ガラテヤの信徒への手紙5章7-12節、エレミヤ書23章16-29節「認めるって難しいね」

18/6/3主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章7-12節、エレミヤ書23章16-29節

「認めるって難しいね」

相当腹を立てている、という印象を持たれたかもしれません。ここでガラテヤの教会員たちをかき乱していると言われた人たちも、そんなに怒るようなことを俺らあしたかやと、ひょっと思うたかもしれません。でも、それだけのことをしておったのです。

問題には割礼がからんできます。割礼はイスラエル人が神の全き民として選ばれた徴に男性器の包皮を切除する儀式ですが、その儀式の必要は、もうなくなったのです。他で言えば、罪の赦しを約束する生け贄を捧げる儀式が、なくなった理由と同じです。何故か。罪の全き償いが、そして割礼が意味する、汚れを取り除き全き神様のものとなる必要が、キリストの十字架の死によって成就し満たされたので、どちらもいらんなったからです。キリストがその全ての必要を満たし切られた!だからです。この十字架理解が、福音の急所中の急所、中心の中の中心です。こま回しやタイヤの軸と一緒で、ここがブレると、全部ブレる。

なのに!です。いや、認めんと。割礼はまだ必要だ、キリストを信じて洗礼を受けただけじゃ足らんから、割礼は受けないかんと教えていた人々がガラテヤの教会員たちを惑わしておった。でもそれは要するに、キリストの十字架では不十分だと、人となられた神様が罪を担って死ぬくらいじゃ罪を裁かれる聖なる神様の正義を満たすことはできんのだと言っているのと同じなのです。神様の身代わりの死では足らんのだと。ほんで、じゃあどうしたら足りるのか、こうしたら救いを保証できると彼らが教えていたのが、そらおんしゃ割礼を受けることよ。アブラハムから代々受け継がれてきた由緒正しき伝統の儀式を受けて、ほいたら、既に割礼を受けちゅうユダヤ人たちからも、おお、おお、あいつらは、イエスなんかを信じて、迫害しちゃろうかと思いよったけんど、割礼を受けちゅうがやったら俺らあと同じやし、まあ先祖アブラハムに免じて勘弁しちゃるか、となってくれたら、ほら、教会生活を営む上でも迫害されんほうが、迫害でつまずく人らあもおらんなるし、えいことずくしで安心ぞ、みたいなことを言って、教会員たちを勧誘しておった。

それで使徒パウロは言うのです。そんなに割礼割礼言うて取り除きたいがやったら、自分のがをまるった取り除いたらえいじゃかと。まあ、相当腹が立っている言い方です。

だって、私たちの罪の身代わりになって死ぬために、人となられて、十字架で死なれた神様では、足らんと言うのです。それでいて、自分が血を流すような行いをしたら、それでOKと言うのです。神様が定めた掟だからと、神様の名を出してきて、キリストの名も出してきて、なのに教会の中で、キリストじゃ足らんき、自分の血を流して儀式をしたら…一体自分を何様だと思っているのか!キリストが流された血潮よりも、自分が血を流すような自分の行いが自分を救うと何故思うのか。

でも、そういう、キリストの十字架より、自分の行いや自分の信仰や何であっても自分を根拠にして救いを考えるほうが、言わば拒否反応を起こさんき、ということがある。人にも自分にも受け入れやすいき、と9節の言葉で言えば、わずかなパン種、イースト菌が、教会の中、また私たちの考えの中にサラっと入ってきて、一人の信仰生活だけでなく、教会が信じて行っていることの全体に拡がって、自分が受け入れやすいほうに自分が…と、どんどんおかしな方向に行くことが確かにある。

皆さんにとって思い当たる、イースト菌のような考えや行い、あるでしょうか。十字架のイエス様の御前で、自分の生活や思いや教会生活、何でもいいんですけど、全て自分に関わることを十字架の主の前に差し出して、主の御言葉と御心に従って清め導いて頂くよりも、もうちょい拒否反応の出ないやり方で、いや、自分は神様を信じていますよというやり方で、自分の生き方や、教会のやり方を考えること。随分具体的に言いましたが、どうでしょうか。

ただ先々週の合同礼拝の時も言いましたが、神様が、それに関してはどっちじゃちかまんとおっしゃることも、あります。具体的に言えば、神様が聖書で明確におっしゃってないことについてまで、神様は細かくネチネチ追求するようなことはなさいません。例えば、この後の聖餐式で、パンのサイズは1cm×1cm角で、ブドウ液はいかん、ワイン、しかもたっすいがはいかん(笑)、らあて、そんなのは、どっちじゃちかまんと笑っておっしゃることです。

けんど笑えんこともある。「主の体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招く」と勧められています。主の体とは教会のことです。自分の満足だけ考えて、キリストに結ばれた兄弟姉妹のことも、その兄弟姉妹を愛されるキリストのことをも考えないで飲み食いするのは、それは主の体である教会に対して、またキリストに対して罪を犯しているのだと言うのです。だからそれは「自分に裁きを招く」とハッキリ言う。主の死を告げ知らせる聖餐式においてですよ。主の死を告げ知らせるとは、罪の赦しがここにあると福音の宣言をすることです。キリストの十字架の死を根拠にした赦しが宣言される聖餐式において、裁きを受けると忠告するとは!如何に神様が罪をいい加減にされん神様であるか、またこのことについて誤解をすることが、如何におそろしい間違いであるか、どうして今朝の御言葉が、これほど厳しく裁きについて語るか、おわかりいただけるでしょうか。何故なら、神様は罪を必ず裁かれるからです。だからこそ!その裁きから私たちを救い出すために、永遠の聖なる三位一体の御子なる神様は、私たちの責任を全て背負って人となられて、身代わりに裁かれ死なねばならなかったのです。そして神様ご自身が、永遠の裁きを身に引き受けて完全な裁きを身代わりに受けられたから、私たちの罪の償いは成し遂げられた。何で神様がそこまでなさったか。何で自分のことだけ考えて、罪を犯したのはお前だろう、お前の自己責任だと、裁いて終わりにされんかったか。それは神様ではないからです。自分自分で片付けるのは、まったく神様ではないからです。神様は、三位一体の父・子・御霊の愛なる神様は、私たちの罪を負われて、罪を完全に裁き切ることで私たちを救われる、全き正義であられ、愛であられる神様だからです。

その神様の裁きがなされた十字架を、抜きにして、考えないようにして、別の救われ方や、別の救われた生き方や、別の考えで考える自分の考える真理に誘われるなら、私たちはパウロと共に今朝の御言葉の8節を繰返す他はないでしょう。「このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません」。

むしろ私たちは、このような誘いからこそ、言い換えれば、十字架の救いは拒否反応を起こすき、裁きの十字架じゃない別の言い方とか、別の救いとか、神は愛だけ言うとか、っていう、そういう誘いからこそ、召し出されているのです。単なる愛の神様じゃない、十字架の愛の神様によってです。私たちの主として死んで下さり、また私たちが復活するために、主として復活して下さったキリストが、十字架の主が、私たちを召し出しておられます。あなたの生き方は、ならば、こういう生き方だろうと、わたしについて来なさいと主は言われるのです。

8節の「召し出しておられる」という言葉は、現在形です。今。Now。キリストNow(笑)。今、キリストが、私たちの十字架の主が、わたしについて来なさいと招いておられます。まだ洗礼を受けておられない方には、もっと尚のこと、わたしは主、あなたの神だと招いておられます。そこに私たちの真理と救いがあるからです。