自分の身になるところであるからです。

今朝の御言葉を黙想しながら、私は信徒の時、どういう御言葉を教えてもらったかなと思いました。そうだ、私の人生を変えた御言葉体験と言うか、御言葉を教わった体験がある、と思いだしたのは、私が留学中の大学生の時でした。教会で平日の夜、聖書の教える男女交際について教えるクラスを開きますと、案内がありました。大学のすぐそばの教会でしたから、若い人が多かった。で、米国の大学生の多くは、まあ生活の80%ぐらいを男女交際のことが支配していますから(笑)、こら大事やと、友人たちと礼拝の時とは違う普段着感覚で御言葉を学びました。その同じ内容を、今もユースの会の読書会で読んでいますが、内容は、聖書が教える男女関係の正しさは、結婚した夫婦のみが、自分を相手のものだと主張できるのであって、いわゆる彼氏彼女関係は、自分を相手の彼氏とか彼女だと言う点で、神様が定められた性の在り方から外れているという御言葉の教えでした。そのクラスが終わって帰る男子学生たちで、マジか、マジ?と険しい、でも真剣な顔で、教えられた御言葉について分かち合ったことを思い出します。当時、私たちが普通だと思っていたことに真っ向から立ちふさがって、あなたはどこに立つかと問う御言葉の教え体験でした。その教えは、私の人生観を変えました。また人生を変えました。卒業後、留学中の若者たちの世話をする仕事をしていた時、その若者たちに同じ御言葉の教えを分かち合いました。マジ?という同じ顔をしていました(笑)。そこで御言葉を教えられた一人は、今朝の御言葉が教えるように、と言ったら語弊が生じるかもしれませんが、自分の持つ良いものをすべて分かち合ってくれました。妻のことですが、もちろん、今朝の御言葉が教えている、分かち合うというのは、結婚生活のことではありません。けれども、それが一つのモデルとなりうるのは確かです。もっと馴染みやすいモデルは、家族のモデルです。家族がすべての持ち物を分かち合うように、神の家族としての教会は、すべての良きものを分かち合って、天の父の喜びを満たすのです。

これがもし、ま、妻をモデルにしたついでに、仮のモデルにもなってもらいますが、もし妻が、いや、幸生君、間違うちゅうで、私は自分の生き方の、この部分だけは自分だけのもの、私だけのものやき、これは分かち合わん、となると、すべての良きものを、ではなくなる。

でも、それって、どういうことか。へそくりはいかんとか、親の形見も大切な記念品も、分かち合わないかんということではないでしょう。そういう何故か新共同訳が訳した、持ち物の話ではないのです。お金も含めて、いつか朽ちてなくなってしまうモノの話をしているのではなくて、御言葉が分かち合いなさいと教える時には、愛の話をする時には、いつでも、私たちの心の話をするのです。

使徒言行録に、教会が始まったばかりの時に起こった、一つの事件を通して、御言葉が分かち合う心について教えているところがあります。アナニアとサフィラの話です。聖書をお開きになる方は新約聖書220頁使徒言行録4章32節からです。

「信じた人々の群れは…」

アナニアが、もし正直に、これは代金の一部ですと言って、分かち合っていたら、どうなっていたでしょう。バルナバさんのように、すべて分かち合うことはできませんけど、神様の御業のために、御用のために用いて頂きたいのですと、私たちの教会なら感謝献金袋に入れて、自分に神様から与えられた力に応じて捧げていたなら、神様は、アナニアとサフィラの心を、喜んでお受け下さったに違いないのです。御言葉は、ペトロを通してこう言うのです。アナニア、何故、あなたはサタンにを奪われ、聖霊を欺いたのか。何故なら、その心は、神様に与えたはずであったからです。夫婦がキリストと教会の関係を現わすように、主は私たちの心をご覧になって、それはわたしのものだ、他の誰にも奪われてはならない、あなたはわたしのもの、あなたの持ち物がではない、と主は言われるからです。

申命記の16章では、こう命じられます。「あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分に、あなたが献げ得るだけの収穫の献げ物をしなさい。こうしてあなたは、あなたの神、主の御前で…、息子、娘、男女の奴隷、町にいるレビ人、また、あなたのもとにいる寄留者、孤児、寡婦などと共に喜び祝いなさい。」

主より受けた祝福に応じて、十分に。それで十分です。もし神様から少ししか与えられてないのなら、少しで十分。それが分かち合うべき、すべてです。先の話で言えば、南国教会の西川さんに、不作だろうと、畑のものぜんぶよこせとは言わない(笑)。

私たちのために、御子を分かち合って下さった神様は、持ち物とか、お金には目をくれんのです。お金なら、十分の一を捧げれば良いんであって、口座にある全てを神様が求められるわけではありません。

もし、教会で御言葉の教えを受けながら、教会はお金や持ち物の話をしていると、もし思ってしまうなら、そこでは御言葉が教えられてはないのです。もしそうなっていたら、大変申し訳ないと思います。教会でキリストの言葉、十字架の言葉以外の、人間の努力の言葉とか、安易な慰めの言葉を教えていたからかもしれんからです。

聖餐式の時に祈る御言葉は、こう教えます。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。誰も健全な教えを聴こうとしない時が来ます。その時、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」テモテ二4章

教えることも、分かち合うことも、先ず私たちが、キリストによって受けた、永遠に良きものを顧みないで、自分から出発したら、どちらも自分がしなければならない義務を果たすって話になってしまいやすいのだと思います。義務だからと。そして疲れてしまう。義務って、何で、こんなにも人を疲れさせてしまうのか。喜びがないからでしょう。心が渇いてしまうからでしょう。その渇いた心、疲れた魂を生き返らせてくれるのは、そんな私たちのことを、いつも思って、心からご自分を差し出して下さったキリストの愛です。十字架の神様のもとに頭を垂れて、その御言葉に聴くときです。私たちの義務にではなく、心に目を留めて下さって、その渇きを憐れんで下さり、慰めと赦しで潤して下さって、自由な愛ゆえに分かち合う心を、主が分けてくださるのです。

それが私たちの造り主、三位一体の神様、その名を愛と呼ばれる神様です。義務を求めるのではない、持ち物を求めるのではない神様が、私たちの心を求めて下さって、心と心が信頼の絆で結ばれる信仰によって救われた神の家族として歩ませて下さる。それが十字架で御子のすべてを与えて下さった神様だから。神は愛、だからです。

その神様に、私たちの心を捧げて教会生活をする時、教会の具体的な必要を見る時に、その心は、これが必要だと、必要な物やお金や奉仕や祈りという形を取るのです。この(飾花の)花に、心を見るか、値段を見るか(笑)。神様は、私たちが捧げる礼拝にも、献げ物にも、心を見て下さる。この神様の前に、私たちの良きものすべてをお捧げして、神の家族として分かち合うのです。そこに家族の喜びがあるからです。