ガラテヤの信徒への手紙4章16-20節、ホセア書11章「君のためならまた苦しむ」

18/4/29復活節第五主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙4章16-20節、ホセア書11章

「君のためならまた苦しむ」

キリストが形づくられるまで、と言われます。キリストが形づくられる。どんなキリストの形が、ガラテヤの教会の中に、また私たちの教会の中に形づくられていくのでしょう。

むしろ、こう言ったほうがわかりよいでしょうか。皆さんは、教会がどんな風になったら、ああ、キリストが私たちの内に形づくられていると思われるでしょうか。ここには、キリストが形づくられちゅうなあ、とか、キリストが形づくられていきゆうねゃと思うのは、どういうのを見て、おお、キリストやと思うのでしょう。

例えば礼拝の人数にでしょうか。あるいは礼拝が元気で活気に満ち溢れておったら、あるいは皆がなすべきことをキチンとやっていたら、でしょうか。できない人がおったら、あるいは元気ではなかったら、そこにはキリストが形づくられてなくて、ああ、私なんかがいたら良くないから、来ないほうがよいと思わせてしまうような教会には、キリストが形づくられていると言えるでしょうか。むしろ、元気でいたいと思いながらも、元気になれない人でも、ここには私の居場所があると、礼拝に続けて来たくなるところには、キリストが形づくられているんじゃないでしょうか。

逆に、このところはキリストが形づくられてないなあと思うところ、どこでしょうか。この教会のここんとこは、キリストが形づくられちゅうと言うより、むしろ、牧師の顔を思い出してしまう(笑)というとこがあったら、ま、どういう意味でということもありますが、ああ、あの牧師の理屈臭いところが、よう出ちゅう、とかってなると、キリストに申し訳ない。

もちろん悪いことばかりではないのです。前にも説教で触れましたが先日、逝去なさいました岡林さんが礼拝の一番前の席で、誠実かつ忠実に、神様に礼拝を捧げておられた姿の内に、キリストご自身の誠実な姿が、父の御心にひたすら忠実に歩まれた御子の姿勢が重なるようにして見えた方は少なくなかったのじゃないかと思います。岡林さんご自身、若い頃に出席されていた教会の礼拝で、同じように礼拝の一番前の席で誠実に忠実に礼拝を捧げておられた老齢の信徒の姿を見続けておられたと、信仰の文集に記されていました。その礼拝の姿勢が岡林さんの礼拝の姿勢が形づくられる上で、主によって用いられたと思うのです。今頃ひょっとしたら天の御国で、お久しぶりです、実は私はあなたの礼拝の姿勢に励まされて…言うて再会を喜んでおられるのかもしれません。

といった話をすると、これって大変具体的な話ですから、というのは今具体的に一番前の席に座って礼拝を捧げておられる、まあ長老たちがおられる。なんか背中を見られるようで緊張するいうて思われゆうかもしれませんので、あまり熱い視線は注がれんようお願いしますが(笑)、皆さんも、何年か、あるいは何十年かしたら、ここに座って礼拝を捧げておられるんじゃないでしょうか。

そして、きっとその時に、わかるんです。どうして岡林さんや金田さんや長老たちが、ここで礼拝を捧げておられたか。キリストに呼ばれたのです。ここで務めを果たしてほしい。この礼拝の内に、キリストが形づくられる、わたしの働きの一端を、あなたに担ってほしいとキリストに招かれたので、キリストから、あなたに頼むと招かれたので、ああ、だからなんだと。私もその一人です。

無論、最前列だけが神様によって招かれた席ではありません。礼拝の最初に、招詞、招きの言葉が、礼拝の形として置かれている通りです。皆、神様から招かれて礼拝に集う。洗礼を受けたキリスト者は尚の事、神様が招いておられるからと、礼拝に集います。どの席に座って礼拝を捧げておっても、です。礼拝を捧げている自分の背中を、見ている人がおろうとおるまいと、神様は私たちの礼拝を見ておられます。そのことは間違えてはなりません。

ただ、その上で、やはり、まあ、譬えてみれば、よさこいの最前列で踊っている人は、後ろで踊っている人たちの先頭をきって、あるいは、お手本や励ましとなって、特に踊りをまだ覚えてない人がおる場合は、どうしてもその先頭の人が必要なのです。

