ガラテヤの信徒への手紙3章13-14節、申命記21章22-23節「私のために呪われた神様」

18/2/25受難節第二主日朝礼拝説教@高知東教会

ガラテヤの信徒への手紙3章13-14節、申命記21章22-23節

「私のために呪われた神様」

キリストが私たちのために呪いとなった。すごく強烈な言い方です。

ひょっとホラー映画の貞子みたいなイメージで、人を呪う対象としての呪いになったように思われた方がおったら、大急ぎで誤解を解かないかんでしょう。キリストが呪いとなったというのは、そういう意味ではありません。むしろ呪われてない部分など一切ないほど、呪いそのものになったと言えるほど、完全に呪われた。あるいは一切の祝福から切り離されたと言ってもよいでしょうか。

聖書が言う呪いは、先週申しましたように、神様に対しても人に対しても、自分は正しい、自分は自分は言うて自分を押し通して、共に生きる、愛に生きる命の的を外して、的外れな存在に私たちがなっていて、それに対して神様が言われるのです。それであなたが良いと言うなら、それでも自分は正しいと固執するのなら、じゃあそのあなたの正しさに従って、愛の関係から切り離された存在になるが、それでいいのかと、結果、神様と共に生きる命から切り離される。その関係を失った存在の在り方を、聖書は呪いと呼ぶのです。それは命に愛に共に生きる祝福の反対の在り方を言うのです。ですから、別にお化けみたいになるのではない。恐ろしげな力もない。むしろもっと恐ろしい、考えたくもない、無意識に避けてしまうような行き先を、だからキリストが身代わりに、引き受けられたと言われるのです。

キリストは、私たちのために呪いとなられた。神様である方なのに、いやむしろ神様だからこそ、私たちの呪いを引き受けるために、人となられて、だからあなたたちは決して呪われた存在になってくれるなと、私たちの身代わりに完全に呪われた。呪われてない部分など一切なく、その体も精神も霊も、その生きておられるイエス・キリストという存在の全身全霊において、呪われてない部分が、わずか1mgもないほどに、主は十字架で呪いとなられた。もし色で言うなら、キリストの存在そのものが全部どす黒く腐ったような罪の色に染まり、あたかも、見よ、これが罪を犯す人の色であると、全部呪われ、全部愛の的を外して全部が自分自分の色に染まって、キリストは私たちの身代わりに、父なる神様から切り離され見捨てられて呪われて死んでくださった。その一切は、私たちのためであったと、聖書は全力で告げるのです。

20年ほど前だったか、もっと前だったか、NHK大河ドラマで豊臣秀吉のドラマを放映しておりました。私は年末のまとめを見たのですけど、一つ忘れられない場面があります。まだ秀吉が主君織田信長の家来としてお仕えしておった時でしたけど、秀吉は、信長から延暦寺の焼き打ちを命じられた。竹中直人さんが演じておりましたが、もう本当に悩みの表情でおりまして、それを知った母親が秀吉に言うのです。母ちゃんが代わりに地獄に行ってやるで。心配せんでええ、と。その場面を見ながら、私はイエス様の思いが、お母さんの思いと重なって、グッと込み上げてきました。私はこうした、誰かが自分から身代わりになるという話に、とことん弱くて、すぐに涙腺が緩むのですが、それはたぶん私だけではないでしょう。

まあ、もっとも、私は同時に理屈臭く考える性格でもありますので、じゃあ実際に、牧師が言うのも変ですが、もし閻魔さんがおったとして(笑)、お母さんが、母ちゃんが代わりになるで、と言っても、代わりになるかなれんか決めるのは閻魔さんだわなと。その閻魔さんに対して、鬼!とか言っても仕方ない。ま、閻魔はたぶん鬼より偉い設定じゃないかと思いますが、人でなし!と言っても同じでしょう。人でもないからです。むしろ、罪ある人間が、どうして身代わりになれるのか、自分の罪の裁きは、じゃあ誰が負うのかと問うんじゃないでしょうか。

けど!です。もし閻魔さんが、だから俺がお前らの代わりになるで、と言ったら、母ちゃんは、どんな顔をするでしょうか。ドラマの脚本家なら、いや、それでは人情話が台無しになるからと不満な顔をするかもしれませんが、もし秀吉のお母さんが本気で子供の代わりに自分が地獄に行ってもいいと、自分のことなんか考えないで子供のことだけ考える愛に、突き動かされて、母ちゃんが代わりになるで、と言ったのなら、この母親は、ひれ伏して感謝するのじゃないでしょうか。

おわかりだと思います。牧師が言うのも変ですが、この閻魔さんが、クリスマスに人となられた神様、裁く方でありながら、裁かれる私たちの身代わりとして人となられたイエス・キリストです。神様が、私たちの罪と罰、裁きと報いと結果としての呪いを引き受けて下さったから、だから私たちは呪いではなくて、その反対に祝福に生きられる。つまり神様と共に生きられるのです。その神様と共に生きるために必要な絆、あるいは信頼の関係を、信仰と呼ぶのです。

