ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節、ネヘミヤ記8章9-12節「びっくりばっかりの愛」

18/5/27主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙5章2-6節、ネヘミヤ記8章9-12節

「びっくりばっかりの愛」

愛の実践を伴う信仰こそ。愛の実践。またえらい、ガチッとした言葉やなあと思われた方は、私の他にもおられるでしょうか。愛の実践。

息子の広辞苑で実践の項目をひきますと「実際に履行すること。何かを行動によって実行すること」とありました。実際に行動する。実行するのです。口だけじゃだめ。広辞苑の例文でも「考えを実践に移す」とありました。実行に移す、と言ってもよいでしょう。とにかく口だけ、頭だけ、理屈だけでは、実践が伴ってない。

私がこの言葉を読んで、ガチッとした印象を感じたのは、私が自分のことを口だけやと思っていて、後ろめたい気持ちが働いたからかもしれません。何か、実践を伴う立派な人から、愛の実践を、と聴いてシュンとしている感じか。あるいはみっともない反抗期のおじさんみたいに、何の言い訳もできんので、せめて、言葉が固いとかって、無意識に反抗しゆうのかもしれません(笑)。

ところが、この御言葉が記されています、もとのギリシャ語で読みますと、あれ?少しニュアンスが違うぞと、ちょっとホッとしたと言いますか、先の口語訳が直訳に近くて、こういう言葉なのです。「愛によって働く信仰」それが大切なんだと言うのです。「愛によって働く信仰」。

読む人の受け止め方の違いかもしれませんが、今の新共同訳のように「愛の実践を伴う信仰」と聴くと、どうも私は、信仰だけじゃダメで、愛が伴ってないと、信仰だけじゃだめなんだと。どうもそう感じてしまうというか、何だお前、口だけ、頭だけじゃないかと。そうだ愛の実践をしないと、実践しないと、と何か追込みをかけられゆうような印象を持つのです。この御言葉は冒頭の1節で「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのだから、この自由に立って、二度と奴隷のくびきに繋がれてはなりません」と言っているのに、愛の実践をせんと、実践をせんとという、結局、心理的に実践の奴隷のようになってしまうと、本末転倒です。キリストを信じて、ありがとうございます!という自由の喜びが、それこそ頭だけの喜びになるのかもしれません。

あるいは、もっと恐いのは、自分は愛の実践をしているから大丈夫だと、あれ?それって、自分は律法の実行をしているから大丈夫だという律法主義に戻っちゅうやか?ってのが、もっと恐い。それだと、2節で断言されていることに逆戻りするのです。割礼という言葉を愛に置き換えるとわかりよいでしょうか。「もし愛の実践に頼るなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」。

ですので「愛の実践を伴う」という言葉を、どう理解するかは、少し口うるさいようですが、曖昧に済ますわけにはいきません。キリストを信頼してキリストに私の救いを全て委ねる信頼関係、この信仰のみが、私を救うのだと、パウロのように断言するのでなければ、この御言葉はまるで信仰プラスアルファとして、愛の実践が救いの条件として要求されているかのようにイメージしやすいと思うからです。

でも、ついつい、そういうニュアンスを、ここに感じてしまうなら、それは先に私がそうであったように、自分の信仰には、愛の実践が伴ってないんじゃないかという、後ろめたさが、ひょっとあるのかもしれません。やっぱり、いるろう、愛の実行はと。口だけじゃだめだと。

それは、そうなのです。口だけじゃダメ。聖書が言っていることでもあります。でも、ここでこそ、立ち止まって考えて頂きたい。そして、ハッキリして欲しいのです。自分の信仰は、口だけかと。もし、口だけだと思うなら、それは何故かと。そこが信仰の急所だからです。

口だけの信仰って、どういうイメージでしょうか。やはり愛の実行が伴わないイメージになるかと思いますが、先に申しましたように、直訳は、伴うという言い方ではないのです。直訳で、再度、言い直しますと「愛によって働く信仰こそ大切なのです」。急所は、信仰が働いているという点です。どういう形で働くのか。愛によって、あるいは愛を通して、信仰は働く。こうイメージすればわかりよいでしょうか。キリストと私の関係をカシャッと写真で切り取ったのが信頼関係としての信仰。洗礼式の瞬間の写真をイメージしたら良いのかもしれません。そして、その関係を、動画で撮って、ああ、この信頼関係としての信仰を実際に生きて動きゆう私とキリストの関係として捉えたら、なるほど、これを何という言葉で一言で言おうか。うん、愛やねえと。その愛は、小さい貧しい愛かもしれんけど、でも愛やろう。あるいは愛になろうともがきゆう、いや、キリストが、私とキリストの関係を、愛の生き方に、愛に愛にと導き、励まし、慰め、教えて…これ、何て言うが?この信頼関係としての信仰は、愛によって働きゆう!としか言いようがないと。

