ガラテヤの信徒への手紙3章19-25節、詩編143篇1-2節「もし罪の自覚がなければ」

18/3/11受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙3章19-25節、詩編143篇1-2節

「もし罪の自覚がなければ」

説教題に「もし罪の自覚がなければ」と、罪の自覚を与えるために、神様が律法を与えられた目的を端的に述べました。これをわかりやすく私に教えて下さった神父さんがおられました。刑務所の教誨師をされていたマヘル神父です。この方はご自身アルコール依存症を患っておられた経験から、刑務所での脱依存プログラムの講師もされていて、いつもこうおっしゃっていました。自分はこれではいけないと自覚して初めて癒しが始まると。自分も前は、あなたは依存症ですと言われておったけれど、私は違う、自分のことは自分が一番わかっていると思っていた。でも、わかってなかった。それがある時、自分はこのままではいけないと立ち止まって、自分は自滅の坂道を下っていたと気づかれた。無論それまでも、依存症という問題があるということを、頭では知っていたのです。人から、その問題をあなたは持っていると言われていることも、頭では知っていた。でも自覚がなかった。頭で聞いているだけ。

罪の自覚も同様で、それって人間関係でもあるでしょう。人から、それはいかんと言われて、ああ、これはこの人にとっては悪なのだと頭でわかる。自分はこの人にとっては悪いことをしたのかと頭でわかって、自分は悪いと思ってないけど、この人のために、また、今の嫌な状況を脱するために、頭のこととして、わかったと言ったりする。

頭でと言うのは、言い換えれば、自分はこのままではいけない、このままでいたくないと、求めてはないということでしょう。相手はそれを求めていると知っているけど、自分は求めていない。自分が求め欲していることがあるとすれば、むしろ今のままでいたい、変わりたくないという求め、欲望がある。それは聖書にある言葉では、今の自分を欲する自己愛と言います。自己中心、自分自分の罪の根源にある態度としての自己愛を人間は持っている。

先の依存症の話であれば、自分では自分は変わらなくても大丈夫だと思っている。周りの人が心配していても。本人が全く気づいてない場合もあります。で、今のままではいかんでとか、それ依存症でと言うと、今のままの何が悪い、人に迷惑をかけているのかなんて思う。色々言うそっちが悪いとすら思うかもしれません。今のままの自分でいたいと。そこに、今の自分を欲する自己愛の姿が浮き出てくるのです。

これがほぼそのまま、では何故、神様は律法を与えられたかにスライドします。自分では、大丈夫だ、私はそんな悪いことはしてないと思ってしまう私たちに、神様は、じゃあ、これしてない?これは死に到る罪だと、神様の正義を明らかにする律法を与えられた。え?それ罪なが?と一先ずは頭でわかるためでもあります。本当に知らない人は、先ずは正義を知識として知る必要があるからです。例えばそれがどんなに大勢の人の当たり前であったとしても、夫婦以外の関係の性的求めは罪だと知らんかったら、え?好きだったらいいんじゃないのと。

ただ、頭でわかったとしても、じゃあ、その罪を犯さないか。頭では分かっていても犯す罪というのがある。と言うか、ほとんどじゃないでしょうか。で、それでも人間は、この場合は仕方ないとか、情状酌量の余地がある、だって皆やっているんだからと、戦争責任みたいにして、私だけが悪いんじゃない、皆が悪いとか。あの人に比べたらとか。人を見て、自己正当化できる理由を探したりするのですけど、聖書は、律法によって明らかにするのです。それはルール違反、罪だと。

19節では更に続いて、律法が、制定された経緯も述べられています。これはこの後、皆で唱和する十戒に代表される律法制定の経緯ですが、エジプトで奴隷とされていたアブラハムの子孫、イスラエルを、神様はアブラハムへの約束通りにエジプトから導き出し、こう言われました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。わたしはあなたの神だと明らかにされた。それは神様と人々との関係を明確にされたのであって、譬えれば妻が私に、あなたには私をおいて他に妻があってはならないと言うように、当たり前のことを言われたのですが、その神様の当たり前が、私たちの当たり前ではなくて、これぐらいはえいろうと思ったりする。それに対して神様が、いや、それは死罪だと、違反を明らかにするために与えられたのが律法です。特にモーセの時代、イスラエルの民はエジプトで当たり前だった考えや生き方に毒されてましたし、更にはエジプトから導き出された民の中には、アブラハムの子孫以外の、様々な民族背景を持った人々が、神様の奴隷解放の御業に一緒に包み込まれて救われておりましたから、彼らからしたら、本当にわからんのです。アブラハムに人類全体の救いを約束された聖なる神様の当たり前が。関係の正義が。神様の正義が。何が正しくて、何が罪で、罪を犯すとはどういうことか。頭の知識としても、わからない。だから律法が与えられたという経緯もある。

