18/4/22復活節第四主日朝礼拝説教@高知東教会
ガラテヤの信徒への手紙4章16-20節、エゼキエル書34章17-22節
「恵みが地雷になるが?」
初めて教会の礼拝に出席されて、受付で頂いた週報をご覧になって、この説教の横のって、たぶんタイトルでね?と、ひょっと思われたかもしれません。その通りでして、他の教会では、司式者が説教題を読みあげることもあります。うちの教会は読まんで良かった~と司式者が思いゆうかもしれません。
ここ十年ぐらいでしょうか。地雷を踏むという表現を耳にします。うわ、めっちゃ地雷踏んじゅうやかとかって言う。どういう意味かネット検索で調べたら、こんな説明を見つけました。
「触れられたくない部分に触れた。相手がキレるポイントに触れてしまった。というようなニュアンスで使われています。少し古い言葉だと、逆鱗に触れるなんて言葉があります。ですので、1970年代以前生まれの人にとっては、地雷を踏む=逆鱗に触れると解釈しておけば、ほぼ正解です。」
うんうんと思いながら、そうか、この人からしたら1970年代の人は、私71年ですが、少し古い人ながやと(笑)。ひょっとその年代の人にとっては、この発言自体が地雷を踏んじゅうのかもしれんなと笑ってしまいました。
ちなみに逆鱗に触れるという言葉。中学の時、テストで漢字の読み方を書きなさいという問題で、わからんかったので、さかほこにさわる、と書いたら、それはお相撲さんや(笑)と叱られたことがありました。これも1970年代以前の人にしかわからん話かもしれません。おったねえ逆鉾~って。全くの余談です。
皆さんは、自分にとっての地雷あるいは逆鱗ポイント、ありますか。こういう話題には触れて欲しくない、不快に思うってポイント。
今朝の聖書の御言葉には、当時のガラテヤ教会の人々にとっての地雷が記されています。16節です。「すると、私は、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。」
真理を語った。神様の恵み、神様の救いに関わること、十字架で神様が私たちの身代わりに罪を背負って下さったから、私たちは罪を赦されて救われるという、キリストの福音を語った。自分の力や自分の正しさによる救いではなくて、救いは神様の無条件の愛の力、恵みによるって真理を語った。そしたら、後からガラテヤ教会に入り込んで来た人たちに、んなわけあるか、神様の決まりを守るから救われるんだ、頑張って守らな救われんぞと、教会の人々がそそのかされて、キリストの真理が地雷になってしまった。十字架の恵みの話なら聴きたくないと。
聖書が言う真理。これは、単に本当のことって意味ではありません。ですので、これは、時に私たちがやってしまいそうな、私は本当のことを言いゆうのに何で受け入れん、というようなことではない。
むしろ、例えば誰か私に、話が長いと言うとして、何か先に牽制球を投げゆうみたいですが(笑)。話が長い。ごもっとも。その通り。皆さんにも神様にも申し訳ないと思うのですけど、でも同時に、こうも思う。それだけじゃないですよねと。長い拙い話の中に、でも、あなたと神様の関係に関わる、あるいはあなたの永遠に関わる、本当に大切な真理はありませんでしたかと、祈りつつ思うのです。
別の言い方で、真理とは何かを申しますと、皆さんは「本当のこと」を、しかも上から目線で言われた時、どう思われるでしょうか。
大体そういう「本当のこと」というレッテルを貼ってモノ言う場合、それはその人についての一部でしかない。なのに、あたかもそれが全てであるかのように言っていることが多くないでしょうか。それは実際には本当のことを言ってなくて、その背後に隠されている、もっと大切なことを隠蔽して誤魔化している、嘘であることが多いのだと思います。そこに私たちの真理が隠されていることがある。例えば、清和チャペルで火曜日にお話ししました、あなたは愛されるために生まれてきた、という私たちの真理が、何と多く隠されてしまうことか。
そして誰かに「本当のこと」を言っているつもりで、なのに、自分にも嘘をついて、人に真理を隠すだけでなく、自分にも真理を隠して、嘘に生きてしまう。この人は愛さなくていいとかって。あるいは、ほんの一部だけの「本当のこと」に心を支配されて、本当に大切なことが見えんなって、後で後悔するようなことをしたり、言ったりする。どうして今考えたら、あんなことにこだわって支配されて、本当に大切なことを見失っていたのかと。
星の王子様という本の中で、狐が王子様に言う。「本当に大切なことは目に見えないんだ。」これ、真理ですよ。
自分の正しさに心を支配されていると、本当に大切なことが見えなくなる。神様の恵みも、人は赦されなければならないという、本当は目に見えているはずの真理も。
真理って何か。それは神様が、その私たちが、でも救われるためだったら、ご自分の命を与えても惜しくないと、十字架で私たちの身代わりに死なれるほどの愛で、私たちを愛し見つめておられる、その眼差しのもとで見えてくる私たちの真実の姿です。十字架の赦しと優しさの光のもとで見えてくる、私たちの真実の姿。それが真理です。
私が頑張っているから愛されたり救われたりするのか。そんな頑張る自分を信じる者が救われるのか。違うでしょう。神様が私たちを恵みによって愛され、救われる。それが真理です。
私たちが神様から愛されるための条件を満たすから愛されたり救われたりするのではない。逆です。神様が私たちを愛する条件を満たして愛される。それが恵みです。恵みとは、神様が、唯一つの理由で私たちを愛されることです。そしてその理由とは、神様が私たちを愛しておられるから。I love you because I love you. それが恵みです。
その神様の真理、恵みが地雷になってしまうなんて!でもそれもまた人間の罪の深さという真理でしょう。私もそうでした。最初に十字架の愛を聴いた時、その理由が嫌いでした。愛される理由を自分で満たしたいと思っていました。愛されるに相応しいと認められる自分を、愛される条件を、救われる条件を、自分で満たしたいと思っていました。実に傲慢な人間だったと振り返って思いますが、案外、今は逆に、愛されて当たり前というふてぶてしい態度で、単に振り子が逆に振れただけで、傲慢なのは同じじゃないかと襟を正します。
それでも!です。神は愛です。純粋に、裏表なく、愛です。私たちが傲慢でも、罪でも、神はならば尚のこと一層の輝きで、その全てを包み込んでしまう永遠の輝きを持って、神は愛です。
何故なら、先に申しましたように、私たちが罪でも傲慢でも、それがあなたの全てではないと主はおっしゃるからです。あなたの罪はわたしが引き受けたと、十字架の主は言われます。あなたの傲慢も砕かれると神様は御自分の名にかけて言われます。
罪は永遠ではないからです。永遠なのは、その私たちの罪を引き受けて身代わりに永遠の裁きを受けられて、全て償い、全部負い切られて、だからあなたは生きなさい、永遠の命に、生まれて変わって生きよと、人となられて、代わりに死んで下さった神様の愛です。復活の主イエス・キリストが生きておられ、わたしはあなたを永遠に変わらぬ愛で愛すると約束して下さっている。これが永遠で、真理であればこそ、地雷を踏んでも途方に暮れても、私たちは恵みに抱かれて歩んでいけるのです。