ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節、詩編53篇「神様の前ではできんこと」

18/7/8主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節、詩編53篇

「神様の前ではできんこと」

「受け継ぐことはできません」。相続することはできませんと言い換えたほうが、見るべきピントがハッキリするかもしれません。

相続の問題。人間同士の相続を考えても、相続問題の一番根底にあるのは何でしょうか。お金の問題ではないでしょう。家族の問題、家族のつながりの問題です。家族じゃなかったら、相続できませんから。

家族のつながり!が、相続で露わにされる。お金でつながってはないはずなのに!嫌な話ですが、相続って、そういう醜さが出て来やすい。「肉の業」も、そういう自分中心の醜さが表に現れるのです。

私たちは、何によって神の国とつながっているのでしょうか?お金と言う人は余りおらんと思いますが、では自分の行いによってというのはどうか?例えば私は礼拝をしゆうという宗教的行いがカウントされて、神の家族とされて相続できると考える人はいるかもしれません。

例えば放蕩息子の譬えの、長男がそうでした。自分は親の世話をしゆうき相続して当然やけど、あの弟!親からもろうた財産を自分の好きにして、撒き散らして無駄にしたのに、なのに何で父親は、ごめんなさい言うて帰ってきた無一文の弟を、どうして家族として受け入れたのか!何の行いもないに!言うて怒った怒った。肉の業リストにある「敵意、争い、そねみ、怒り」、これらが、神の家族、教会には相応しくない、というのは、よくおわかりになるんじゃないかと思います。

この神の国の相続については、既に4章で、教えておりましたので、おさらいがてら4章6-7節をご覧いただけますでしょうか(347頁)。

「あなたがたが子であることは…相続人でもあるのです。」

キリストを信じ、洗礼を受け、三位一体の聖霊様を頂いて、神のとされたであれば、その神の国の相続人である。天の父の子とされたのだからと言うのです。だから相続することができる。それがこの手紙で繰り返し教えられ説得されてきた神学的急所でした。神様は私たちを、家族、我が子として求められ、我が子として救って下さるのです。人は自分の行いによって誰かの子になるのではない。そんなの商品です。

でもそこでいつの時代でも、どこの国でも、キリスト者となっても、なおも誤解されやすいし、誤解されてしまう。やっぱり、行いによって救われるのじゃないかと。だから今朝の御言葉のような悪徳リストの後で、このようなことを行う者は…と言われると、ほら、やっぱり行いによって救われるのだと思ったり、不安に感じてしまう。でも、そう誤解させてしまうのもまた、自分中心の肉の業、肉の働きなのです。

無論、行いがどうでもよいというのではありません。それも誤解されやすいし、そう誤解させるのも肉の業なんですが、聖書は繰り返し断言します。神様は私たち一人一人を、その行いに応じて裁くと。だって、行いが人を傷つけ、あるいは大切にしますから。そら行いは大事です。神様は、行いらあどうでもよいとは決して言われない。

では、行いは大事だけど、それイコール行いによって救われるのではないとは、どういうことか。よく言われます、行いを天秤にかけて…という理解、これは聖書にはありません。行いの裁きは、そういう全部をまとめて量るようなざっとした裁きではないからです。特に私たちの罪の被害者となった人々を、まるで天秤の片方に一山にして盛るように、その一人一人の名前も痛みも悲しみも悔しさも、全部匿名にして単なる数や量にして、え~と、良い行いがまさったから、あなたがた、残念、罪の報復はありません、泣き寝入りして下さい。それは御子を十字架につけられた、正義と愛の神様ではありません。

十字架の裁きは、単に私たちの罪の償いがそこでなされたというだけでなく、被害者を泣き寝入りさせない正義が、正義として、罪に裁きを下すため、どうしても必要だと神様が選ばれた正義の業でした。

そして、もし行いによって救われると言うことにどうしてもこだわるのなら、この神様の十字架の行いによって、私たちは救われるのです。人の行いによってではない。人となられた神様の行いによってのみ救われる。行いは、死ぬほど大事なのです。

私たちの行いを、神様がどうご覧になっているか、おわかり頂けたでしょうか。私たち以上に、しかも完全な正義をもって、神様は私たちの行いを、実に気にかけて見ておられます。親が子の行いを、愛と責任に満ちた眼差しで見ているように。それが天の父です。

そこで、今朝の御言葉の、いわゆる悪徳と呼ばれる数々の行いや態度がリストアップされていますが、別に、これだけが罪ではありません。「その他この類」と言われている通りです。

