ガラテヤの信徒への手紙4章8-11節、申命記6章4-5節「この心配からの卒業」

18/4/8復活節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙4章8-11節、申命記6章4-5節

「この心配からの卒業」

随分前ですが、米国に留学していた時、旅先でイースター礼拝に出席しようと大きな教会を尋ねたら、イースターなので教会員以外はお断りという看板があって唖然としたことがあります。帰って友人に聴くと、そういう教会ではクリスマスとイースターだけ礼拝出席する人が結構いて入り切らないからねと言っていました。日本での初詣みたいな意識だと考えたら、わかりよいのかもしれませんが、そこでは礼拝を守るというよりも、今朝の御言葉で言う「あなたがたは色々な日、月、時節、年などを守っています」ということになってないろうかと心配です。

無論、そんながやったら礼拝を守らんがまし、ということではないのです。問題は、どうしたらそこで、神様が喜ばれる礼拝を捧げられるかです。自分の中で、せないかんことになっちゅう礼拝を守るということより、もっと大切な、何をおいても先に知らなければならない、神様を知るという喜びと平安を、あなたは知っていますか。もしかして忘れてしまってはないですかと、今朝の御言葉は問いかけるのです。

聖書は神様を知る、神様に知られる、という言い方を大切にします。それは単に誰かについての知識ではなくて、その相手と、親しい関係がある!という意味です。

例えば、私が誰かから、ねえ、ひふみん知っちゅう?と聞かれたら、知っちゅうよ、彼クリスチャンやし、こないだの青年大会にも呼びたかったがやけどね。え!じゃあ今度、紹介して、ファンながやきと言われたら、ごめん、個人的な知り合いじゃないき、紹介はできん、と答えるでしょう。え、じゃあ誰か有名人で紹介できる人おるが?と聞かれたら喜んでこう答えます。イエス様ならよう知っちゅうき紹介させて。

神様を知るとは、そうした親しい関係があって、人に紹介できる関係を持っているということです。イエス様を信じて洗礼を受けた人なら、いや~礼拝は年に二回しか行ってないき、紹介らあようせん、と小さくなってしまうことが、もしあったとしても、じゃあ何の関係もないが?イエス様は何ちゃあしてくれんかったが?と聞かれたら、いや、私の罪を十字架で赦してくれた、それで洗礼を受けて神様の子供にしてもらったと、イエス様が私のためにしてくれた、忘れてしまったかに思えて、やっぱり大切な事だと信じていることは紹介できる。

あるいは日本人の場合、自意識が先に立って、もう恥ずかしゅうて、神様を知っちゅうらあ、とてもよう言えんと思うかもしれません。もしそう思うなら尚のこと、今朝の御言葉が敢えて強調するように、神様を知っている、いやむしろ神様から知られているのが私たちなのです。

神様が主語です。神様が先立つのです。先ず神様が!私たちをお造り下さり、愛して下さり、失われ迷子のようになった私たちを探し求めて下さって、私たちとの親しい関係を求めて下さり、恥ずかしいと思う私の全てを、汚れも、罪も、十字架の上で全部、受け止めて、身代わりに背負って下さって、これはわたしが何とかするきと、償って下さって、さあ、これで何のわだかまりもない愛の関係に、一緒に生きて行こう、わたしは絶対にあなたを離さんきと手を差し伸べて、愛する我が子よ、と呼んで下さっている神様から、知られている、愛されているのです。神様から!これが福音です。神様がいつも主語。

知るという関係は、単に戸籍上の関係のようなドライで機械的な関係では決してありません。お互いの間に、信頼の間柄がある。それを信仰と聖書は言うのです。信仰によって結ばれた信頼関係を、愛の関係を、神様との間柄として持って、結ばれている関係。だからこそ、一層強い思いで神様から求められている関係だとも言えます。

それは奴隷として仕えるなんてのとは全くの正反対…なのに、何故、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りして、色々な月、日、時節、年などを守ったり、他の決まり、ルールを守ることで宗教的安心を得る、奴隷の状態に身を置きたいのかと、神様は御言葉を通して問われるのです。

「支配する諸霊」と訳された言葉は、上の段の3節で「世を支配する諸霊」と訳された言葉と同じで、諸々の力とか、原理原則とも訳し得る言葉です。例えば仏教で言えば因果応報とかもそうでしょうし、自分は宗教なんて関係ないと思っている人でも、黒猫が横切ると悪いことが起こりそうと、黒猫より速く走って横切らせないとか(笑)。横切られたら横切り返して、よし!おあいこの原則!と、皆さんも、なさったことが…ないですか(笑)。

