ガラテヤの信徒への手紙4章12-15節、詩編51篇12-21節「あの幸せは今どこに?」

18/4/15復活節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙4章12-15節、詩編51篇12-21節

「あの幸せは今どこに?」

自分の目をって、すごい表現だなと思いますが、臓器移植や角膜移植を望んでおられる方が身近におられる方にとっては、その気持ちわかるって思われるんじゃないでしょうか。

これにはガラテヤ教会が始まった時の経緯が、ことの背景としてあるようです。キリストの使徒パウロが2回目の伝道旅行に遣わされました時、使徒言行録16章にある短い記事ですが、聖霊に禁じられてガラテヤ地方に行ったとあります。聖霊に禁じられて?どんな風にか。この時の伝道旅行の同伴者でありました仲間のシラス、そして言わば神学生のような若い伝道者見習いのテモテと歩いてますと、パウロ先生、誰か道に立っています。ん?よく見たら、道路の警備員みたいに赤い棒を振っている聖霊様が、はい、こっちは通行止めです(笑)。冗談ですが、具体的に何かあったんじゃないかと言われます。今朝の御言葉から推測して、どうも目を酷く患ってコースを変えたんじゃないか。しかも皆から忌み嫌われるような患いだったんじゃないかと思われます。今でも感染する目の患いがあります。

私が前に行った病院で、アレルギー内科だったか、医者が診て、目の感染症かもしれんと、すぐに私が通った廊下の手すりから何から消毒をして回るよう看護婦に命じて、何ですぐ受付で言わんと怒られました。気の弱い私は、それ以来その病院によう行きません。

まして二千年近く前のこと。あの病は悪霊の仕業じゃないかといった偏見や迷信、差別やらがあったようです。だって未だにあるのです。こんな病気になるのは悪い霊に憑かれているせいだからお祓いをせないかんとか。当時であれば、あんな病気になるのは呪われているんだとか、近づいたらいかん、と嫌われるのが普通であったのかもしれません。

じゃあそこで、すごすごと帰ったか?帰りませんでした。でも、ひょっとしたら…とも思うのです。パウロは帰りたかったかもしれません。後にギリシャのアテネに行った時も、伝道に失敗して、うんとへこんで気落ちしておったことを言うておるパウロです。結構、気が強い人なんですが、弱さを知らん人じゃない。体の弱さだけでない。心が弱るということは確かにある。もし伝道見習いのテモテを、じゃあ連れて行きますね、この伝道旅行が祝福されるように祈っていて下さいと、もし連れてきてなかったら、帰りたいという思いに負けたかもしれません。が、連れて来たテモテの手前、また送り出してくれた皆の手前、大丈夫だ、主が助けて下さるから、と信仰の先輩としての姿を見せることで、自分が励まされ助けられたということもあったんじゃないかと思います。

一昨日に私たちの教会の家族、岡林さんが天に召されました。岡林さんも、何度も大病を患われ、老いと病と、色々なものを背負いながら、でも礼拝と祈祷会を大切にして、家から歩いて、この前の坂を登って、この一番前で御言葉を聴いて、主を賛美しておられました。祈祷会も、皆さんも祈祷会に出席されることを願っていますが、岡林さんは、毎回祈祷会で歌う讃美歌を用意されて、備えて出席されていた。おそらく、思うようには歌えなかったのではと思います。かすれたような小さな声で、けれど精一杯、主を賛美しておられた姿を、私は岡林さんの一番前で、いつも見させて頂いて、皆さんと同じように励まされていました。以前に岡林さんが記された文章を読みますと、若い頃に出席しておられた教会で同じような高齢の信徒がおられて、いつも礼拝の一番前の席に座って礼拝を捧げておられた。その姿を見て、私もそのような信徒になりたいと励まされたと記されていました。私たちも岡林さんから同じように励まされておったと思いますし、またそのことが岡林さんにとっては、ご自分が主と教会にお仕えすることのできる喜びと励ましになっておられたと思うのです。誰も一人で生活をしているのではないですし、こうした教会生活また礼拝生活にこそ励まされて、私は聖徒の交わりを信じますと教会は告白するのでしょう。

パウロはガラテヤ教会の人々に、その聖徒の交わり、喜びと幸せは、自分はこんなにもできるのだという、強さによって勝ち取るものではなかったろうと、思い出させようとするのです。

むしろガラテヤの人々は、パウロの病と弱さの中で、キリストの福音を聴いたのです。具体的に、どんな状況だったかはわかりませんけど、ひょっとしたら同じ目の病で苦しんでいた人や、そのご家族と出会って話のきっかけが生まれたのかなとも想像します。そうやって同じ病室にいるキリスト者から福音を初めて聴いて、救いに導かれたという証しは何度も耳にするのです。