礼拝も同様。特に礼拝の場合、体の姿勢というよりは、礼拝の姿勢が教会に形づくられるために、キリストから召されるということがある。体の姿勢ということだけで言えば、老齢ゆえ背筋を伸ばすことが困難になっても、あるいはそのことで自分の気持ちとしては沈むようなことがあっても、それでも心を尽くして神様に捧げる礼拝の姿勢に、どれだけキリストを礼拝する教会が形づくられることか。むしろ老いや弱さの中にキリストが形づくられるということを、私たちは既に知っているのだと思います。世の中で言われる意味での、元気とか、キチンと、というのとは異なる命の形、神様の愛の形、神様の救いを証しするキリストの形を、神様は、教会の内に形づくられるのです。

さて、この「形づくられる」という言葉、これは「フォームを作る」と訳すことのできる言葉です。

フォーム。スポーツで良く用いられます。私は陸上をやっていた時、先輩に、その走りのフォームやとすっと疲れると直されました。また、例えば野球の打者がスランプになって打てんなったら、フォームの乱れがないかをチェックする。あるいはフォームの改善をして、脇をしめて打つフォームに改造したら、また打てるようになったりする。

この時のガラテヤ教会の人々も、フォームが崩れていたのです。彼らからしたら、何がおかしい、と思っても、あるいは知らない外の人が、え、教会ってこんながやないが?と思っても、キリストから、わたしの教会を建てなさいと、使徒に召されておったパウロにとっては、とても教会には見えんかったのです。敢えて派手な譬え方をしたら、私が教会の駐車場で、こんな感じに両腕を振り下ろすフォームを繰返しゆうのを近所の人が見て、野口さん、剣道の練習です?いえ、野球のバッチングの練習ですと、私が言うようなもんです。え?ピッチャーが暴投した時の練習?といぶかるくらい、そんなバッチングフォームはない!因みにバッチングというのは土佐弁の言い方のフォームなので、これはあるんですけど(笑)、このフォームはバッチングのフォームではない。

今朝の御言葉で問題とされているガラテヤ教会のおかしなフォームを端的に言えば、こういうことです。言わばキリストという教えを自分たちがキチンとやっておれば、それで救われるのであって、キリストとの信頼関係など救いには直接関係ない。そう言っている人々が、教会を惑わし、今風に言ってみれば、キリストがあなたを救うのではなくて、キリストが救ってくれるから、その教えを一生懸命に守りなさい、と教えていた。守ってないと救われないからと。

自分が守っているかどうか。キリストとの関係よりも、神様よりも、自分。自分の救い。自分の…言い換えれば自己中心の宗教。自分中心の救い。それは、そんな私たちのために人となられて、私たちの身代わりに死なれた神様の救いとは対極にある姿勢であって、神様とは、しかも十字架によって救いを差し出された神様とは、関係のないものです。

何故なら、その神様の十字架の形、十字架の死においてこそ、神様は最も端的に御自分を示され、映し出されているからです。

その神様のお姿、あるいは救いの形を、キリストのフォームとして、神様は御自分の教会に形づくられると言えば、わかりよいでしょうか。つまり神様に罪を犯そうと、どんなに自己中心で自分自分であろうと、私たちを救うためになら、ご自分が犠牲になって、身代わりになって、あなたの罪を全て償って死んでもよいと、本当に十字架で死んで下さった。その神様の愛の姿、正義の姿、十字架で私たちへの愛と正義を貫いて下さったキリストを教会の内に形づくられることで、神様はその教会に、人々への神様の救いを伝える務めを託されるからです。

その教会は、だから神様から託された救いも信仰も、自己責任にはせんのです。キリストが、そのように私たちにはされんかったからです。むしろ、私たちをキリストは十字架で背負って下さった。担って下さった。それは、自分で自分を生み出すことのできない赤ん坊に向かって、親が、お前が自分で頑張って生まれて来いとは、決して言わないようにです。同じように、神様が、キリストによって苦しんで、全ての苦しみを背負って、私たちを神様の子供として生んで救って下さる。

だから、教会も、そこに産みの苦しみがあっても、人々にキリストの救いを伝えます。もし教会がおかしなフォームになっておったら、それもまた、その教会の自己責任にはしないで、そこにキリストが形づくられるために苦しむのです。自分がどうのじゃないから。それがキリストの救いだから。それが十字架の神様だからです。

最後に、そのことを聖書は既に2章において、美しく、簡潔に教えていたことを改めて読んで、終わりにいたします。二つ前に頁をめくっていただいた345頁上の段、2章の19節から21節です。

「わたしは…無意味になってしまいます。」

しかし、キリストの死は無意味ではなく、私たちに命を与える神様の救いです。このキリストの恵みを身に受けて救いに生きる教会の内に、キリストは形づくられていくのです。