ガラテヤの信徒への手紙3章15-20節、創世記15章4-6節「最初の約束守ってる?」

18/3/4受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙3章15-20節、創世記15章4-6節

「最初の約束守ってる?」

約束によって、これあげるきねと、純粋に約束だったものが、いつの間にか、いや、これこれをせなあげれんとか、あんなことしたき、お前にはもうこれをもらう権利はないって、最初に約束で始まったものが、条件付きの決まりにとって代わってしまうってこと、ひょっと私たちの間ではあるかもしれません。これ、約束を信じておった側からしたら、え~約束やったやか、卑怯な、って話になるでしょう。大人がそういう卑怯なことを子供にしてしまうってこと、ないでしょうか。

今朝の御言葉が、どうしても私たちに分かってもらいたいと言って、言葉を重ねて説得をしているのは、つまりそういうことです。神様は、そんな卑怯な大人のするようなことはしてないろう。救い主を与えるという神様の約束で始まった救いの話が、いつの間にか、律法によって、これをせな救われん、割礼も受けないかん、あれもこれもそれもどれもという、決まりを守るか守らんかによって、天国が左右されるという話に、いつ取って変えられたのか。神様が、卑怯な人間みたいに、途中で話をすり替えたと言うのか。そんな阿呆な話がどこにある。神様の恵みの約束を、あれこれの決まりの話にすり替えて考えゆうがは、むしろ、そういう卑怯なことを、いつの間にかやってしまっている、私たち人間じゃないのか。そのことを、分かりやすく話しようじゃないか、というのが、今朝の御言葉の大筋です。

分かりやすくと聖書が言うておりますので、分かりやすく聖書の教える救いのイメージを申します。それは罪によって失われた神様との親子関係が、キリストのおかげで回復して、親子であれば当然のこととして相続する親の財産を、ただその関係の故に相続する。それが聖書では、永遠の命を受け継ぐという言われ方もしますし、天の国はその人のものだとも言われます。が、要するに、相続するのです。親子だからです。それが先に共に祈りました、主の祈りで「天にまします我らの父よ」と父なる神様に呼びかけ祈った理由でもあります。

それで今朝の御言葉は、救いを分かりやすく説明しましょうと、遺言とか相続という親子の話をするのです。それがアブラハムに、そもそも与えられていた、世界の祝福、救いの相続の話だったじゃないかと。

ただし先に申しましたように、神様との親子の関係は、まるで人類皆兄弟と、自動的に人間だからというような理由で、機械的に言える関係ではない。そんな神様と隣人に対する罪の問題を無視した機械的な関係ではないと聖書は教えます。人間関係だってそうでしょう。親を親とも思ってないのに、親父、金くれ。それはない。そこには罪はあっても、本来あるべき信頼の関係は、罪によって破れています。それを、何で?信頼らあ別にいらんろう、親と子の機械的な関係で別にかまんろうという態度で、親が子に金くれるがは、決まりだと。それを神様との関係にもスライドさせて、神が人を救うがも決まりやろ、こっちだって決まりを守って正しくやりゆうがやきという、信頼なき、決まりの宗教を人間は作ってしまうのです。そんな機械的な関係、本当は嫌なのに。

じゃあ神様は、愛の破れた人間が考え出す宗教に全く反して、そんなにも破れた関係を、どうやって回復させようと決められたのか。そして神様との関係を破いただけじゃなく、人間同士の関係をも引き裂く罪の問題、言い換えれば罪による被害者を踏みにじらないで、正義を馬鹿にしないで、正義と裁きの問題を、満たした上で、なお私たちと神様とが信頼によって結ばれる親子関係を、どうやって回復して、私たちを罪と裁きから救おうとなさったか。それが今朝の御言葉の背景です。

ではその救いとは、どんな救いか。世界全体の罪を、神様が身代わりに背負い、身代わりに裁かれ、人間全体の代表として死なれることで、正義の執行を満たすことにされた。そのために三位一体の御子なる神様を人として、アブラハムの子孫として生まれさせることで、その救いをなそうと、神様はアブラハムに約束をなさった。それがここで言われている「約束」です。それで、ほら、聖書に書いてあるだろう。その約束の子孫というのは、ただ一人の子孫を指している。つまり、キリストを最初から指していて、世界の全ての氏族は、こうして神様の祝福に入るんだと、最初から約束なされておったじゃないかと。

それを無視して、約束から430年後に与えられた、いわゆるモーセの律法を守るき救われるがやろうと、まるで後出しじゃんけんみたいに、救い主なんかいなくても、自分は律法を守っているから、だから正しいじゃないか、救われて当然だと、もし言うのなら、なら!あの約束は、どうなったのか。ああ、あれ?別にいらんしと言うのか。神様がそう言われたのか。そんな途中で、やっぱり、あれこれの決まりを守らな救われんことにすると、卑怯な大人みたいに、子供に対する恵みの約束を、そんな約束らあしたかやと、聖なる神様が、なかったことにしたとでも言うのか。違うろう。何もかもごちゃ混ぜにしちゅう、と言うのです。

じゃあ律法は何で与えられたかという話もするのですが、それは次週説き明かすことにしまして、最後に、今朝の御言葉と大変似たお話しをイエス様がなさったことに心を留めたいと思います。聖書お開きになる方は新約聖書139頁、ルカによる福音書の15章11節からです。ああ!と思われた方もおられるかもしれません。イエス様が教えられた福音の中の福音と呼ばれる、放蕩息子の譬です。12節で、お父さん、相続財産を、もうくださいと弟が言う。父親はまだ元気なのに。失礼な奴です。機械的な関係で、親子やろ、どうせ相続するがやろってことか。現代人が、え、死んだら天国やろと、父のことなど考えず、自分のことだけで天国を考えるのにも似ているでしょうか。そういうことになっちゅうがやろと。で、この息子、相続を放蕩し尽くして失って、家にも帰れん。だって遺産相続ですから、父親を殺したようなものです。父との関係が終わったことにして、晴れて全部俺のものになったって、本来信頼関係である父との関係を、金にして、自分の好きにして、全部無くなった。で、殺した父に、会えるでしょうか。関係は殺して金にして、もう無いのです。自分のせいで無くした関係をあてにして、この関係の故に家に入れてください、親子じゃないですか、とは言えん。弟はそう考える。機械的な関係で言えば、そうでしょう。それは金に換えて失ったのですから。でも、親子の関係は失ったけど、雇い人としての雇用関係、仕事の関係だったら何とかなるんじゃないかと考える。つまり決まりを守る見返りにお給金をもらう関係でならと。これが信頼なき、決まりの宗教ですが、でも全く信頼がないわけでもない。だって父親は本当は死んでないからです。だから弟は、お父さん、私は天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました、ごめんなさいと、お父さんと呼んで、罪を悔い改める。そこが急所です。父親にとっては、それで十分なのです。雇い人みたいに、決まりを守る見返りの関係で救う?馬鹿なことを言うな、お前は俺の愛する息子だと、ぎゅっと抱きしめて言うのです。この息子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに、見つかったと。

イエス様は何故この譬えをなさったのか。ガラテヤ書の御言葉と同じで、私たちに分かりやすく説明して、説得しておられるのです。決まりを守るから救われる?違うだろう。天の父は機械的な決まりを守る他人の代表として、わたしを遣わしたのではない。父は信頼に生きる我が子として、あなたに天の祝福の全てを相続しようと、わたしを遣わされたのだと、だからその父を信じ、わたしを信じなさいと言われたのです。そのイエス様が十字架で守られた約束を、信じる者は救われるのです。