無論、だから病にも良いところがあるなんてことは、私はとてもよう言いません。病の苦しさを知っているからです。体も、また心も弱くなります。人にキリストを伝えるなんて、こんな弱い時に言うても聴いてもらえんろう、言うだけ恥ずかしいなどと、ともすると思うかもしれません。伝道者でも弱い時は弱い。それは同じなのです。

しかし、どんなに弱気になっていても、信仰というのは、自分の力を信じるのではなくて、そんな私を主がお用いになられるとお決めになられたら、主は用いられるのだという、主の恵みの力への信頼ですから、弱気になって、ため息をつくような状態でも、主よ、あなたがお用い下さるなら、私は用いられます、お用い下さい、私はあなたのものですと弱さの只中で、自分なんか信じられなくても、恵みの主を信じて祈れるのです。

そして事実、パウロは主に用いられて、え、どうして?という状況でガラテヤ教会の礎となった人々にキリストの救いを知らせることができて、キリストの恵みがその人々に伝わったのです。そんな救いが本当にあるのかと人々が説得されたのは、元気なパウロが、ほうらあなたがたもこれを信じたら、こんなに強くなれるんだとか、そんなんで説得されたのではないのです。むしろ、何だ、信じてもそんな病気になってとかって蔑まれさえすれ、それで説得されるなんてことはないだろうと思う弱さの中で、その弱いパウロが証したキリストの福音に、説得された。いや、パウロがこのガラテヤ書の3章で既に記した言葉で言えば、右の頁を1枚めくって上の段、3章1節に「ああ、物わかりの悪いガラテヤの人たち。誰があなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿でハッキリ示されたではないか。」

ガラテヤ教会の礎となった最初の人たちが、どうやって弱いパウロに説得されたかと言うと、そこにキリストを見た。しかも十字架につけられた姿でキリストを見たからです。強いキリストではない。キリストがおりゃおりゃと敵を蹴散らし、力づくで自分の思い通りに事を運んで、弟子たちも、その力、パワーをもらった~とかって、まるで強い国家を望み力を望む大統領や指導者たちが好むような神とか信仰とか信念とかの自己実現を自己正当化するような、そんな人間の人間による宗教によって説得されたのではなかったのです。神様なのに人となられて十字架につけられて殺されるような弱い神様が、我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですかと、見捨てられ、まるで泣きごとを言うような救い主が、でも、そこまでして私たちの命と罪の責任を全部負って下さり、私たちの弱さも引き受けて、弱くなって、弱い私たちと同じようになって下さって、その弱さの中で、十字架の死の裁きを全部引き受けて、だから、このわたしの身代わりの死によって、あなたの罪は赦されると、父よ、彼らを赦して下さい、自分が何をしているのか、わからないのですと、執り成し、担い救って下さるのです。自分は死んで!それが私たちの罪も汚れも弱さも何もかも、全部十字架で受けとめて救って下さる神様だ。それが私たちのために人となられた神様、救い主イエス・キリストなんだと、弱さの只中でパウロは伝えた。その福音を聴いたガラテヤの人々は、その十字架のキリストを、我が主、我が神と、信じて洗礼を受けて、ガラテヤ教会が始まったのです。

私たちのために、捨てられたキリスト、嫌われたキリスト、十字架で全ての呪いを負われて呪われたものとなられたキリストに出会うとき、そのキリストに私が背負われたのだと知るときに、人は十字架の神様の愛と恵みによって、弱さの中で幸せになれるのです。

それは先に言いましたように、病を肯定するのではないのと同様に、弱さを肯定するというのでもありません。罪を受け入れるということが罪を肯定するのではないのと同じです。肯定はできません。むしろ肯定できないものを、神様が十字架で引き受けて下さったから、死んで受け入れて下さったから、私たちも、キリストが受け止めて下さったからと肯定はできないけど罪を受けとめ、罪があっても人を受け入れ、弱さや病、人から嫌われ蔑まれるようなことがあっても、キリストが受け入れて下さったからと、私を受け入れて下さった主の御名によって受け入れて、だって神様に愛されているからと、一緒に生きて行けるのです。

無論、そこからの解放を願いますし、祈ってよいのです。罪から解放されて生きられますようにと、キリストのように、キリストにお従いして生きていくことを祈り求めるのは当然です。

改めて申しますが、弱さが幸せなのではありません。自分の弱さの中で、神様に愛されていること、救われていることを、自分の真実として知ることができるのが幸いなのです。

強いときは、神様から愛されなくて大丈夫だと思うかもしれません。赦されるということが、わからんなるのかもしれません。けれどそんな正しい自分、強い自分は嘘だったと、弱さの中で、強さの化粧が取れた自分を見出すときに、その私を既に見出して下さっていた神様に出会うのです。十字架の上で神様は既に私の全てを背負って下さっていて、私の間違った正しさも、間違った強さも、全部神様は背負って、償って、赦して下さったと、神様の恵み、キリストの救いを弱さの中で知ることができる。そして信じて救われる、その幸せを、十字架の主が、一緒にかみしめ、育もうと、両手を拡げて望まれるのです。