そして、です。モーセの時代から1500年後、いよいよ約束通りに神様がアブラハムに約束された、あの子孫、人となられた神様、キリストが来られた。その時、当時の宗教的エリートで、自分は律法を守っているから救われると思っていた人がイエス様に問うた。理由があれば妻を離縁することは律法に適っていますか。モーセは離縁状を書いて離縁することを許可していますと言った。そしたらイエス様が「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と答えられました(マルコ10章)。これが19節20節で、律法は「仲介者の手を経て制定されたもの」であって、神様が、救い主を与える!と一方的な恵みとして与えられていた約束の救いとは別物なのだ、と言っている一例です。むしろ律法によっては、人は自分がどんなに頑固で罪深いかを明らかにされるのです。でもそのことで、ああ自分には約束の救い主が、本当に必要だと、まるで依存症の人が、自分はこのままではいかん、自分一人で自分を何とかできると思っているのは、自分自身に頑固な嘘をついているのだ、自分には、自分を助けてくれる自分ではない誰かが必要だと自覚して初めて癒しが始まるのと同じように、自分の外に救いを求めるようになる。自分の外にある救い、いやもう既にここに来て下さった、この罪のためにこそ私たちのもとに既に来てくださった約束の救い主、十字架のキリストに、私にはあなたが必要ですと心が向くのです。

これが24節で「こうして律法は私たちをキリストのもとに導く養育係となったのです」と言われている所以です。

それは24節で続いて言われますように「私たちが信仰によって義とされるため」です。つまり神様が、そう、それがわたしがあなたに求める正義、私とあなたの間にあるべき信頼関係の正義だと。その信頼関係、正義を破く罪を、またそこで破かれて踏みにじられた被害者の正義を、決まりを守るから、なかったことにする?罪も、被害者も、なかったことに?そんなふざけた正義はない!それは不義であり、悪であるから、罪はその正義の執行、裁きによって償われ、そして破かれた関係は、その被害者に赦されるしかないのだから、その赦されて再び差し出された信頼関係の求めに、はいと応えて共に生きるあなたとの命が、それが、わたしたちの正義だろうと主は言われるのです。

だから、この信仰による正義こそが、神様の喜ばれる正義であると、私たちにハッキリ示されたから、私があれをこれをやるから自分は正しいと認めるのでもないし、そんなお一人様の自己正当化は神様が望まれる正義ではないとハッキリしたのだから、だからもう、律法に縛られて支配されて生きるのはやめよう。自分はこれをやっているからとか、これをやってないからと、律法に縛られた生き方は、もうやめようと、主は言われるのです。むしろ、そのあなたの全てを包み込む神様の救い、キリストの愛の絆に、あなたは安心して身を委ねたら良い。神様の恵みによる救いに全身全霊をお任せして、信頼によって救われる神様の正義に、はいと応えて生きて行こう。神様が、そうだ、それがわたしがあなたに求める愛の正義だと、この信頼関係によって生きる愛と信頼の正義以外に、どんな正義の根拠をあなたは持ち出してくるのか、そんな正義はあなたを救わないだろうとおっしゃってくださる。その信頼関係の正義、信仰による義に、身を置いて生きればよいのです。

最後に、22節で「聖書はすべての…閉じ込めた」、また23節で「…閉じ込められていました」と語られているのを説き明かして終わります。

閉じ込めたと言うと不自由な印象を持ちますが、むしろ、そのことで神様は、人間関係ならまだしも、神様との永遠の正義の関係においては一つの例外も曖昧な関係も妥協せず、例えば夫婦のような夫婦じゃないような罪のような罪でないような、そんなモーセが妥協したような抜け穴を、神様と人間との正義の関係においては、一切用意されなかったということです。罪を犯すことが当たり前の人間関係や社会においては、罪やけど、まるで罪ではないように、罰しないことがある。でないと皆死に絶えるしかないから、罪だが致し方ないという留保が、あっても、それで最後の審判においても、裁きを受けないということではなくて、一切の罪が罪として裁かれる以外、完全に罪を裁いて正義を全うする道以外には、正義の関係の回復、救いの道はないと、神様が妥協しなかったということです。だって、あなたを永遠に正義とし、永遠の愛の正義によって神と人とが共に生きていく一切の妥協なき正義の道、罪人の救いの道は、ここにしかないだろう!と、その一切の罪の裁きを、神様が負われたのです。私たちのため、私たちの身代わりとなる、私たちの主として死なれるために人となられた三位一体の御子である神様が、人の罪を全部負われた。キリストが一切の正義を、全ての罪による被害者の嘆きと痛みと叫びと、それを償う完全な正義の執行を自らに負われて、全て終わったと叫ばれて、一切妥協なく完全に見捨てられた罪人として十字架で死なれた。そうして全てのものに対する聖なる神様の妥協なき正義は、キリストに執行され、私たちの罪が償われたのです。

そのキリストの救いが私には必要ですと、救いの主を信頼する信仰を通して、主が十字架で満たされた正義が、私たちの正義となることを、神様は、そうだ、それが私たちを満たす正義だと言われるのです。