それは何度も言いますが、私はこんなにも信じてます!というような態度の、相手との信頼関係が無視される類のお一人様の信仰ではない。共に生きるために必要な絆としての信頼です。その信頼がお互いの間を行き交って、あ、これって本当に共に生きる関係なんだと心で分かる。秀吉の話で言えば、もし、え、母ちゃん、そんなことしてくれんのか、お、助かるねえ、じゃ後はよろしくねとかって、自分は自分の道を行くっていうのだと、人情話としても最低!って話になりますが、何より、母ちゃんの落胆は、如何ばかりでしょうか。私たちの間には信頼の絆、関係がないのか、私は便利な使い捨て道具かと。ひょっと多くの母親や妻が苦しむ状況が、じゃあ神様を信じる信仰って何のか、ということに当てはまると言えば分かり良いかもしれません。

今朝の御言葉の14節で、これはキリストが呪いとなるほどに十字架で私たちのために死なれたのは何故か、を説明している箇所ですが、こう言うのです。「それは…ためでした。」

アブラハムについては次週また説き明かしますので、今回は繰返しませんが、その祝福というのは、要するに先に申しましたように、神様と共に生きる命の祝福、しかも永遠に共に生きる祝福は、自分自分の態度で、私はこんなに頑張って正しく正しくっていうお一人様の正しさでは得られない。だってそれでは共に生きられんからです。それをキリストが、だから、さあ私がその間違った正しさを十字架で負って呪いを引き受けるから、だから一緒に生きよう、私があなたと共に生きるからと、キリストによって祝福は与えられる。で、それと同じように、その共に生きる祝福は、無論、自動的にそうなるっていうのではない。人間関係と同じで、信頼するというのは、自動じゃない。私はあなたを信じますと、もしかしたら裏切られるかもというリスクをさえ負いながら、でもそういう不安を感じる自分を信じるより、むしろそういう自分を捨てるようにして、私はあなたを信じると、共に生きる道を選ぶのです。その相手を信頼する、この場合、神様を信頼する信仰によって、じゃあ何を受けるのかというと、“霊”を受ける。記号付きの“霊”を信仰によって受ける。

この記号が付いている“霊”は、人間が皆生まれつき持っている霊と勘違いしないための工夫ですが、つまり三位一体の神様の霊、聖霊様を信仰によって受けるのです。何でか。共に生きるという祝福の中身を、空っぽにせんため、口だけにせんため、と言えば良いでしょうか。

それは、言わば神学的には、キリストを信じて洗礼を受けると共に、聖霊様が私たちの内に住まわれて、たとえ目には見えなくても、神様がいつも共に生きて歩んで下さるということが、実際に起こるためです。それで、神様は口だけじゃなくて、ほら、だからお一人様の信仰なんかではないのだ、共に生きるための信仰なのだということが、証明されるとも言えるのですが、聖霊様によって神様が共におられるというのを、神学的にそうだから、聖書が言っているから、そうなのだと、もしそう勘違いして、それが信仰だとやってしまうなら、何だ、結局、理屈だけ口だけじゃないかとのそしりを免れないでしょうし、もっと悪いことには、いや、そんなことはない、本当にそうなんだ、俺はそう固く信じていると、信じればいいのだ、信じないお前が悪いのだと、結果、自分がどれだけ頑張って信じているかという、自分が前面に出て、自分が信仰を支えているように勘違いする悪循環も、免れ得ないでしょう。

しかし、神様から約束されていた聖霊様を信仰によって受けたるためでしたと、御言葉が教えているのは、むしろ全く反対に、自分を捨てるようにして、自分ではなく、自分の相手である神様の約束を信頼して、もし聖書が証しする通りの神様がおられんのだったら、私は幾ら信じて自分を相手である神様に向かって差し出しても、それは虚しく、自分は虚しい空間に、自分の思い込みに投げ捨てられるだけだと思うような、そういう目に見えない神様に向かって、イエス様に向かって、信頼する相手に向かって身を差し出したら、相手がおられて、神様がおられて、聖書に繰返される言葉で言えば、主は生きておられると、良かったと、嬉しいと、信頼が一方通行にならなくて、その信頼の絆、信仰を言わば神様との関係が通い合うのです。その関係の通い合い、信頼の絆の中身を満たすお方が、神様から約束された聖霊様だからです。

そうやって神様との信頼関係に共に生きるという、口だけでなく共に生きるという祝福の内実を、聖霊様が具体的に取り持ち満たして下さるから、自分一人で頑張って満たすのではないから、そんなことをさせるような神は、キリストを私たちの代わりに呪いとされた神様ではないのだから、だから私たちは、もはや自分が頑張って信じているからというお一人様の信仰からも、また自分を信じて神様から切り離される呪いからも、解放されて、神様と歩んでいけるのです。それが今朝の御言葉で言われています、律法の呪いから贖い出されるという救いだからです。

キリストが私たちを贖い出して下さった。そのために十字架で呪いとなられて、我が神、我が神、どうして私を見捨てられたかと、叫ばれ、天の父から見捨てられて死んでくださった。それは全て私たちのため。私たちが、父・子・御霊の三位一体の神様と共に、信頼関係に結ばれて共に永遠に生きるためなのです。