この類。どの類か。どういう類のことが父はお嫌いで、言わば我が子に、おい、本当に、そんなことをしよって、わたしの国を相続できると思うのか。この国を相続し治めるというのは、王子、王女として治めるということだが、それがわかっているか。お前は自分を誰だと自覚しているのか、と問われる。それほど、父の子として、父の国を治めるのに相応しくない行い・態度があるのです。御子の霊を受けて、アバ父よと呼ぶようになった父と子の関係を、は?そんなん知らんしと、我が子から言われているような類の行いと態度が、それだと言えば良いでしょうか。このリストにあることを行いながら、あ、ところで神様は私の父ですと、もし平気で言えるとしたら、言ってみればそれは、オレオレ詐欺の見破られ方と一緒で、あんた、わたしの息子じゃないろう、わたしのことも知らんろう、今まで話したこともないろう、わたしについて全然違うこと言いゆうも。わたしもあなたを知らない、と言われてしまう。どう、本当にそうなが?というのが、今朝の御言葉です。

しつこいほど言いますが、まあ、それだけ自分自分の肉によって混乱させられやすいので、しつこいほど言うのですが、私たちが誰であるかの根拠は、私たちの行いにはありません。私たちが神の子であるという根拠は、三位一体の神様にあります。三位一体の御子の贖いによって、御霊によって新しく生まれ造り変えられていく働きによって、天の父の子とされた者は、父の子に相応しい行いを、父から、当然のこととして求められるから、行うのです。何故か。本当に父の子と、されたから。そして子とされたら、父の御心を求めるようにもなるからです。

それが神様をアバ父よと呼んで祈り求めるように導かれる、聖霊様の導きです。その導きは、良いことを行うように、というのじゃなくて、父と子の関係を生きるように、父・子・御霊と共に生きるように導かれるのです。だってそれが、父が子に求める当然だからです。

そこで最後に、少しこれらの悪徳リストについても説き明かします。そのことで私たちが、自分自身の肉の業を、見分けて、これを避けて、肉に混乱させられたり、自分を持っていかれることに対して、ノー!と背を向けるために、です。

このリストは大きく四つに種類分けすることができます。まず姦淫、わいせつ、好色は、性に関するリスト。言わずもがなですが性そのものは悪でなく、神様が造られたものですから、そのご計画の通りに正しく取り扱うなら、人を祝福するのです。が、まことに自分中心の肉の働きによって、人を傷つけ汚しやすい。姦淫とは何か。関係の罪です。必ず関係がそこで破かれる。結婚相手との関係。独身の場合も、将来の結婚相手との関係を呪うもの。それが姦淫です。神様が、三位一体の関係を第一とされ、それを反映する夫婦関係を、どれほど聖なる第一の関係とされているかが、よくわかる、リストのトップです。

わいせつと訳されたのは、不潔という言葉です。不潔というのは感覚ですから、人によって差が出ます。私はジーパンを何日か履きますが、妻はそれを不潔に感じる。洗ってと言います。そういう不潔なら笑って話せますが、セクハラは笑えません。やはり相手がいるのです。相手の感覚が間違っている、自分は正しいと思わせるのが、肉です。自分ではそんなに不潔に感じない罪があれば、それが肉の業です。神様が聖書で何を汚いと感じておられるか。その聖なる感覚を身につける努力が求められます。ただしそれは、主を畏れるという、これも感覚を清められる聖霊様の働きによってのみ、身に着けられる努力なので、何より聖霊様の導きを無視しない。聖書を無視しない。それが大切です。

次の好色は、ふしだらとも訳し得る、だらしない、要するに肉に流されて流れてしまう、という態度です。流されて罪を犯し、流されたことを言い訳にしてしまう。よくわかることではないかと思います。

次の二つ、偶像礼拝と魔術は言わば信仰のリストです。神様じゃないものにすがり、神様じゃない力を信じ利用しようとする。例えば、これをしたら、こうなるはずという、これまた神様との関係を愛さないで、自分の行いを、すごいものに見せる肉の業です。

次に敵意からねたみまで、一番多いのが争いリスト。これは隣人との関係を呪う肉の業です。どうして一番多いか。おそらくガラテヤ教会にこの問題があったからだと言われますが、現代の教会でも同じだと思います。愛するより、距離を置いて、上から裁いて、関係を壊して、でもそれは相手が悪いからと自己正当化する。まごうことなき肉の業。

言葉を調べていて面白かったのは利己心と訳された言葉。元は勝とう勝とうとする思い、という言葉。相手より上に立とう、勝とうとする。負けたくない。負けると怒る(笑)。肉ですね。自分のことばっかり。

昨日、説教準備でコーラを飲もうと、先にコップにレモン果汁を少し垂らして、さあコーラ入れようとしたら、ん?コップの底に少しお茶?が残っちゅう?もう、たぶん愛が飲み残したがやと少し怒りながらそれを飲んだら、うぇあ~酸っぱ(笑)。自分でしたことを、冷蔵庫を開ける2秒で忘れて、自分勝手に人を裁いて。まるで酔っ払い(笑)。

リストの最後は泥酔、酒宴。先週も言いましたが、聖書には「目を覚ましていなさい」と、何回も主がお命じになっておられます。目を覚まして、自分が誰であるかを主の前に弁えてなかったら、嘘の自分になるからです。だから絶えず御霊は、あなたは神の子とされたろう!神の子として生きよと、私たちのアバ父との愛の関係へと導かれるのです。