ですから、信仰と愛を、まるで切り離された別モノのように「伴う」というイメージをしてしまうと、混乱を招くのだと思います。

ではこれを、うんとわかりやすいイメージで言います。先ずは誤解されたイメージです。ご存じアンパンマン…顔が汚れて元気が出ない…。アンパンマンは新しい顔を焼いてくれるジャムおじさんを伴わんかったら、そう、助けを必要としている人、いや、猫や像さんやカバ男くんたちを救うことはできんのです。ジャムおじさんを、伴わないと!これが間違って信仰と愛を別々の存在だとイメージするパターンです。アンパンマンだけでは足らん。信仰だけでは足らんのだと。

次に実際の「愛によって働く信仰」のイメージで言いますと、アンパンマンには、ジャムおじさんのように目に見えて伴っている誰かじゃあない、目に見えない秘密があるのを、ご存じでしょうか。アンパンマンの顔には、勇気の花のエキスというのが、ポチョンと一滴入っている。それで、自分のことを顧みず、他の誰かのために働けるのです。自分を捨てて。それを愛とも勇気とも言えるでしょうが、その秘密は、自分の内に与えられて存在している勇気の花のエキスにある。もうおわかりでしょうか。それが信仰によって私たちと一つに結ばれて、私たちの内におられるイエス様でして、さて、ここが急所です。イエス様は私たちに働きかけることを、しかも愛によって導き、私たちをご自身の形に造り変える、ご自身の愛の働きをやめられることはありません。例え私たちが、全く主を裏切るようにして、あるいは無視して、愛とは反対の方向に、まるでお一人様で生きているように、動き、行動し、罪をさえ実行に移しても、キリストは私の内に生きておられるのです。キリスト我が内に在りて生くるなり。この手紙2章20節ですが、これが、この手紙の急所中の急所でありまして、急所はキリストなのです!自分ではない。でも自分の信仰とか、自分の行いとか、自分に固執しては、愛も信仰も命も見失ってしまう私たちのもとに、キリストが来られたから、そしてキリストご自身と一つに結ばれる信頼関係を通して、これもイメージで言えば、私には、イエス様、あなたが必要ですと空の両手を差し出した私たちの信仰の手を、既にその手を掴むためにこそ、両手を差し出し続けておられたキリストがギュッと握りしめてくださって、私たちの内に来て下さるのです。実際は三位一体の聖霊様によってですが、一つなる聖霊様の内に、キリストが私たちの内に生きて働かれる主として導き、慰め、助けて下さっているから、だから、私たちの信仰、キリストとの信頼関係は、愛という形において働くのです。単なる愛じゃない。つい自分中心に、自分が出所の自分の愛を考えてしまう、キリスト抜きの愛ではなくて、キリストが出所の愛によって!信仰は働き、動くのです。

先に口だけの信仰じゃダメだけど、でも口だけの信仰って、どういうイメージで言っているのかと問いました。愛が伴ってないのが、口だけの信仰というイメージになりやすいのですけど、そもそも誰の愛のことをイメージして、あるいは誰の愛にフォーカスを当てて、愛が伴ってないと思うのか。もしそこで、自分の愛のことだけにフォーカスを当てて考えているなら、そもそもフォーカスがズレている、いや、フレームがズレているのです。フレームが、キリストと結ばれている私たちの姿ではなくて、キリストをフレームから外して、自分の信仰とか、自分の愛とか、自分だけ写そうとしているなら、そもそもその写真自体が、真実を写してないのです。嘘の信仰の姿を切り取っているのです。キリスト抜きで頑張っているかのような、口だけの信仰というよりは、むしろ、自分だけで成り立つかのような信仰、それがお一人様の信仰ですけど、だから!です。御言葉は、だからハッキリ言うのです。キリストと結ばれていれば!と。キリストと結ばれているだろうと。ズレたフレームを直すことによって、見えてくる真実の信仰の姿がある。真実の救いの姿がある。そこには、キリストと結ばれて、キリストが救ってくださっている、キリストと信頼関係の絆、信仰で結ばれて、決してキリスト抜きで私たちは何一つしてはいない、キリストが私の内に生きておられるのです、と断言できる、キリストを信じる信仰の姿があるのです。

そして、そこにこそ、私たちの愛の実行もあるのです。十字架の主が共におられるのですから、その名を愛と呼ばれる神様が共におられて、さあ、あなたの本当の生き方、神の子の生き方、愛に生きよう、わたしについてきなさいと、キリストが愛へと招いておられるからです。その愛の出所は、キリストです。いつでもそうです。その愛の生活とは一体どういう形を取るのか、ということが、この後、手紙の最後まで続いていきます。だいぶ前に説き明かしました有名な22節で「御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和」だと言われている御言葉も、要するにキリストから招かれている、主の招きに、はいと、キリストに信頼し、応えて、キリストと共に歩む愛の努力を通して、キリストが愛の実を一緒に結んで下さるのです。

そうやってキリストと結ばれた私たちを見る。人生のフレームから、キリストを外さないで、イエス様、ありがとうございますと、神我らと共にますキリストを信じ仰ぐ、つまり、信仰する時に、私たちは、愛によって働く信仰の働きを見るでしょう。その信仰こそ大切なのです。