ま、そうした一切合財の人の心や行動や人生までを支配してしまう、おかしげな諸々の力を全部まとめて、けんど、そんなのは、この世界をお造りになられた造り主であり、またその世界の罪を背負われた救い主であられる神様を知ったら、黒猫が横切ろうと、白ウサギに飛びこされようと、あっはっはと笑って過ごせるようになる。だってそうした原則や勝手なルールに、縛られる必要はなくなるからです。造り主であって救い主であられる神様との愛の絆、信頼の絆で結ばれたら、他のあれやこれやの縛りからも、自由になるからです。

だって信頼の絆で結ばれた相手は神様です。しかも、ご自分が、どういう方であるかを知らせて下さり、いや、あなたにわたしを知ってほしい求めて下さる、親しい関係の間柄で共に生きること、共に喜んで、共に泣くことを望んでおられる神様が、私たちを愛される神様です。友です。その名を愛と呼ばれる神様が、何でも分かち合える家族の関係に私たちを入れて下さって、詳しくは5章で展開されますが、この世界に唯一つ何かルールがあるとするなら、それは、隣人を愛することだと、神は愛だから、だから、この愛に生きること以外の支配なんてものは、全部いかさまだから、そんなルールや原則や、諸々の嘘の安心や不安を与えて、あなたを支配するものから、あなたはこの愛によって自由になりなさいと、神様は、私たちに本当の自由を求めて下さり、与えて下さる。それが十字架の愛と復活の、私たちを救われる神様だからです。

この説教題、この心配からの卒業、という題をつけました。

今の40代50代の方々が若かりし頃、絶大な人気を誇った尾崎豊というミュージシャンがおって、その代表曲「卒業」の最後の歌詞に「この支配からの卒業」という歌詞がある。その「支配」という文字を一文字変えて、この「心配」からの卒業、としたのですが、気づかれた方がおったら嬉しいです。いつかカラオケ一緒に行きましょう(笑)。

色々な心配ごと。あれこれと心配して、心配に振り回されて、不自由になる。どんな心配の奴隷になっているでしょうか。

あれをせな、これをやっちょかな、こんな私は認められんがやないかと、牧師がカラオケとか言いよったら、牧師として認められんがやないろうかと、人から認められることに支配されることもあるでしょう。

嫌われないように、人の顔色を伺うという心配もあるでしょうか。

あるいは嫌われて何ぼよと開き直って、神様が求められる隣人を愛する関係を、求めないということになると、あれ、神様のお気持ちを知っちょったはずなのに、ってことにもなるでしょう。

嫌われて何ぼよという原則に支配されてしまうというのは、ひょっとしたら、自分は人から愛されない人間なのではないかという心配に対する、自分なりに見つけた、力の原則かもしれません。でもそれも、あの無力で頼りにならない諸々の力の一つなのです。その支配から、私たちは神様によって自由にされて生きられるのです。

そのスタート地点は、いつでも神様から始まります。この世界が神様の愛から始まったように。その愛の世界を罪によって破いて、醜くしてしまった私たちを罪と裁きから救い出すためにも、私たちが何をするかからではなく神様が何をなさったか!から始まったように。まことの愛と救いとは、いつでも神様から始まります。

いつもそう。私たちが愛されるための条件を満たさなければならないのではない。神様から愛されるようにしなければならないのではない。そんな心配からは卒業して良いのです。確かに人間の愛であれば、そうでないことが多いでしょう。あんたが先ず愛されるための条件を満たせと、愛されないのも自己責任だと、そんなのばっかりかも知れません。だから神様もきっとそうだと、私の側で愛されるための条件を満たしてなければ、これこれをしてなければ、こんな人になっていなければ…そんな心配に支配され、自分を見失って、神様をも見失ってしまう。

でも、そんな私たちをも、神様は真実に知っておられて、その弱さも愚かさも罪の汚れも、すべてを神様は知っておられて、その上で、全てを受け入れ、私たちを十字架で受け止め切って、愛し抜かれて救われるのです。神様が愛し、救って下さる。私たちに愛される条件が満たされたからでも、私たちが、救われるための条件を満たしたからでもない。すべては十字架の主が満たされたのです。全ての破れと、全ての汚れ、全ての罪の責任と裁きを引き受けて、全ての人のために命を捧げて下さった神様からの捧げものによって、私たちのために捧げられた神様の命によって、私たちのために私たちと同じ人となられたイエス・キリストの死によって、裁きも償いも満たされた。何故か。最初から、皆、神様に愛されているからです。

その神様の満たしを信じて、神様のもとに来ればよい。そうしたら、神様が私たちを満たして下さいます。神様を知れば知るほど満たされます。こんなにも私は愛されていたのかと知るからです。それが神様から私たちに与えられている、愛と自由によるご支配だからです。